あなたは神様から離れていると感じますか?
クリスチャンも含めて、多くの人が、自分は神様から遠いと感じてしまいます。
聖書の中では近い、遠いと言う描写がよく使われています。しかし、これは実際に神様から離れたと言う意味ではなく自分の感じ方、また思いの中の状況を表しています。
例えば:
「高ぶる者を遠くから見抜かれます。」詩編 138:6
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。」詩編 34:18
「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。」詩篇10:1
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」マタイ 15:8
これは全部、人間からの視野で、心の状態を表しています。
全能の神様、普遍なる神、遍在なる創造主です。実は、絶対に離れることはできません。
「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」エペソ 4:6
また、ダビデが言ったように:
「御霊から離れて、どこへ行けましょう。御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、天に上っても、そこにあなたはおられ、よみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」詩篇139:7-8
では、神様がいつも近くに居られる事が真実なら、どうして私たちは、よく神様を遠く感じるのでしょうか。
このイメージを考えてください、お父さんが眠っている子供をだっこしています。
子供が爆睡していて、悪夢を見ています。その悪夢がその時の子供の現実です。本当に恐くて恐ろしい、孤独な気持ちなどを体験しています。
ある意味、地獄にいるかのように、苦しんでいます。
でも、全てが実際に感じている仮の現実です。
いつでも悪夢から目覚めれば、本当の現実が待っています。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」エペソ 5:14
放蕩息子の話の中にも、これがはっきりと見えます。
豚小屋にいるときに、弟が、我に返ったと書いてあります。(ルカ15:17)
目覚めた。本来あるべき現実を認めた。
もちろんこの例え話のイメージは、ほうとう息子が遠いところに行って、戻ってきた。
しかし、覚えてください。動いたのは父ではなく息子、子供です。
お父さんは同じ場所にいる。
もし、私たちが神様から遠く感じるならばそれは私たちの見方です。
「悔い改め」の本来の意味、向き直して、新しい思いに切り替える。
放蕩息子の様に我に返ったらいいですよ。
悪夢から目覚めたらいいのです。
では、あなたの仮の現実から、神様にある本来の現実に逃避したらいいのです。
今まで紹介したツールを少し繰り返します。まだ見ていない人はぜひ以前のメッセージを見てください。
・まず、思い出して、神様にある、本来の優れた現実に目を留めることです。
・永遠の目的を常に覚えること
・賛美する心を育てること、学ぶこと、習うこと
今日も続けて大きな鍵を見ます。
それは、すべての権利を主に委ねること、明け渡すことです。
もしかしたら、私たちが神様からの距離を感じる理由は、ここにあると言えるかもしれません。
まだ叶えられていない願い、過去の失望や失敗によって、神様に対して不満を抱くこと。
私はこの経験がありました。
14歳の時に、7歳上のお兄さんが登山事故で亡くなりました。
若いクリスチャンとして、素直にその悲しみを乗り越えようとしましたが、無意識に、神様に対して不満をかかえてしまいました。
ずっと、神様から距離を感じていましたが、なぜだか、分りませんでした。
その、2年後、ある集会の後に、長老の一人が私のところにやってきて、知識の言葉を教えてくださった。
「ジェフには、痛みが見えます。それは何か、わかりますか?」と彼が言いました。
私が正直に返事しました。「いや、分りません。」
本当に、意識していませんでした。
彼が、「祈ってもいいですか?」と言って、僕は、「どうぞ、お願いします。」と返事しました。
彼に祈ってもらった、その瞬間、僕が急に号泣して、
「神様、何でお兄ちゃんを殺したか?」と叫びました。
叫んだと同時に、その時までかかえていた痛みと悲しみを全部神様に吐き出しました。
その結果、心が神様の愛の啓示、平安と希望で満たされました。
不思議に、僕は、もはや、お兄ちゃんの死について、なぜそれが起こったのか知る必要がなくなりました。
神様の愛と平安で十分になりました。
30年前の話ですが、もちろん、お兄ちゃんのことを思い巡らすことはあります。
しかし、その時から、お兄さんの事故についての「なぜ?」という質問の答えを聞く権利、神様がちゃんと説明してくださる権利、神様に訴える権利も、全部委ねました。
皆さんはどうですか?
これは、不思議なバランスです。
神様に本音を打ち明けること、と同時に、全ての権利を委ねる必要があります。
自分の気持ちに蓋をするのではく、その気持ちを認めます。
「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」詩篇 62:8
「あなたの重荷を主にゆだねよ。」詩篇 55:22
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」1ペテロ 5:7
と同時に、
自分が聞きたい返事を頂く権利を全て捧げる。
神様が答えられるかどうか、どのように答えられるか、いつ答えられるか、あなたの祈りに叶えられるかどうか、その全てを主に委ねること。
過去に起こったこと;
あの病気はどうして癒されなかったのか。
どうして、あの人は亡くなったのか。
何であの人との関係は上手くいかなかったのか。
現在のこと:
いつですか、主よ。
経済的な突破口はいつくる?
いつあの人が救われる、癒される、解放される。
あの預言はいつ成就される?
将来、結婚するのかどうか?
いつですか?
こういう権利を全部、主の御手にゆだねましょう。
皆さん、僕も、疑問、質問がいっぱいあります!
なぜだか、知りたいことが沢山あります。
しかし、主の近くに留まるために:
「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」詩篇 131:2
皆さん、これは大きいです。
私たちは、自分に死に、キリストに生きる時に、全ての権利にも死んでしまいます。
今日はこうしましょう:
自分の疑問、知りたいこと、聞きたいこと、こういう問題、ああいう問題、全て、荷物のように、主のみ前に置きましょう。
そして、正直に主の前に参りましょう。
神様の愛と平安に留まりながら、自分の心の傷、失望、苦味、恨みを全て洗っていただきましょう。
預言者ハバククのように、
預言者は、素晴らしい約束を主からいただきました。
「私は静かに待とう。
そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、
ぶどうの木は実をみのらせず、
オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。
羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
しかし、私は主にあって喜び勇み、
私の救いの神にあって喜ぼう。」ハバクク 3:16-18
祈りましょう:
神様、あなたは本当に近くにおられます。
人間として生まれ、私たちが経験する全てのことを経験してくださいました。
キリストにあって、私たちと共におられ、私達の中におられます。
時々遠く感じることがあります。
でも、真理は、あなたは絶対に遠くない。
私が自分の重荷、疑問、質問;実際に抱えている不満や疑問、「なぜ?」の答えを受け取る権利を、今日、あなたの前に手放します。
(実際に持っているその重荷を口に出して祈ってみて下さい。)
あの時感じた屈辱。失望。あなたへの信頼を失ってしまった事。
それらを、今、手放します。あなたに手渡します。
空になった手を広げて、あなたの御前に参ります。
あなたが、今日、下さるものを受け取らせて下さい。
失望、疑問、不満の代わりに、あなたが下さる物は何ですか?
受け取ります。アーメン