コーリー・テン・ブームは 1892年、オランダのハールレムで生まれた。時計職人をしていた父カスパーは、敬虔なクリスチャンでその家はいつも「開かれた家」だった。それは、1940年、ドイツ軍のオランダ侵略によりユダヤ人への迫害が続く時も変わらなかった。
テン・ブーム一家とその友人たちは、ユダヤ人が次々と街から姿を消していく中、危険を知りながらも、のべ800人のユダヤ人たちをかくまい救った。この非暴力の抵抗は、テン・ブーム一家がクリスチャンとして生きる証しだった。
しかし、1944年に一家の地下活動の働きは密告される。84歳だったカスパーは逮捕され十日後に、兄はすぐに釈放されたが牢獄で感染した病気で亡くなった。
コーリーと姉ベッティーは、十か月の間、拘留された。収容所での生活は我慢に耐えないものだったが、コーリーとベッティーは、仲間の囚人たちにイエスの愛を分け与えて時間を過ごした。そして彼女たちの証しは、多くの女性をキリストへ導いた。
ベッティーは、その年のクリスマスの前に亡くなり、コーリーはその数日後、釈放された。後に明らかになったことだが、実は、その釈放は事務的な「ミス」によるもので、その出所一週間後に、彼女の年代の女性たちは皆、ガス室に連れて行かれていた。
家族でただ一人残されたコーリーは、自分の人生は神から与えられたのだと悟った。そして、彼女は収容所で学んだこと、つまり神の愛はとてつもなく深く、神は敵を赦すことができる愛を与えてくださるということを人々に伝える必要を覚えた。コーリーは53歳で、宣教師となった。その後、32年の間に、60以上の国々にわたり、「イエスは勝利者」であるというメッセージと共に、神の愛と勇気を証し続けた。

「苦難から逃れられる?」1974年

それは間違いです!

世界は死の病にかかっています。死に瀕しています。「偉大な医師」はすでに死亡診断書に署名済みです。それでも、クリスチャンが行うべき大仕事が残っています。

クリスチャンは生ける水の水路であり、まだ命ある人々への憐れみのチャンネルです。

勝利者であるがゆえに、このことは可能なのです。

クリスチャンはキリストの大使であり、死にゆく世界に対する天国の代理人です。ここは私たちの存在により、状況が変わるのです。

姉のベッツィと私は、ユダヤ人を愛するという犯罪を犯したため、ラーフェンスブリュックのナチス強制収容所にいました。

オランダ、フランス、ロシア、ポーランド、ベルギーから700人が定員200人の部屋にすし詰めにさせられました。

私の知る限り、その部屋にいる天国の代表者(クリスチャン)はベッツィと私だけでした。私たちはその憎しみの場所で、唯一の神の代理人だったかも知れません。しかし、私たちがそこにいたために、状況は変わりました。

イエスは言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

ヨハネの福音書16章33節

私たちも勝利者になるべきです。そして、暗闇と憎しみに満ちた世界に、イエスの光をもたらすのです。

聖書を読んで世界を見回し、聖書に約束された苦難と迫害の全てが現実化しているのを見ると、私は怖くなります。

あなたも恐れているでしょうか?でも私は聖書の巻末の数ページを読み終えたばかりなので、「ハレルヤ!ハレルヤ!」と叫ぶことができます。イエスの次のことばが書いてあったからです。

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

ヨハネの黙示録21章7節

これこそが、世界の未来と希望です。この世界が生き残るという意味ではなく、死にゆく世界の中で、私たちが勝利者とされるということです。

ベッツィと私は、強制収容所の中で、神がベッツィを癒してくださるように祈りました。彼女は重い病気でとても衰弱していました。

「神は私を癒してくださいますとも」と、ベッツィは確信をもって言いました。彼女は翌日に亡くなりました。私には理解できませんでした。

看守らはベッツィの痩せ細った体を、その日に亡くなった女性たちの全ての死体と一緒にコンクリートの床に置きました。

神は全てのことに目的を持っておられると理解するのも信じるのも、私には困難でした。

しかし、ベッツィの死により、今日、私は世界中を旅して、人々にイエスのことを話しているのです。

私たちクリスチャンの中には、クリスチャンは患難に遭わないので、これら全てのことから逃れられると教えている人がいます。

このような人々は、イエスが終わりの日に現れるだろうと、私たちに警告した偽りの教師です。彼らの大半は、世界中で現実に何が起こっているのか知らないのです。

私は聖徒たちがすでに、深刻な迫害に苦しんでいる国々を訪れたことがあります。

中国での話です。中国のクリスチャンはこのように教えられていました。「心配しないでください。大患難が訪れる前にあなた方は携挙されますから」

酷い迫害が始まったのは、その後のことでした。何百万人ものクリスチャンが拷問を受け、殉教しました。

後に私は、中国の司教が悲しみながらこう語るのを聞きました。

「私たちは失敗しました。イエスが最初に来て携挙してくださると教えるのではなく、迫害に対して強くあるように教えるべきでした。迫害が訪れた時、いかに固く信仰に立ち、苦難の最中でいかに倒れないで立ち続けるのかを」

神が私に与えた使命だと感じていることがあります。主イエス・キリストにあって強く勇敢に生きることができると、この世の人々に教えることです。

私たちは苦難に備える訓練を受けていますが、世界中のキリストのからだ(教会)の60%以上がすでにそのような苦難の中に入っています。それを逃れる方法はありません。次は私たちの番です。

私はすでにイエスのために、強制収容所の苦しみを経験しました。中国であの司教にも出会いました。聖書のある箇所を読む度に、いつも私は思います:「私は苦難の時に聖書箇所を使うことができる。」

私はその聖句を書き留めていますし、そらで覚えています。

強制収容所では女性の20%しか生き残ることができませんでした。

「今日より悪くならないわ」と言ってお互いを元気づけようとしました。しかし、翌日はさらに状況は悪化しました。

この間、暗記した聖書の1節は私に大きな希望と喜びを与えてくれました。

「もしキリストの名のゆえにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

ペテロの手紙第1 4章14節

彼らのゆえに悪が語られますが、あなた方のゆえに神が栄光をお受けになるのです。

こう叫ぶ自分に気付きました。「ハレルヤ!私が苦しんでいるので、イエスが栄光を受けています!」

アメリカの教会では、♪教会が大患難から逃れられますように〜と歌っています。

しかし、中国とアフリカでは、すでに大きな苦難が到来しています。昨年だけでも、20万人以上のクリスチャンがアフリカで殉教しました。政治的に正しくないとされて、このようなことが新聞で報道されることはありません。

しかし私は知っています。私はそこにいたことがあるからです。

素敵な家で素敵な服を着て、ステーキディナーを食べる時、私たちはそのようなことを考える必要があります。

キリストのからだ(教会)の多くのメンバーが、今この瞬間に拷問を受け死んでいます。それでも私たちは皆、大患難から逃れられるかのように、今の生活を続けています。

数年前、私はアフリカにいました。その国で新政権が権力を掌握しました。

アフリカでの最初の夜、何人かのクリスチャンは登録のために警察に来るように命じられました。到着すると彼らは逮捕され、同じ夜に処刑されました。

翌日、同じことが他のクリスチャンにも起こりました。3日目も同じでした。地区の全てのクリスチャンは組織的に殺害されていきました。4日目に私は小さな教会で話すことになっていました。人々は来ましたが、恐怖と緊張に満ちていました。

礼拝の間ずっと、彼らはお互いを見つめ、その目はこう問うているようでした。

「隣に座っているこの人が、次に殺されるのだろうか?私はその次になるのだろうか?」

部屋は蒸し暑く、開けっ放しの窓から虫が入ってきて、木製ベンチの上の裸電球の周りを、渦巻くように飛んでいました。

子どもの頃の体験談を彼らに話しました。私が小さかった頃、父に言いました。

「パパ、イエス様のために殉教者になれるほど私は強くなれないと思うの」

「教えて」と父は言いました。

「アムステルダムへ電車で行く時は、切符を買うためのお金をいつパパは君にあげるかな?3週間前?」

「いいえ、パパ、電車に乗る直前に切符代をくれるわ」

「その通りだね」と父は言いました。

「神様の力もそれと同じなんだよ。天の父なる神様は、イエス・キリストの殉教者になるために、君がいつ特別な力を必要とするかをご存知なんだ。神様は君が必要とする全てを、まさに必要とする時に与えてくださるんだよ・・・」

私のアフリカの友人たちは、うなずいて微笑んでいました。

突然、喜びの霊がその教会に下り、人々は歌い始めました。

♪甘美な喜びに満たされて もう少し経ったら あの美しい海岸で会いましょう

週の後半に教会員の半分が処刑されました。後に、残り全員が数ヶ月前に殺されたことを知りました。

しかし、このことを伝えずにはいられません。私は大いに喜びました。神が私を用いて、アフリカの友人たちを励ましてくださったことを。なぜなら、私には神のことばである聖書があるからです。私は聖書に答えを求め、イエスのこのことばを見出しました。すなわち、イエスはご自身が世に勝利されただけでなく、死に至るまで忠実にあり続けた全ての人に、いのちの冠を与えると言われたのです。(黙示録 2:10)

どうすれば迫害に備えることができるでしょうか?

まず、私たちは神のことばをいただいて、それを消化し私たちの存在の一部にする必要があります。

これは日々聖書を学び続けることを意味します。聖書のことばを暗唱するだけでなく、聖書の価値観や原則を私たちの生活に適用していくのです。

次に、私たちはイエス・キリストと個人的な関係を築く必要があります。昨日のイエス、歴史上のイエスだけでなく、今も生きて、人々の人生を変え続けておられるイエス、父なる神の右に座しておられるイエスです。

私たちは聖霊に満たされなければなりません。このことに関して選択の自由はありません。御霊の満たしは絶対に必要なことです。

初代教会の弟子たちは、ペンテコステの聖霊降臨を待たなければ、ユダヤ人とローマ人の迫害の中で、固く信仰に立つことはできなかったでしょう。私たち一人ひとりに、自分自身のペンテコステ体験、すなわち聖霊のバプテスマが必要です。

それなくしては、大患難の中で信仰を守り抜くことはできません。

来るべき迫害において、私たちは互いに助け合い、励ましあう準備ができていなければなりません。

しかし、私たちは苦難の訪れを待ってから始めてはなりません。

御霊の実が、全てのクリスチャンの人生を支配するようにならなければなりません。

多くの人は来るべき苦難を恐れ、走って逃げたいと思っています。私自身、恐ろしいナチス強制収容所を含む80年の歳月を経てもなお、また大きな苦難を経験しなければならないのではないかと思うと、少し怖くなります。

しかし、そんなとき、私は聖書を読んで喜びます。弱い時にこそ、私は強くなるでしょうと聖書は語ります。

ベッツィと私は主イエスのために囚人となりました。私たちはとても弱かったのですが、聖霊が私たちの上に臨んでくださったので、私たちは力を得ました。

聖霊の超自然的な内なる力が、最後まで耐え忍ぶことができるよう私たちを助けてくれました。

苦難の訪れとともに、自動的にあなたは強くなるのではありません。あなたを絶対に見捨てることのないイエスの御力のゆえにあなたは強くされるのです。

私は76年間、主イエスと共に歩んできました。イエスが私から離れたり、失望させたりすることは一度たりともありません。

「神が私を殺しても、私は神を待ち望み、(信頼します。)」

ヨブ記13章15節

なぜなら、私は知っているからです。

勝利を得る全ての人に、イエスはいのちの冠を授けてくださると。ハレルヤ!

コーリー・テン・ブーム(1974年)