天国と地獄を見た中国の孤児たち

著者:H.A.ベーカー著(チベット、中国、台湾/蓬莱への宣教師)

ハロルド・アームストロング・ベーカー (1881年〜1971年) 

ベーカーは、妻のジョセフィンと共に、中国雲南省でストリートチルドレンのためのアドラム・レスキュー・ミッションを1920年代に創設しました。

(本書で言うベイカー夫妻は、モザンビークでハイディ・ベイカー夫人とともにIRISミニストリーを創設したローランド・ベイカーの祖父母です。)

この施設の子どもたちは、ほとんどが6歳から18歳までの少年で、一連の幻を通して天国の霊的な体験をしました。

これらの幻は、アドラム・レスキュー・ミッションに住む子どもたち(ほとんどがホームレスと孤児)の体験を記録したものです。

これらの子どもたちは、偉大な驚くべき聖霊の注ぎを経験しました。あまりにも偉大なため、彼らは幻によって文字通り「天国を経験」し、天使の予知に気づき、見たものを詳細に説明することができました。これらの強烈な霊的体験の結果、礼拝、神の御言葉、そして祈りに対する熱烈な情熱が生まれました。

目次

はじめに

第一章 – 聖霊の大いなる注ぎ

第二章 – 聖霊の超自然的な顕現

第三章 – 聖霊の注ぎの聖書的結果

第四章 – 天国の幻

第五章 – パラダイス

第六章 – 私たちの間にいる天使

第七章 –  悪魔の王国

第八章 – 世紀末とキリストの再臨

第九章 – 孤児の男の子の預言

第十章 – 聖書執筆について

第十一章 – 故郷

第十二章 – 道

(*)用語集

出版情報&リンク

はじめに

聖霊の注ぎ(*)を受け、そして、幻と啓示(*)を受けたのは、中国雲南省雲南府のアドラム・レスキュー・ミッション(アドラム救援伝道所:以下アドラムと略す)の子どもたちや若者たちであった。この子どもたちはほとんど、街の路上で物乞いをしていた。また、両親を亡くした貧しい子どもたちが、このホームに連れてこられることもあった。また、遠く離れた本省や隣接する省に家出した放蕩者もいた。

しかし、これらの子どもたちは、その出所がどこであれ、ほとんどが6歳から18歳までの少年で、道徳的な訓練も受けず、教育も受けていないまま、私たちのもとにやってきた。ホームレスの子どもは一種のギャングシステムで、盗みをすることで利益を得ている。神のいない世界の「ギャング」なので、彼らの行動は道徳的に最低のものであった。

アドラムでは、毎日丁寧に聖書が教えられ、絶えず福音(*)が説かれている。ここに来る子どもたちは、以下に記す聖霊の注ぎの前に、常に与えられた教えに心を開いていたので、彼らの中には間違いなく改宗した者もいれば、聖書の主なテーマについてよく理解している者も多くいただろう。

聖霊を受けた者は皆、唯一の神を信じ、救いのためにキリストの血潮を信じる知識を持っていた。彼らはまた、聖霊に満たされるように祈った。彼らはキリストを求めた。特別のビジョンや幻を求める人はいなかったが、全員が心をこめて主イエスに祈り、賛美しながら与えられた。聖霊が注がれた数週間を通して、主だけが求められ、主だけが栄光を受けられたのである。主からの訪れ(*)では、すべての人が公平に扱われた。最年長者も最年少者も、最初に来た者も最近来た者も、最高の者も最低の者も、共通の天の父の食卓(*)を囲んで共に座っている者は皆、同様に天の恵みを受けたのである。

この約束の御霊の注ぎは、明らかに人間業や個人の功績とは無関係な、愛と恵みの贈り物であった。それは働きによるものではない。天から降りてくるものだった。それは、人間が下から積み上げていくものではない。それは、上から降ってくる神の祝福であった。

ここで紹介されているアドラムの子どもたちの体験は、自然界では説明できないものである。

  1. この不思議は、これらの子どもたちの自然な心の作り物であるはずがない。このような教育を受けていない、精神的な訓練を受けていない、想像力のない少年たちは、自らこのようなことを思いつくことはできなかった。
  1. このような霊的な体験、幻、啓示は、潜在意識の働きによるものではあり得ない。これらの子どもたちの多くは、あまりにも若く、あまりにも無知で、あるいは異教(*)から救われたばかりで、幻の内容に関する聖書の教えを知らなかった。
  1. また、これらのことは、他者からの精神的な暗示などと心理学では説明できない。私たち自身はそのような幻を見たこともなく、そのような集会にも参加したことがなく、この子どもたちに与えられた幻について読んだり聞いたりしたこともなかった。これらの経験は、私たち全員にとって初めてのことだった。
  1. さらに、子どもたちは、これらのことを互いに話し合うことはなかった。主の力が私たちの中に下った時、多くの子どもたちが同時に御霊に満たされた。別の部屋にいる者でも、同じものが同時に見えることがあった。このような場合、他の人と比較することはできない。
  1. これらの幻の完全な調和は、数え切れないほどの細部にわたっており、いかなる自然な説明も不可能である。十字架の質問で簡単に混乱するような最も無知な子どもでさえ、一人で質問されても、グループで質問されても、非常に多くの詳細を網羅する質問に対して、何かの目撃者がするのと同じくらい明確で均一な答えをした。
  2. これらの経験は、いかなる種類の精神的興奮、宗教的熱狂、自然な感情、神経状態、またいかなる種類の自作自演傾向としても説明することができない。この聖霊の注ぎは、正常な精神状態の普通の子どもたちに与えられたのだ。

アドラムに与えられた幻と啓示は、真の教会における一貫した超自然的体験である

初代教会は、超自然的な幻と啓示の礎石の上に設立された。旧約聖書も新約聖書も、聖書全体が神からの超自然的な啓示なのだ。

旧約聖書では、神は預言者(*)を通して、預言者の心が関与しない直接の霊感によって、ご自分の意志を人に示された。主は人の前に現れ、「御声」と「御言葉」(*)で人に語りかけられた。人が人に面と向かって話すように、主はこのようにモーセに話された。(出エジプト 33:11)旧約聖書では、神は夢の中で、幻の中で、またさまざまな種類の超自然的な啓示の中で、人にご自身を現された。天使は人間にメッセージを伝え、地上における神の救いの計画を行う使者として絶えず活動していた。

新約聖書も同様に、超自然的な啓示であると主張している。パウロは、自分が宣べ伝えた福音について、次のように語っている。「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ 1:12)。パウロがそのすべての手紙に書いたことは、この超自然的な「イエス・キリストの啓示」だけである。

アドラムに与えられた幻や啓示のような聖霊の働きがなければ、キリスト教はまったく存在しない。このようにして始まった真の教会が今日まで存在するのは、まさにこのような超自然的な現れから教会が生まれ、力強い生命を育んできたからである。

  • ヘロデが赤ん坊のイエスを滅ぼそうとした時、博士たちは「夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けた」。(マタイ 2:12
  • 主の使いが夢でヨセフに現れた。(マタイ 2:13
  • パウロには、マケドニアの人が幻の中に現れた。(使徒 16:8-10
  • コリントで「ある夜、主は幻によってパウロに」語られた。(使徒 18:9
  • パウロがエルサレムに帰り、宮で祈っていると、夢ごこちになり、主を見て、奉仕の導きを与えた。(使徒 22:17
  • ペテロもまた、家の屋上で祈っている時に「うっとりと夢ごこちになった。」天が開かれ、幻を見て、主の御声を聞いた。コルネリオには、昼間に天使が幻の中に現れた。(使徒 10
  • ヨハネの黙示録は、ヨハネが「霊」に満たされていた時に、超自然的な啓示として与えられた。それは、「大いなる声」で語られた主からの啓示であり、また、御霊によって、天使の働きによって与えられた幻の記録でもある。(黙示録 1:9-11
  • パウロは死んで「肉体を離れて」天国に行ったか、あるいは幻の中で、アドラムの子どもたちのように天に引き上げられ、そこでパラダイスを見た。彼はこのような超自然的な啓示をたくさん受けたので、「高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられた。」(2コリント ​​12:1-3, 7

天使もまた、初代教会の働きに大きな役割を果たした。最初の弟子たちは、しばしば天使たちによって守られ、その働きを指示された。このようにして、彼らは地上の権力からの差し迫った危険から解放された。

  • 天使はピリポに語りかけ、ガザに行くように示された。(使徒 8:26
  • 天使はパウロのそばにいて、彼と話し、励まし、指示した。(使徒 27:23,24)コルネリオとその家族、友人たちは、彼のもとに来た天使の言葉によって救いの道へと導かれ、聖霊のバプテスマ(*)を受けるようになった。この天使は輝く衣をまとって現れ、彼と話し、ペテロを送るように指示して、去って行った。(使徒 10
  • ペテロが獄中にいた時、天使が彼を助けた。この天使はペテロの手にかかっていた鎖を解き、衣と靴を着るように言い、牢の扉と鍵のかかっていた門を開けて、ペテロを街路に連れ出したのである。(使徒 12:7-8

初代教会における超自然的な現れの中で最も偉大なものは、キリストが父のもとに昇った後に来ると約束された力強い聖霊の現れであった。

その最初の教会では、祈りを読まなかったし、、また唱えなかった。その最初の教会は心から神に祈り、神はその心の叫びに直接、超自然的に答えられた。弟子たちが危険にさらされた時、彼らは集まって神に祈った。これは形式的な祈りではなく、人の耳や目を気にするような、無情で、慎重に言葉を選んだ祈り会でもなかった。皆が同時に祈り、皆が大きな声で神に叫んだ。これは、一つの大きな必要に対する特別な祈り会であった。

神が答えられた時、誰もが分かった。聖霊はこれらの人々が祈っていた家を揺り動かし、誰もが「聖霊に満たされ」、強大な超自然的な力を得た。そして、彼らはまさに死に直面しながらも、福音の火を広げて行ったのだ。(使徒 4:31

初代教会には生ける神がおられた。聖霊によって、キリストが彼らの中におられたのだ。聖霊の賜物によって、キリストは彼らのうちに、彼らを通して超自然的に働かれた。

「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ… ある人には… 信仰が与えられ、ある人には… いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言(*)、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」(1コリント 12:7-10

私たちの先祖を異教徒の目の前で力強い手でエジプトから連れ出した生ける神はどこにおられるのだろうか?かつて、人が聞けるような声で答えられた、いや、その声は全地を揺るがした我々の神はどこにおられるのだろうか?地が創造された時から、その民と共に歩み、語るために天使を遣わされた神は、どうされたのだろうか?

天使はどうなってしまったのだろうか?聖書のキリストはどうなったのだろうか?どこにおられるのだろうか?私たちの主を連れ去り、どこに寝かせたのかわからなくなってしまったのだろうか?

キリストの「約束」はどうなったのだろうか?キリストは、もし自分が去っていくなら、神の民にとってこれまで以上によくなり、神は過去のすべての時代よりも彼らとともに歩むだろうと言われた。

イエスは言われた:「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ 16:7)「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ 14:12

主イエスは去られた。主の代わりに来るはずだった聖霊は、どこにいるのだろうか。主の未完成の務めを遂行し、教会の中でしるしと不思議と聖霊の賜物をもって働かれるはずだった聖霊は、どこにいるのだろうか。神は死なれたのだろうか?もしそうなら、いつだったのか?それとも、神が聞こえないほど遠くに引っ込んでしまったのだろうか?神はもう話すことができないのだろうか?天使たちは私たちを捨てて、どこか別の宇宙に行ってしまったのだろうか?もしそうなら、いつ私たちを見捨てたのだろうか?

結局のところ、この神の偉大な力である聖霊は、奇跡を起こすキリスト、風と波がその言葉に従い、その言葉が墓を破壊させたキリストに代わるこの偉大な身代わりは、ただの優しい影響なのだろうか。祈る弟子たちの家全体を揺り動かし、満たし、彼らを通して世界を揺り動かした聖霊はどこにいるのだろうか。

もし生ける神がおられたなら、天使がいたなら、不思議な働きをするキリストがおられたなら、聖霊が与えられたなら、聖書が神からの超自然的な啓示であるなら、アドラムに与えられたような幻、啓示、聖霊の働きは、我々が期待すべき神からの超自然的な訪問なのである。

これらの幻、啓示、超自然的な現象は、超自然的に設立され、超自然的に満たされ、超自然的に導かれた新約の教会、聖書が語り、預言する唯一の教会における通常の経験なのである。

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第一章 – 聖霊の大いなる注ぎ

朝の祈祷会は、いつもより長く続いていた。年長の子どもたちは一人ずつ部屋を出て、学校の教室で勉強を始めたが、小さな子どもたちの何人かは膝をついて真剣に祈っていた。主は近くにおられ、私たちは皆、聖霊の臨在を感じていた。部屋から一度出て行った何人かが戻ってきた。

私たちが長い間祈ってきた罪に対する強い確信がそこに居るすべての人に与えられ、涙を流し、両手を上げて、今はとても黒く見える自分の罪の赦しを求めて、主に叫んだ。次々と聖霊の力によって倒れ、最後には20人以上が床にひれ伏していた。

私は、主が私たちの中で、今までに見たことのないような事をしておられるのを見て、学校の教室に静かに入り、男子生徒に、もし彼らが来て祈るように導かれたと感じたら、学校の勉強を免除してもよいと告げた。間もなく、中国語の先生が一人で教室の机に座ることになった。生徒たちは皆、祈祷室に戻り、心から祈り、主を賛美していた。先生は、もうやることがないと気付き、家に向かった。私は彼を祈りに招かなかった。というのも、彼は長い間私たちと一緒にいたが、全く霊的に死んでいる状態だった。と言うより霊的にまだ目覚めてないような状態だと思ったからである。彼は自分の家の近くまで行って、引き返してきた。彼が祈祷室に入っても、誰も彼に気づかなかった。それは、誰もが主の取り扱いの中にいたからだ。先生は部屋の一番奥に行き、生まれて初めてひざまずいて祈ろうとした。

主の力があまりにもはっきりと現れていたので、私はその青年を一人にして、御霊だけの働きに違いないことに立ち入らない方がよいと思った。間もなく、私はその教師が両腕を上げ、顔に涙が流れ、主に自分の罪を赦してくれるよう懇願しているのに気づいた。とても多くの罪を。彼はプライドが高く、生徒の前でこのようにへり下ることは、まさに聖霊による罪の告白を意味していた。

集会は何時間も続き、子どもたちは帰ろうとはしなかった。私は何もすることも言うこともなく、主が完全にコントロールしているようだった。私はただ主の邪魔をしないようにしていた。

幻の中で子どもたちは、地獄のすさまじさ、失われた魂の苦悩、悪魔の筆舌に尽くしがたい地獄の力と、悪の使いたちとその苦悶の叫びを見た。それは、私が聞いたことも想像したこともないようなものだった。それは、すべて彼らにとって現実だった。多くの子どもたちが、自分が縛られ、地獄の縁に引きずり込まれるのを目の当たりにした。それは神話ではなく、恐ろしい現実だった。罪の裁きと悪の力はその幻の中で彼らを恐れさせた。しかし、主イエスの恵みによって、この悪の力から解放されることも、それと同じように現実であった。この悪の力からの解放を経験した時、彼らの救いは裁きと同じように現実のものとなった。救われたことを知った彼らの喜びと笑いと魂の平安は、きっとそこから離れることができない体験となったにちがいない。

朝早くから全員が主の臨在の中にいたので、午後の食事ができる頃には、きっとその日の礼拝は終わっているだろうと私は思っていた。しかし、そうではなかった。少し祈りの部屋を離れた人も居たが、みんなすぐに戻って来て、一晩中主を待ちのぞみたいと言っていた。それまで1時間の礼拝では長すぎるという子もいたので、これは私たちにとって、とても新しいことだった。私達は以前から彼らにもっと祈って欲しいと思っていた。彼らが今それを望むなら、なぜ拒むことがあるだろう?その夜、眠りに就く子はいなかった。翌朝6時まで、20時間以上にわたってほとんど休むことなく祈りと賛美の礼拝をして、ついに寝た。
ジョセフィン·ベーカー

終わりの雨の連続した週

御霊の力強い注ぎの二日後、そこには神の力の現れが衰えていった。そのため、私たちは通常の仕事のスケジュールに戻り、夕方にはもっと時間をかけて主の前に留まることを期待した。少年達は学校へ行き、私は福音について話すために何人かの人を呼びに出かけた。

朝の祈祷会は7時半に始まった。いつものように、全員が同時に祈り、各自が好きな時に部屋を出ていった。12時に戻ると、祈祷室で誰かが祈っているのが聞こえた。誰だろうと入ってみると、一番おとなしくて気弱な8歳くらいの男の子、ワン・ジア・スウェンがオルガンの後ろに隠れて大きな声で祈り、泣きながら自分の罪を主に告白していた。彼は朝の礼拝から、朝食もとらずにずっと祈り続けていた。

私が祈祷室から出てくると、少年たちが学校から出てきた。彼らは今日一日、庭仕事や他の仕事に行くことになっていたが、何人かが残って祈っていいかと聞いてきた。希望する者は残って祈ることができると言われたので、数人は仕事に行き、他の者は祈祷室に入って祈りはじめた。すると、ほとんど同時に、再び力強い聖霊の注ぎがあった。この注ぎは非常に継続的であったので、私たちは1週間以上、必要なことだけをして、通常の仕事に戻ろうとはしなかった。残りの時間は、皆、神からの大きな祝福を受け取りながら過ごした。

最初の数日間は、誰も食事や睡眠に気を配ることはなかった。若い子どもたちが祈り始めると、神の力が下ってきて、多くの子どもたちが床にひれ伏した。聖霊の働きの妨げにならず決まった時間に食事をすることは不可能であった。神の力から解かれた子どもたちは、一時的に外に出て休んだり、食事を取ったりして、すぐに祈祷室に戻り、再び聖霊の力を受けるのだ。このような聖霊の現れは継続的で、ほぼ一日中、夜遅くまで聖霊の臨在の中にいる者もいた。夜の9時か10時になって静かになると、私たちは皆に、ベッドに入り、翌朝まで休むように勧めた。通常、何人かはもっと長く主を待ち望み、祈り続けたいと思うのだった。祈り続けているうちに、ベッドに入っていたほぼ全員が起き上がり、また祈りに戻った。このような夜には、眠ることが出来なかった。ある少年たちは、一晩中、祈りの部屋から出なかった。眠りたがらなかった。眠くなると、しばらく床で休んでから、また起き出して主を求めるのである。やがて彼らは、再び神の事柄に没頭するようになった。

一つ確かなことがある。これは聖霊の注ぎで、私たち宣教師は、神の素晴らしい働きを妨げないように、邪魔をしないようにする以外、何も要求されなかった。私たちの役割は、自分たちの心を開いて、このように力強く降り注ぐ天の祝福の中に、私たちも深く引き入れられるようにすることであった。

私たちが集会に参加してもしなくても、ほとんど変わりはなかった。ある朝、私たちは下の階に行くのが遅れた。祈祷会の呼びかけもなかったのに、子どもたちが次々と祈祷室に入って、祈り、主を賛美し始めた。ようやく私たちが祈祷室に降りて行くと、数人の年少の子どもたちが聖霊の力の下にひれ伏し、聖霊が与えるままに他の言語と異言で歌っているのが見えた。

一番最初の始まりから、聖霊の現れ、幻、啓示は、私たちの超自然的な事柄に関する限られた知識や経験をはるかに超えていった。妻と私は、これらのことがあまりにも驚異的になったので、神が悪魔よりもはるかに大きいと信じるしかなかったと告白し合った。私たちは、パンを父に求める者は石を得ず、魚を求める者は蛇を得ず、卵を求める者はさそりを得ず、この子どもたちのように純粋な動機で聖霊を求める者は悪事や悪魔を得ず、まさに彼らが求めるもの、聖霊を得るという、以前安心して受け取っていた神の約束の中に避難したのだった。(ルカ 11:13)

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第二章 – 聖霊の超自然的な顕現

聖霊の最も驚くべき現れの多くは、聖書の教えをほとんど知らない人々に与えられた。したがって、これらの幻の超自然的な性質を確認し、新約聖書に記録されている聖霊の注ぎの現実性を確認できた。

私たちが現在の聖霊の注ぎを「後の雨」と語っているのを聞いたことがない子どもたちも、このアドラムへの注ぎにおいて、実際にそのように体験したのである。

後の雨

目を閉じて祈り、賛美していると、何人かの子どもたちは頭に水滴がポタポタ落ちてくるのを感じた。彼らは主を求めることに夢中で、目を開けて周りを見て祝福を妨げることをしたくなかった。でも、心の中では、空と自分たちの間に屋根と床があるのに、どうして雨が降っているのだろうと思っていた。しかし、雨を降らせることで心がリフレッシュされた。水滴がどんどん増えて、にわか雨になり、どうして屋根の下の部屋に雨が降るのだろうと不思議に思っていたことも忘れてしまうほど、すべてが輝きに満ちていたようだ。小雨はにわか雨になり、そして豪雨になり、その豪雨は部屋を満たし、さらに高く水位が上がり、幸い求道者はこの素晴らしい天からの生命を与える洪水の中に沈んだままであった。

何人かの子どもたちは、ある時、この雨の降るような感覚を味わった。大いなる注ぎから半年後、「干ばつ」の後、天の窓が再び開かれ、もう一度聖霊が降り注いだ。二人の小さな子は、またもや「後の雨」を体験した。それは彼らの頭上に降り注ぎ、彼らの全身はずぶ濡れとなり、溢れ出すかのようであった。

聖書の学びと聖霊の直接の啓示によって、アドラムは今、この「雨」の意味を理解しつつある。「このこと」は預言者ヨエルが語った「主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」(ヨエル 2:23)と理解していた。

「前の雨」は、五旬節の日に地上に蒔かれた最初の教会、種教会として、それに続く二、三百年の間に降ったものである。「前の雨」とは、「秋の雨」ともいわれ、秋に地上に蒔かれた穀物の上に降る雨のことである。その後、「大いなる崩落」(2テサロニケ 2:1-3)、暗黒時代の長い冬がやってきて、地に蒔かれた穀物、つまり世の中の教会は死んだように見えた。そして、ルター、ウェスレー、フォックス、フィニー、ムーディ、その他の神のしもべたちによって、春の最初の月に「後の雨」が降り注いだのである。信仰による救い、新しく生れた体験、聖なる生活、まず芽、次に穂が出始めた。今、小雨はにわか雨になりつつある。イエスへの信仰による癒しが再び訪れた。主は再び悪霊を追い出し、病人を癒し、死人をよみがえらせ、信じる者の中に全能の神であることを証明されている。来るべき王への希望がよみがえった。主は再び信者たちに、初めのころのような聖霊のバプテスマを授け、彼らがいろいろな他国の言葉で話し、御霊が語らせるままに預言するようにされた(使徒 2:4)。

収穫は近い。「前の雨」、「種の雨」は適度に降った。「後の雨」は 「収穫の雨」は、穀物を熟成させ、教会を完成させるために、豊かに降り注ぐだろう。聖霊の後の雨となる豪雨が降る。世界がかつて見たこともないような偉大なリバイバルが、これから始まる。世界がこれまで見たこともないような最大の奇跡、最も素晴らしい不思議な働きをする教会が間近に迫っている。後の雨が降り注ぐのは間近に迫っており、雲は今、空を埋め尽くしている。約束によれば、主は間もなく聖霊をすべての人に注いでくださる。「前の雨」の時に蒔かれ、土に落ちて死んだ教会は、出てきた。それは間もなく穂の中に豊かな実ができるだろう。五旬節の日に見たものを越えて、「あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」、「またあなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル 2:28-29使徒 2:17-21

この最終的で最大の聖霊の注ぎのために、満穂の教会は、いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなごに食われた年月を回復する(ヨエル 2:25)。聖霊の実と賜物はすべて、血に浸された信者の真の教会に回復される。その超自然的な生活と超自然的な働きの中で、多くの人々が改心(*)する。「打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる」(ヨエル 2:24)、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから」(黙示録 7:9)、誰も数えられないほどの群集が穀倉に入って来る。

使徒2章を読めば、この「すべての人」への注ぎは、今日のためのものであることがわかるだろう。とにかく、私たちアドラムの人々は、このことを確信している。主は何度も彼らの中に立ち、最初の信者にしたのと同じ約束を彼らにし、「前の雨」の時代に最初の弟子たちを送り出したのと同じ力で、同じ福音を伝えるよう彼らに命じられた。アドラムに降った「後の雨」は、前の雨のようなものだが、麦と毒麦を完全に分けて収穫し、麦を納屋に集め、毒麦を火の炉で燃やし、収穫の主の再臨の先駆けとなる最後の雨であることを知っているからだ。

炎のような舌使徒 2:3-4

聖霊は、さまざまな機会に、いろいろなアドラムの人々が、部屋にいる一人ひとりの頭の上に炎のような舌として見ることができた。複数の人が同時にこの現象を見たこともあった。もちろん、聖書を詳しく知っている人なら、神の事柄がすべての人に等しく啓示されるわけではないことを知っている。

風のような聖霊使徒 2:1-2

私たちの集会で聖霊が降った時、多くの人が聖霊が風に吹かれるように、魂に平安と力が溢れ出すのを感じてきた。この天からの強風は、最初の弟子たちが集まって「心を一つにして、神に向かい、声を上げて・・祈ると、その集まっていた場所が震え出し、一同が聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒 4:24, 31)という記録を信じられないわけがないほどである。

七つの金の燭台のような聖霊

子どもたちは、何度も聖霊が七つの金の燭台であることを見たことがある。聖霊が特別に注がれた時、この七つの金の燭台が天から私たちのすぐそばの部屋に降ろされているのを見た。また、子どもたちは天にあるキリストの御座の幻で「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」(黙示録 4:5)を見たこともある。私たちは皆、この七つの金の燭台が私たちの中におられる聖霊を意味していることを知っている。

聖霊の注ぎの最初の頃、一人の小さな少年が、臨在の中、天国でイエスの足元にいるように見えた時、純粋な預言を語った。主は彼を通して一人称で話し、子どもたちが理解していない多くのことを明らかにし、どのように待ち望み、どのように御霊を求めればよいかを教えられた。その時、主は「御霊があなたたちの中にいる時、目を開けてはいけない。それは妨げになる。御霊が下って、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒す力を与える。御霊は赤、青など七色に輝いている」と言われた。すると、年長の男の子の一人が、御霊が自分に臨んだ時、素晴らしい赤い光と他の色を見たと言った。主からの言葉は、彼や他の色彩を見た人々に、この説明をした。もちろん、光が7色でできていることは知っているが、聖霊である神の御座の前にある七つの金の燭台を7色と考えたことはなかった。すべての光は神から出たものであり、神は光である。

真昼の太陽よりも明るい聖霊

このアドラムの人々は、真昼の太陽よりも明るい聖霊を見たことがある。

このように、聖霊が大きな光となって現れるのは、よくあることだった。ある子どもたちは、電気がおかしいのかと思って目を開けると、天の光のあまりの輝きに、部屋の中の明かりがほとんどわからなくなったそうだ。パウロがダマスコに行く途中、自分を照らした光は「天からの光」で、「昼の太陽よりも明るかった」(使徒 26:13)と言った意味が、この子どもたちにはわかるのである。天国の幻を見て、地上で見たどの光よりも明るくはっきりとしたこの偉大な光を見た後、アドラムの人々は、なぜ天国で「夜がなく、ろうそくも太陽の光も必要ない、主なる神が彼らに光を与えてくださるから」なのかを知った。この暗闇の地上の暗い地域に住む、かつてホームレスだった子どもたちは、この顕現と啓示を通して、天国の新しいエルサレムでは「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示録 21:23)ことを疑いなく知っている。

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第三章 – 聖霊の注ぎの聖書的結果

救いの明確な保証

この聖霊の注ぎが神からのものであることは、聖霊の注ぎの後にどのような結果がもたらされるかを予告している聖書の預言のとおりに成就していることからも明らかである。そのうちのいくつかを紹介しよう。聖霊の働きに伴うもので、私たちの間に最初に現れたものの一つは、救いがはっきりと保証されたことだ。

新たに生まれる

ヨハネ 3:3ローマ 8:15-161ヨハネ 4:13ガラテヤ 4:6

幻と聖霊の働きを通して、一人一人の失われた状態と罪深さがあまりにも現実的に示され、あらゆる希望の拠り所が吹き消され、主の憐れみを求めて祈る以外になくなった。

そして聖霊は、失われた状態を感じられるのと同じように神の素晴らしい救いと恵みを実感させた。やがて次々と、はっきりとした「救いを知る」体験ができるようになった。このように、アドラムの家族の人生と証しは大きく変わり、このホームのうちの大勢の人が新たに生まれ変わったことに間違いはなかった。

異言で語る

それに、雰囲気が一変した。言葉にできない喜びと豊かな栄光が溢れるほど入ってきた。少年たちが庭の地ならしをしている時、あまりに主をほめたたえたので、近所の少年たちに会うたびに嘲笑されて「主をほめたたえよ」と言われた。ある少年は釘を買おうとして店に入ると、いつの間にか「ハレルヤ!釘が買いたい」と言い出した。部族の少年は最初から素晴らしい経験をしている。ある日の通勤途中、彼は聖霊の喜びの中で、ビリー・ブレイのスタイルのように主を賛美しながら通りを踊っていた。罪から清められ、聖霊によって新たに生まれた子どもたちは、さらに主を求めた。また、五旬節の日に異言で話したように、コルネリオの家で聖霊が注がれた時のように、エペソで聖霊の満たしを受けた時や使徒パウロがしたように、またサマリヤのクリスチャンが不思議な力と現れで間違いなく聖霊を受け、それがあまりにも印象的で素晴らしいので、シモンがそれを買いたがった時のように、20人以上のアドラムの人々が神の深い取り扱いへと導かれていった。

御霊が語らせて預言する

アドラムの人々のほとんどはそのような出来事を見たことがなかったが、聖霊を主に求めるように教えられ、心に大きな「言葉にできない喜びとあふれる栄光」の報いを受けた。そして、それだけでなく、聖霊のバプテスマについて「知っている」という満足感を得ることができた。前述の五つの聖句が示すように、最初の弟子たちがどのように聖霊を受けたか、超自然的な聖霊に完全に満たされた時に何をしたか、アドラムの人々も新約聖書の聖徒たちが初めに行ったのと同じ方法でそれを受けたのを知っている。この中国の少年少女たちは、最初の弟子たちと同じように主によって救われ、同じように聖霊のバプテスマを受けた。同じように異言で話しただけでなく、御霊が言葉を与えてくださった時に預言もした。

使徒 2:4使徒 10:44-46使徒 19:1, 6-7使徒 8:14, 17-19使徒 9:17-181コリント 14:18マルコ 16:17

最初に聖霊が注がれた頃に、主が最も小さくて謙遜な一人の子どもを通して、直感的に私たちに語られたが、その場にいた者は誰も疑わなかった。その声には何かがあり、その言葉の浸透する力には、言い表すことのできない心をつかむ力があった。私たちは今までの説教の中で、これほど心をつかむような神からの声を聞いたことがなかった。私たちは皆、主から直接聞いているのだと思った。その後、かなりの数のアドラムの人々が預言者として語った。主が神の素晴らしさを語られるにつれて、私たちはますます奇跡が起こっていることに驚嘆した。この地上の追放された「名も無い者たち」、最近までホームレスだった少年を選んで、生ける神の口とし、彼らを通して直感的に語り、神のご計画と目的を明らかにされた。また、血できよめられて肉体と霊の絶望から救われたばかりのこの小さな信者のグループを教育し、育てられることだった。

目に見えない世界の幻

聖霊の働きのもう一つの顕著な結果は、御言葉によれば、助け手(慰め主)が来られた時にキリストのことと、「来るべきこと」(ヨハネ 16:13-14)を弟子たちに示すという約束を成就されたことであった。

聖書を聞いてまだ数ヶ月の素朴な信徒たちに、キリストのこと、救いのこと、未来のことを、見えない世界の幻によって聖霊が明らかにされたことは、最も素晴らしいことであったと思われる。これらの幻の多くは、同時に数人に与えられた。ほとんどの幻は、複数の人で見ることができた。多くの場合、子どもたちは、彼らが幻で見たある事柄について、聖書になんと書いてあるかどうかを尋ねに来た。(使徒 2:17)6歳の小さな子どもたちも、年長の男の子も見た幻は、聖霊の力の下にある時に、夢としてではなく、現実の生活として見たものであった。

見た幻の中には、次のようなものがあった。

  • キリストが柱に縛られ、鞭打たれる様子、
  • 十字架上で血を流すキリストとそれを見つめるあざける者たち、
  • 十字架から降ろされたキリストの体が墓に運ばれ、墓に納められ、墓は閉じられたこと、
  • 天使が墓を開け、キリストが復活したこと、
  • 女性たち、海辺の弟子たち、上の部屋にいる弟子たちへのキリストの出現、 
  • キリストの昇天と二人の天使の降臨、 
  • 天国、 天国の新しいエルサレムの内部の詳しい幻、天使、救われた人々、 
  • 地獄、 地獄での失われた人々の状態、 悪霊、 悪魔、
  • 大患難とその間の聖徒と獣を拝む者たちにかかわること、
  • ハルマゲドンの戦い、
  • サタンの穴への拘束と監禁、反キリスト(*)の拘束、天から追い出された悪魔、
  • 神の大晩餐、王たちと地の支配者たちの肉を食べる鳥、
  • キリストと天使の来臨、太陽と月の変化、キリストの来臨に伴う天の震動と地の震動と破壊、
  • 義人の復活、
  • パラダイスでの子羊の婚宴 
  • 天国の私たちの住まいの詳細図、その他の天国の風景など

聖書の学び

このように、幻を通して、また心の中で聖霊が働かれることによって、聖書の勉強に大きな関心が寄せられ、小さな子どもたちも「地上の本」の勉強をやめて、聖書だけを勉強していいのかどうかを知りたがっていた。

祈りと賛美

見えない世界がこれほど現実のものとなったのだから、祈りと賛美の生活に変化があったのは当然である。

アドラムの人々すべてが異言を話したわけではないが、頭が鈍くて理解が難しい人々を除けば、聖霊に満たされることが、以前よりずっと多くなったので、アドラムの子どもたちはしばしばキリストにあって天に上げられ、喜びをもって主を賛美し、礼拝するようになった。このような天国に上がった人たちが再び「地上に降りてくる」のだろうかと心配になりそうな時もあったが、心配はいらない。このことは、ある祈祷会に参加した人なら誰でも分かるだろう。そこでは、少年が次々と真のとりなしの祈りをもって、失われた人々のために神に祈り求め、神がこの義の戦いにおいて、私たち全員をご自身のための真の戦士として用いてくれるように祈った。すでに述べたような経験によって、祈りは儀式的なものではなくなった。私たちの敵は、天の場所にいる邪悪な霊の軍であることを、すべての人が知るようになった。

聖霊の力で説教する

主が二、三週間彼らをとり扱われた後、ほとんどすべての子どもたちが、幼い子どもたちでも、説教をしたがった。聖霊の力と実演による本物の説教もあった。年少者も年長者も、聖霊の真の働きの下で、以前のように臆病になったり、申し訳なさそうにしたりするのではなく、権威を持って説教する姿は、私たちの知る子どもたちとは思えないほどだった。地獄と天国、悪魔とその力、キリストとその血、そして救いは、これらの少年たちにとって神話ではなかった。彼らは、主が説教するように言われたことを知っていった。そして、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というメッセージを与えられたのです。来るべき怒りから逃れるように警告し、キリストの愛による素晴らしい救いを示し、大きな確信を持って説教されたいくつかのメッセージを聞きながら、私たちの心は喜んだ。私たちの中で神の力が特に大きくあらわされていた時、異常なほど奇跡的な説教があった。

旧正月、街はあらゆる階層の人々で溢れかえり、私たちアドラムの人々は、数千枚のトラクトを配布し、街頭で輪になって福音を伝えた。

ある年長の男の子が、新年をテーマにした説教を用意していた。しかし、説教が始まると、神の力が降り注ぎ、この少年は突然外国の言葉で話し始め、別の人が解き明かしをした。次から次へと小さな男の子が解き明かし、説教をした。一人の解き明かしが終わるとすぐに後ろに下がり、別の子が説教の導きを感じた。次の子がその場所に入ると、すぐに解き明かす人が与えられた。このようなことが1時間か2時間続き、多くの人が近くに寄って聞くことができた。中には、普段はあまり福音に耳を傾けないような人たちも、この少年たちの真剣な語りかけに、不思議なほど熱心に耳を傾けていた。聖霊によって整然と美しく行われたその礼拝から立ち去る時、それぞれの説教者は主の任命によるものであり、それぞれが直接的な霊感を受けて主からのメッセージを語っていたのを、私たちはこれらの神の不思議について心の中で思い巡らすほかなかった。教会の説教が初めにどのようなものであったか、また、主が最終的にどのようなものにしたいと望んでおられるかが、はっきりと見えたような気がした。

外国の言葉や解き明かしによる説教が、当初から、あるいはその後、通常の説教であったというわけではないが、第一コリント人への手紙14章が明らかに示しているように、このような説教は、聖霊の力と実演によって、主の福音伝道の方法の一部である。

このような説教では、話し手は思考を完全に静止しており、発語する前には、御霊が自分の唇を通してどのような言葉を語られるかは分からない。これは純粋な預言的説教である。

全世界に福音を宣べ伝え、教会で信徒を育成する場合、話し手は思考を働かせ、御霊が自分を通して何を語られるかを、少なくとも口にする前に一瞬でも知ることができるかもしれない。そのメッセージは、ステパノの説教のように聖書の注解である場合もあれば、そうでない場合もある。ペテロは様々な場面で、「聖霊に満たされ、御霊が語られる通りに説教をした。」

聖霊に直接導かれて福音を宣べ伝えることは、必ずしも純粋な預言ではないが、それでも聖霊に確実に導かれ、指示された場合には、預言的であると言える。

この他にも、いくつかの村では、異言や解き明かしを伴う説教が行われたことがあった。

旧約聖書の預言者のように預言する

主は子どもたちを通して私たちの小さな路傍のチャペルで何度か説教をされた。2晩か3晩、若い語り手は聖霊の真の霊感で、私がこれまで中国の伝道者から聞いた中で最も感動的な説教を行った。その説教は、どんな人でも真の悔い改めに向かわせるかのように思えた。その数日後の夜、神はさらに大きな力で愛を示された。十代の少年が力強く説教していると、突然目を閉じ、旧約聖書の預言者のように聖霊の直接の霊感を受けて純粋な預言をし始めた。説教者の話し方が突然変わり、文体がリズミカルで完璧になり、挨拶が第一人称に変わり、例えば、「わたしは全能の主神、万物を創造した唯一の真の神であり、今この少年を通してあなたに語っている」や「わたしに対して罪を犯した」などと言うようになった。その突き刺す言葉は、神の前に導かれたような感覚を覚え、言葉では言い表せないほど。小さなチャペルの席はすぐに埋まり、見える限りの人々がドアの前に集まり、畏敬の念と驚きに満ちた表情で耳を傾けていた。少しでも騒ぎがあると、主は秩序を命じ、その少年を通して語りかけ、「この件に間違いを犯してはならない。よく聞いて、理解しなさい。主なる神である私は、天と地のすべての権威を持っている。すべての人間も悪霊も、わたしの前で責任を負わなければならない。わたしはあなたがた一人一人のことをすべて知っている。あなたがたの罪もすべて知っている。あなたの頭の毛の本数も知っている。今夜ここにいる56人は罪の中に生きている。今晩悔い改めなさい、そうすればわたしはあなたがたを赦します」。主はこのように、偶像崇拝、不敬虔、あらゆる悪徳のために、どこにも希望の拠り所がなくなるまで、その人々を叱責されたので、30分以上にわたって、私たちは本当に預言者の前にいた。そして、旧約聖書の預言者たちと同じように、神はご自分の民のために用意された栄光を語られた。その夜、神は愛する父のように、彼らに悔い改めるよう懇願された。諸国民の苦難の到来と、神の怒りの日にこの不敬虔な民族が滅ぼされることを語られた。その夜にその場にいるすべての人の魂の責任を問う神からの言葉として、すべての言葉に耳を傾けるようにと、何度も繰り返した。

預言が終わると、少年は座った。身動き一つせず、ささやき声も聞こえない。私には、すべての人が神が語っておられることを知っているに違いないと思えた。少年の目が閉じている間に、その場にいたほとんどすべての人が入ってきていた。主が、悪魔と罪に縛られている者は56人いると話された時、少年の一人が、私たちクリスチャンの少年以外の者を注意深く数えた。すると、ちょうど56人だった。(使徒 22:17使徒 13:12ペテロ 1:21-22

二つ悪霊を追い出す​​ヨハネ 14:12マルコ 16:17

印象的なエピソードは、ある男性から二匹の悪霊を追い出した。

主は預言と直接の啓示によって、少年たちに「悪霊はわたしに従わなければならない」と言われた。彼らは主がその言葉を証明するのを見た。もし、詳細を説明するならば、一匹の悪霊に憑かれた男から実際の悪霊が追い出されたことが、他のどんな説明よりも証明することができるだろう。この人の歴史を説明すると、話があまりに長くなり過ぎる。私たちは彼を数年前から知っており、その後6ヶ月間私たちと一緒に過ごしてきた。一言で言えば、彼は長年、うつ病の被害者だった。彼は闇の鎖に縛られていて、自ら命を絶とうとしていたので、それを防ぐために私たちは彼を預かった。彼はいつも悲しんでいた。キリストによる救いを知ろうとする努力は、すべて無駄だった。彼の心は、イエスの血に関するすべてのことに盲目だった。

主は悪霊を追い出すために3人を使われた。一つの悪霊は、成人男性サイズでひどく黒い姿をしていた。何人かの子どもたちは、それが出てくるのを見た。主が突然「聖霊に満たされた者」をこの場に用いて叱責される中、悪霊は自分の所有物である男をめぐって最後の戦いを挑んできた。男は両手を握りしめ、目を固く閉じ、全身を硬直させて抵抗した。

しかし、最後には聖霊がその人の心を悟らせ、体は弛緩し、両手は神に向かって上がり、賛美した。

怒った悪霊が学校の先生を捕まえる

悪霊が出た後、何人かの子どもたちが、怒りに燃えて駆け回り、入ってくる者、あるいは、引き裂いてくる者を捜しているのを見た。(マルコ 9:17-27)子どもたちは皆、食事をしているところから駆け込んできて、両手を上げて立ち、イエスに感謝し、賛美していた。彼らは皆、血で覆われたイエスを仰いでいたので、それはこの中で働くチャンスがなかった。また、まだ救われていない学校の先生も入ってきて、気になって見ていたが、祈ってはいなかった。怒った悪霊はチャンスとばかりに、この男を捕まえ、バタンと床に投げつけた。そこに二つ目の悪霊が座ったので、先生は起き上がれなくなった。何人かの子どもたちがこれを見た。何年か前に奇跡的にアヘンから解放された私たちの庭師もこれを見た。彼は突然聖霊に満たされ、悪霊を部屋から追い出した。

私は二人の男を見た。一人は縛りを解いて自由になり、もう一人は突然彼の横に倒れた。私は、学校の先生が大きな力をもっておられる神の聖霊によってひれ伏されたのだと思った。後に彼が起き上がった時、なぜ泣いたのか、なぜ倒れたのかを問いただした。彼は「恐怖のあまり涙が出た。何か恐ろしいことが起こった。すべてのものが黒くなり、恐ろしい山の麓にある黒い穴に自分が入っていくのが見えた」と答えた。床に倒れた時、彼は自分が悪霊の鎖で縛られ、恐ろしい闇の中に連れ去られようとしているのを見たが、再び自由になった。

悪霊が追い出された後、彼の姿は一変していた。そして、心に平安と喜びを得たと証しした。彼は悪霊から解放された時、天国の幻を見たそうだ。夜、寝床で主のことを思っていると、「こんなに喜んでいいのだろうか」と思うほど嬉しかったそうだ。

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第四章 – 天国の幻

聖書は、贖われた者たち(*)の天国は「第三の天」(*)であると教えている。(2コリント 12:2ヨハネ 14:2ヘブル 11:1012:22-2313:14

主の民の将来の住まいは、第三の天にある場所だ。この場所は都市である。この都市の名前は「新しいエルサレム」。この新しいエルサレムは、ただの言い回しではない。また、人間的なアイデアから生まれたものではない。聖書は、この新しいエルサレムが、神ご自身が築かれた本物の土台を持つ本物の都市であると言っている。

この天の都は四角形で、一辺が2200キロ、高さと幅60メートルの壁で囲まれ、その土台は十二種類の宝石、それも人間が知る中で最も美しい宝石でできている。壁そのものが碧玉(へきぎょく)で、その輝きを放っている。12の門は都に通じており、その通りは純金のようである。(黙示録 21:10-23

この都には、贖われた者たちの家、天使たちの住まい、パラダイス、そして神の御座がある。

新しいエルサレムは、本物の金の通り、碧玉の壁、貴重な宝石の礎石を持つ本物の都でありえないだろうか。神は宇宙を創られた時、材料を使い果たし、天国のための金も宝石も残されていなかったのだろうか。もし神が世界を創ることができたなら、星々の彼方の空に都市を吊り下げることはできなかったのだろうか。この呪われ、変質した地球の歪んだ岩の裂け目にある小さな不純な金や宝石の発見は、これらが単なる影にすぎないという現実を思い出させる余韻になるのだ。本物、不滅のものは、神を建設者とし、創造者とする都にあるのだ。

この変質し、退化した地球で、私たちが見るものは、影に過ぎない。「被造物(*)が虚無に服した…」(ローマ 8:20)。私たちが大切にしている黄金、崇拝している宝石、建設した都市や邸宅は、やがて崩れ落ちる都市にある本物の複写に過ぎない。

アドラムの子どもたちは、幻の中でこの神の都に捉えられた。彼らがどのようにしてその都を見ることができたのか、私にはわからない。アブラハムがどのようにしてそれを見たのか、私は知らない。パウロがどのようにして、肉体のままで、肉体を離れて、パラダイスに捉えられたのか、私にはわからない。これらのことは、自然の摂理を超えたことなのだ。私たちは、今のところ、その方法を知る必要はない。私たちが知っているのは、事実だ。ヨハネは街を見せられた。彼は主から、自分が見たことを書いて諸教会に送るように言われた。

霊によって、アドラムの子どもたちは、夢の中ではなく、生きた現実として、幾度となくこの都に引き上げられた。そのため、子どもたちは、日常生活で遠い場所を訪れるように、自分の魂が肉体から離れて天国へ行き、戻ってきたと思ったり、不可解な方法で魂と肉体が天国へ行ったと考えたりした。パラダイスで子どもたちが天の果実を摘んで食べている時、よく余分なものを集めて衣服に入れ、「ムヒシとシム」(ベイカー牧師夫妻)のために地上に持ち帰っていたのである。

彼らは、自分たちが天を訪れただけで、すぐに戻ってくることを知っていた。帰ってきて、夢心地の状態から起きると、アドラムの部屋にいることがわかり、早速、私たちを喜ばせるために持って帰ってきたおいしい果物を衣服の中から探した。しかし、その果実が見つからず、彼らの顔には大きな驚きと混乱と失望が浮かんでいた。彼らは、自分が天国に行き、果実が衣服に入ってないことを、しばらくは信じることができなかった。

彼らにとっては、新しいエルサレムの街を歩くことは、中国の街を歩くのと同じくらい現実的なことであった。ある日、明るい日差しの中で道を歩いていた時、私は少年たちに、幻は今見ている街と同じくらいリアルで鮮明だったかと尋ねた。「しかし、天の光と白い衣服と清潔さが明るさを増しているため、もっと鮮明である。」と彼らは答えた。

霊の中にいる時、子どもたちはたいてい周囲の環境に気づかなかった。多くの場合、彼らは自分が天国にいると思いながらも、見たものを声に出して話し、私たちにも聞こえるように会話をしていた。また、天国でやっていると思い込んでいることを、私たちの目の前で演じてみせることもしばしばあった。

第三の天まで引き上げられた

アドラムの子どもたちは、第三の天に行ったと言った。第一の天(*)を通り過ぎた時、顔に空気を感じたと言った。第二の天(*)を通り過ぎた時、彼らは人が山の頂上から光に満ちた美しい街を見下ろすように、星々の素晴らしい美しさを懐かしがった。

天のエルサレムに来た

この星々の天から第三の天を経て、天のエルサレムに至る。この天の都に近づくと、遠くにその光が見え、近づくと、美しい壁が素晴らしい碧玉の光を放っているのが見えた。その土台は、赤、黄、オレンジ、紫、青、緑など、十二の美しい宝石の色で輝いていて、何とも言えない美しさだった。

この天空の都市を子どもたちは、一つの都市が別の都市の上に吊り下げられ、下に最も大きな都市、上に最も小さな都市があり、ピラミッドを作っている、三つの都市が一体となったものとして見た。ヨハネが見たこの都は、周囲を城壁で囲まれており、高さが2200キロもあることから、聖書を学ぶ人々は、天上の都は立方体ではなく、ピラミッドであると考えたのである。しかし、私たちの子どもたちはそんなことは知らないし、私も新しいエルサレムが三つの都市で、一つは別の都市の上に吊り下げられているなどとは考えたこともない。世界を空間に吊り下げている神は、これらの都市を空間に吊り下げることができるのだ。聖書は都市の細かい作りを語ってはいない。

小さな男の子の一人が、主の足元で幻を見ている時に、主が彼に語りかけ、預言を語った。この預言の中で主は、天をすべての人が入れるほど大きくし、それを三つの都市に分け、一つ上の都市に主の王座がある、と言われた。

天上界では時間も距離もないのだから、この神の都の配置に不可能はないのである。天は三つある。神が現在の被造物を保存した箱舟は三階に分かれていた。神は三位一体なのだ。大いなる王の都は、なぜ三つで一つであってはならないのだろうか。「家を建てる者の見捨てた石が礎の石となった。」なので、全宇宙のピラミッドの頂点から王が君臨してはならないのだろうか。

都への門

アドラムの子どもたちは、真珠のような門をくぐって、黄金の街へと入っていった。白衣の天使が門を守り、入ってくる者を歓迎した。孤児のような扱いは、ここにはない。ここでは、かつて地上では追い払われた者たちが、天使の軍勢によって王として迎えられたのである。救い主は、最も弱く、最も謙遜な子どもたちに、王の王と共に治める王国を約束されたのではないか?

門をくぐって都へ、地から天へ、死すべきものから不滅のものへ!

死から命へ!すべての古い命は後ろと下に!

新しい命が前と上に、門をくぐって!天使がいたるところに。天使が話し、天使が歌い、天使が喜び、天使がハープを奏で、トランペットを吹き、天使が踊り、王を賛美している。

このような光景は人間が見たことがない。永遠の命、神の天国の命、天国の「手付金」、「保証金」である聖霊に満たされた時以外、誰も知らないような喜びが溢れる。

子どもたちは手を叩いて喜びに満たされた。歓喜の声を上げた。彼らは時々、自由奔放に笑いながら床に転がり、大喜びで飛び跳ね、踊った。彼らの顔はこの天の喜びによって大きく変わり、天の都の栄光が私たちを照らしているように見えた。この街には悲しみはなく、暗い堅苦しい宗教もなく、賛美歌の中に葬儀の鎮魂歌もない。この街は喜びの街であり、「聖霊による喜び」、「言葉にできない喜び、栄光に満ちた喜び」であった。(ローマ 14:17

数え切れないほどの天使の群れ

「あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」(ヘブル 12:22)という聖句の意味を子どもたちは都の中で知った。都の門の周りだけでなく、都の至る所にこの天の軍勢がいたのである。天使たちは、子どもたちを街のあちこちに連れて行く用意ができていた。天使たちは子どもたちと一緒に歩き、話をした。天使たちは、ヨハネと話をして神のことを明らかにしたように、子どもたちが理解できない意味を説明してくれた。

天国の音楽と言葉1ペテロ 1:8

天使たちとの体験の中で、子どもたちはしばしばハープを与えられ、それを弾き、天使たちがしたように歌うように教えられた。また、トランペットを吹くことを教えられ、天国の音楽と言語を教えられた。

子どもたちが目を閉じて部屋の中をリズムよく踊っているのを見ると、幻の中で彼らは天国の天使たちと一緒に踊り、天国の音楽に合わせて拍子をとっていることがわかった。トランペットを吹いたり、ハープを弾いたりしているところを見ると、幻の中で彼らは天のオーケストラと一緒になって王を賛美していることが分かった。私たちには天のハープやトランペットは見えない。天使たちの喜びの踊りも見えないし、歌声も聞こえない。ただ、子どもたちが天の歌を歌う声だけが聞こえた。

隅っこで一人、松葉の上に気持ちよさそうに寝転んで、ハープを弾く動作をしている子どもを見つけるのは日常茶飯事だった。近づいてみると、教えたことのない新しい歌を歌うのが聞こえてくる。さらに近づいてみると、曲もさることながら、言葉も奇妙である。その歌い手は、天の聖歌隊で歌っているのだ。その歌は、天使たちが彼に教えた歌だった。その歌の言葉は、天使の言葉であったに違いない。(1コリント 13:1)この天使の聖歌隊で歌う子どもたちの姿は、忘れられない光景だった。

天の都やその素晴らしいパラダイスのどこかの場所で、何人かの子どもが一緒に演奏して歌うこともあった。目を閉じて、聖霊の力を受けながら、3、4人が一緒に歌った。近くにいれば、誰がラッパを吹くか、誰が歌うか、相談する声が聞こえてくる。すべてが決まり、全員の準備が整ったところで、天の賛美歌が始まった。トランペット奏者は両手を前に出して、ラッパを吹くように吹いた。ハープ奏者は演奏しながら歌い、楽器を持たない者は歌に参加する。私たちが分からない言語でほとんど歌ってたが、時々「地上で歌っていた」賛美歌を中国語で歌った。

イエスを見て礼拝する

天国の喜びと驚きのクライマックスは、血潮によって自分たちを救ってくださったイエスを「見て」礼拝することであった。

門を入ってすぐ、子どもたちは天使に連れられて、「イエスに会いに行った」。私たちは、この子どもたちが「イエスに会いに行く」と話しているのを聞き、彼らがキリストの御座に近づいているのを幻のように見ることができた。その素晴らしい御座に着くと、彼らは敬虔な気持ちで立ち、自分たちの救い主でもある全被造物の主を愛と情熱の心を込めて見つめた。彼らはまず、主に感謝し、賛美し、手を合わせて礼拝した。そして、ひざまずき、床に顔をつけて、「霊とまことによる」真の礼拝をした。これは、神の聖霊のバプテスマを受けていない人は、この世でほとんど知ることができない。

神の御座とキリストの御座

キリストの王座は、ヨハネが「霊にある時」に見たように、子どもたちも見た。

「たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」(黙示録 4:2-6

イエスは天国のすべてのものに勝って偉大である

子どもたちが金の都の不思議にどんなに驚いても、パラダイスの楽しみの中でどんなに幸せになっても、天使たちの前でどんなに喜んでも、イエスのことは決して忘れることはなかった。すべての会話の中にイエスの名があり、すべての楽しみの中にイエスの賛美が混じっていた。イエスは、そこではどこでも、すべてにおいて、またすべての人の中で、いつも大きく称えられていた。

純金の大通りの家々ヨハネ 14:1-2

美しい黄金の大通りの両側には、建物が並んでいて、一人一人の部屋があり、どの部屋も大通りに面していた。正面扉の上には貴重な宝石が飾られ、その建物は光と栄光で輝いていた。扉の上には、それぞれの住人の名前が書かれていた。天使は子どもたちを部屋へ案内した。どの部屋にも同じような調度品があった。美しい黄金のテーブルの上には聖書、花瓶、ペン、本があり、テーブルのそばには黄金の椅子があり、素晴らしい黄金の箱と黄金のベッドがあった。各部屋には宝石の冠、金のハープ、トランペットが置かれていた。壁は金色であった。地上では見たこともないような紙で作られ、金で装丁された聖書からは、光と輝かしい栄光が輝き、部屋全体が他の光を必要としないほどであった。訪問者たちは、死後滞在するようになったら、パラダイスに出て好きな花を摘んで、黄金のテーブルの上にある美しい花瓶に入れることができると言われた。

天国への訪問の間、子どもたちは自由に自分の部屋へ行き、聖書を読んだり、ハープやトランペットを演奏したりすることができた。時には、トランペットやハープを街やパラダイスに持ち出して、今天国にいる天使や贖われた者たちと一緒に演奏したり歌ったりすることもあった。

このような天国への遠足で、子どもたちは地上の現実の環境から目をそらしながらも、天国への訪問が一時的なものであることを常に意識していた。死後、自分たちのために用意されたものを見て、再び地上に戻って人々に伝えるためであることを、彼らは知っていたのである。

天使と主は、天国の訪問者たちに、もし彼らが信じて従うなら、これらのものはすべて彼らのものになると告げた。彼らは再び地上に戻らなければならないことを知っていただけでなく、いつ戻ってくるかも知っていた。

ある少年は、天国の栄光を味わった後、死んで天国に行ってもまた使えるようにと、王冠とトランペットを自分の部屋に飾った。その後、彼は地上に戻ってきた。聖霊の力は彼のもとを去った。彼は目を開けると、私たちのアドラムの部屋で天国への旅の素晴らしさを語っていた。

主がこれらの少年たちを救い、聖霊のバプテスマを授け、そして嘘の神話的な天国を見せて彼らを騙したと思えるだろうか。ありえない!人間の父親は、偽りの希望と偽りの約束で自分の子どもを欺くことがあるかもしれない。しかし、私たちの天の父は、子どもたちのために持っているものを示し(1コリント 2:10)、これらを与えると約束し(黙示録 3:21)、そして約束したそのものを与えます(ルカ11:9-13)。

この子どもたちは、アドラムの友人の天国の部屋の名前の表札を見た時、手を叩き、笑い、大喜びで叫び、一人一人の名前を呼んで、自分の部屋を見に来た。御霊にあって歩む者は、新しいエルサレムの大通りを通りながら、それぞれの扉の上にある名前を読んでいた。

亡くなったアドラムの少年たちと天国で会う

子どもたちに聖霊が下り、一人の少年が天に引き上げられた最初の日、彼を迎えに来た天使たちと一緒に、間違いなく救われた、前年に亡くなった二人のアドラムの少年もやって来た。この二人、「ヒディエンフー」と「ジャンシン」は、四年前に箇旧(こきゅう)市で死んだ小さな女の子も連れて来た。

先に死んで行った人たちは、天国の喜びと不思議に圧倒されている少年たちを導いた。そして、まずイエスと出会い、礼拝と感謝を捧げるように導かれた。その後、住まいを見せてもらい、街中を案内したり、パラダイスに連れ出して遊んだりした。

天国に行った者は皆、白い衣を与えられた。天使たちも汚れのない白い衣をまとい、翼を持っていたが、贖われた者には翼がなかったので、明確に区別ができたのだ。

その後も、多くの天国の幻を経験している少年たちが、先に亡くなったこのアドラムの少年たちと会った。聖霊に捉えられた彼らは、私たちの目の前で天国の幻を演じ、天国は遠くないように思えた。目を閉じ、輝く顔で、最近亡くなったこの少年たちに手を叩き、喜びの声をあげ、ある住居、ある黄金の道、天使たちの新しい光景、パラダイスの庭での新しい発見を見るために急いで来るように、あるいはハープを弾いてイエスの賛美を一緒に歌おうと呼びかけたりした。死んだ少年たちは常に天国で見かけられ、その名前は私たちの間でよく叫ばれていたので、遠い存在ではなく、ただ目の届かないところにいるように見えた。天国はとても現実的で、とても近く、とても素晴らしく、とても確かなものだったので、もし私たちの子どもの一人がそのころに死んでいたら、他の子どもたちはその特権をうらやんだことだろう。

死後、あるいは主の再臨の時、天国に登る段階は非常に小さく、主の再臨は非常に近いと感じていたので、最初の弟子たちがなぜ財産を売り払い、迫害や死に直面しても揺らぐことがなかったのか、すべての謎が頭から消えた。

私たちの国はこの世のものではない。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ 3:20)私たちの人生、仕事、奉仕、苦難は、真の人生、真の都市、揺らぐことのない真の王国へ向かう途中の、短い、過ぎ去る時に過ぎない。

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第五章 – パラダイス

聖書は、自然界の創造物の再生(復活)を教えている

パラダイスの幻について語る前に、この子どもたちが見たパラダイスが、聖書の言葉で明らかなように、子どもたちに対する御父の計画と一致していることを知ってもらいたい。主は最初の完全な人間と主の完全な花嫁を創造された時、エデンの「東方に庭を造り」、そこにご自分が造られた人を置かれた。「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。」(創世記 2:9)つまり、主は初めから、人間があらゆる美しい自然の中に住むことを計画されたのである。神ご自身が計画し、植えられた不思議な「園」であるエデンの東側に住まいを与えられたのである。その秩序には、罪はなかった。病気も死もなかった。いばらもアザミもなかった。呪いもなかった。それは今の世界とは違う世界だった。その世界は、人間が永遠の命の中で、地上の天国だった。現在の地球では見たこともないような「見るのに好ましい」木々や花々全てを、人間が美と栄光の全てを支配する世界だった。神は人間の永遠の幸福のために、これらすべてを計画されたのである。

しかし、罪が入り込み、この被造物への人間の喜びは、限られた、一時的なものとなってしまった。最初に造られた世界とそのエデンにあった最初の被造物、鳥、花、木、動物などは、永遠の状態から、永遠でない低い秩序へと落ちた。「被造物が虚無に服した。」(ローマ 8:20)罪によって、人間はエデンの「園」とエデンの神を失った。

罪から回復した人は、エデンの神とエデンの園を取り戻す。それどころか、人間は本来の秩序以上に回復されるのだ。新しい霊的な秩序に生まれ変わるのだ。

最初の秩序は地上のものであり、最後の秩序は霊的であるが現実のものである。それは、キリストが復活した後、人間としてのイエスと似ているが、やはり霊的であり、地上の秩序とは異なっているのと同時に似ている。キリストはまだ弟子たちと一緒に食べたり飲んだりすることができた。(使徒 10:40-41)キリストにはまだ肉と骨があり、触ることができ、(ルカ 24:39)飢えた弟子たちに魚とパンを分けることができる手があった。(ヨハネ 21:9)しかし、復活した秩序においては、主は時間や空間や物理的な境界線といった物質世界の制限を受けなかった。同じように、自然界の動物、鳥、植物も、より高い秩序に生まれ変わり、それは最初の創造と似ているようで違うものだ。それは、再び腐敗と非現実に陥ることのない真の秩序となる(ローマ 8:20)。

自然界の被造物は、キリストの復活によって新しく生まれ変わるのである。キリストが救うのは人間だけではない。人間の堕落によって非現実に陥った被造物全体を救われるのだ。なぜなら、

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ 8:19-21)

もしこれが、植物や動物やすべての自然界の生命の現在の自然の摂理が、同じ復活の摂理と同じ自由を救われた者が新しい地で楽しむことを待ち望んでいるという意味でないとしたら、何を意味するのだろうか。すべての自然は、贖われた者の新しい霊的再生を待ち望んでいる。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂(*)にするためなのです。」(ヤコブ 1:18)

「御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ 1:15)

キリストが「造られたすべてのものより先に生まれた方」であるのは、新しい秩序に復活することによって、動物や植物の創造が最終的にこの秩序に続き、キリストが「初穂」に過ぎない完全な収穫となるからではないだろうか。

「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ 3:13)

この新しい地には、木々や花々、動物や鳥など、栄光を受けた自然のあらゆる美が、より高い朽ちることのない秩序の中にあり、永遠に生き続けるのではないだろうか?

「 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。」(イザヤ 11:6)

これらのことは、神の御言葉と同じくらい確かなことです。

「御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』」(黙示録 21:5)

ヨハネは「新しい天と新しい地を見た」と言い、また新しい地には「聖なる都、新しいエルサレムが天から下って来るのを見た」と言った。(黙示録 21:1-2)

最初の地球に喜びと果実のエデンの園があったように、より高い再生と復活の秩序の中で、新しいエルサレムには新しい秩序の中で新しい地にエデンの園があるのだ。このエデンの園は、まだ下っていないけれども、間もなく下ってくる新しいエルサレムの中に、すでに天上にあるのだ。

パラダイスは植物、動物、再生された自然の「公園』

アドラムの子どもたちが見たような天国のパラダイスの啓示は、おそらくほとんどの読者にとって、私たちと同じように新鮮に感じられることだろう。なぜなら、私たちは頭が鈍く、「聖書に書かれていることをすべて信じる」ことに鈍感だからだ。

私たちは、このパラダイスについて、この子どもたちに教えたのではない。彼らが私たちに教えてくれたのだ。当然これらの事柄について最も無知であった最も小さな子どもたちの何人かが、私たちの最高の先生となったのだ。彼らが主から学んだことは、聖書の教えと比較すれば明らかに分かることだ。聖書は、この子どもたちが見たようなパラダイスがまさに天にあることを教えている。パウロは、「第三の天にまで引き上げられた」人を知っていると言い、その人は「パラダイスに引き上げられた」と言った。(2コリント 12:2-4)

「…御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙示録 2:7)

また、天国の様子については、こう書いてある:

「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示録 22:2)

なので、川の流れと果樹が天のパラダイスにあると分かる。

このパラダイスは、この上なく素晴らしい「公園」であり、それはまさに「パラダイス」という言葉の意味である。「パラダイス」とは、「エデン」という意味です。「エデン」は「パラダイス」を意味する。「エデン」は「公園」である。「パラダイス」はそれゆえ「公園」である。聖書辞典では、“Paradise” について、「これはペルシャ語起源の言葉で、ギリシア語訳旧約聖書では『エデン』の訳語として使われている。その意味は、喜びと果実の果樹園、庭園、またはイギリスの公園のような楽園である。

しかし、この天国の「公園」は、地上の公園の写しに過ぎない。なぜなら、神の考えが人間の考えより優れているように、その広さと美しさは地上の公園よりずっと優れているからである。絵のように美しい風景、流れる小川、水たまり、木立の中庭、青々とした緑、香りの良い様々な花、さえずる鳥、動物のペットなど、人間の最も美しい公園は、「初めにあった」エデンを再現するための不完全な模倣にすぎない。

もし神が人間の心に自然を愛し、自然の喜びと実りを求める気持ちを植え付けなかったとしたら、人間の心に昔からあるこの普遍的な自然への愛は、いったいどこから来たのだろうか。この呪われ、滅びゆく地球の消えゆく自然の美を少しでも守ろうとする人間の努力は、ほんの数年のつかの間の虚しい空想にすぎないのだろうか。鳥や動物や花や木や山や谷や湖や川や、これらすべての神の手仕事を愛することは、この神を求める旅を少しでも元気づけるために主が与えてくださった、一時のお楽しみにすぎないのだろうか?自然界のあらゆる美しいものの最高の組み合わせは、天上の神のパラダイスにおける純粋な無限の現実の単なる前兆ではないだろうか?

これらの自然の美しさは、神を求める旅で通り過ぎるだけの風景ではない。それは神の道しるべであり、道の果てにある美のエデンを指し示しているのだ。自然への愛は、小羊の血とその血への信仰によって、神のパラダイスのある都、罪が決して傷つけることのない天のエデンの園に門から入るすべての人にとって、あらゆる自然の限界を超えた永遠の愛となりうるのである。

アドラムの子どもたちが天国の公園であるパラダイスを見る

私たちがそうであったように、皆さんも、アドラムの子どもたちが、空の向こうの都のパラダイス、エデンで何を見たかに興味を持たれるだろう。ある若者は、天の都に入るやいなや、ほとんどパラダイスにいた。そこで彼は、河口村(ホコウ)で死んだ二人のアドラムの少年に出会った。この少年たちは、彼を連れてパラダイスや聖なる都を通り抜けると、やがて、黄金色に輝く立派な木々に囲まれた、芝生のような広い敷地に来た。

その光景はとても魅惑的で、青年は二人の栄光に満ちた友人に言った、「私にはこれで十分だ。これ以上美しいものはない。私はここに留まる」と言った。先に天国に行った少年は言った「いや、ここで待つな。もっとすごいものがあるんだ」。もう少し行くと、さらに素晴らしい木々があり、中には実を付けているものもあった。公園のような周囲と、木の下の芝生が、この世のものとは思えないほど魅力的だった。青年は言った。「私はここにいなければならない。この素晴らしい美しさを残して進むことはできない。私はとても幸せだ」。「さあ、天国にはこれを超えるものがたくさんあるんだ」と他の人たちは言った。「あなたは行ってください」と彼は答えた。「でも、私はしばらくここに残る」。みんなは彼を木陰の芝生の上に残し、目の前にはビロードのような広い芝生の空間が広がっていた。その時、彼の全身に今まで経験したことがない喜びと幸福が溢れ出した。彼は喜びの国、「言葉にできない喜びと栄光に満ちた国」にいたのだ。

そこへ、ハープを弾きながら歌う天使がたびたび通りかかった。天使は微笑んで、彼にハープを差し出した。「私は弾けない」と彼が言うと、天使は通り過ぎた。やがて他の天使がやってきて、微笑みながら演奏し、歌った。

天使は白い衣を着ていて、その顔は完璧で、一人が他の人より美しいということはなかった。「彼らが微笑んだ時、ああ、それは表現できない」と少年は言った。「天使の微笑みを表現する方法は、この世にない」と。

パラダイスでも同じような、そしてそれ以上に美しい光景を、多くのアドラムの子どもたちが繰り返し目にした。パラダイスでは、最も美味しい果実のついている木々や、あらゆる色と色彩の最も美しい花々が一面に咲き誇り、非常に芳しい香りを放っているのを見た。また、輝く羽を持つ鳥たちが、喜びと賛美の歌をうたっていた。大きな鹿、小さな鹿、大きなライオン、大きな象、可愛いウサギ、そして見たこともないような小さな人懐っこいペットなど、この公園には大小さまざまな動物がいた。

天国のパラダイスでライオンや他の動物たちと遊ぶ

子どもたちは、小さなペットを抱きかかえて、次から次へと渡していった。あるいは、木の下で平和に寝ているライオンを見つけたかもしれない。ライオンの背中に乗って、毛むくじゃらのたてがみを指でなぞったり、顔をなでたり、口の中に手を入れたり。もし望むなら、ライオンのそばで丸くなり、共通の創造主の愛を一緒に楽しむこともできる。なぜ、そうしないのか。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ 11:6-8)

小さな子どもは小さな鹿に乗り、年長の子どもは大きな鹿や人懐っこい象に乗った。すべてが完璧な愛であった。すべてが素晴らしいハーモニーだった。歓声が上がる。子どもたちの楽しそうな笑い声、天のお父さん以外の誰が、このようなパラダイスを考え、計画したのだろうか。

天国の食べもの・飲みもの「喜びと実りの公園」

子どもたちはお腹が空くと、素晴らしい果実を食べたり、(黙示録 2:7)あちこちに散らばっている甘い味とさわやかなマナを自由に集めた。(黙示録 2:17)喉は渇いたか?あちこちに、さわやかな命の水の小川が流れていたのだ。(ルカ 22:30)

アドラムは天国の聖徒たちを見る

パラダイスの木々や花々、鳥たちに囲まれた芝生のような広場で、アドラムの子どもたちは贖われた民が天使たちと一緒に踊ったり、トランペットを吹いたりしているのを見た。

小さな子どもも大きな子どもも大人もいたが、年老いた人はいない。この楽しい祭りの集団に加わることもあった。なんという天国の光景だろう。なんという天国のような歌い手たちだろう。天使と贖われた者たちの喜びはどれほどであっただろうか。天使たちは、アブラハム、ダビデ、ダニエル、預言者たち、聖徒たち、昔の殉教者たちを指さした。ペテロ、ヤコブ、パウロ、その他を見たのだ。貧しいミャオ族から来た少年の一人は、その地に先に行った叔母と小さな妹と会った。箇旧(こきゅう)市で亡くなった中国の「小さなマリア」である妹は、今天国で彼らと合流して、少年たちと手を繋いでいた。

ある少年はクリスチャンの死の幻を見た

この世界では、親族や友人が死にゆく者のベッドの横に集まってくると、天使もそばに立っていて、クリスチャンの魂が解放されるのを待っていた。その人が体の束縛から解放されると、天使はその人の腕をとって一緒に天に昇っていった。第2の天にいる悪は全力で、天使と彼の通行を妨げようとしたが、天使の信仰と賛美によって跳ね返し、天の都に向かって昇天していった。

この新しく天の門へ向かっていく人々は、天使の群れに迎えられ、歌い、踊り、喜び、すべてが一体となって、贖われた者たちの永遠の都に王家の者として迎え入れられたのである。

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第六章 – 私たちの間にいる天使

アドラムの少年たちに聖霊が注がれる時、いつも天使の幻を見ることが伴った。

天使に関する聖書の教えをいくつか覚えておくとよい。聖書は、天使が聖霊の働きの一部であることを教えている。「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。」(1コリント 14:32)預言者が聖霊の霊感を受けて語る時、天使は預言的な発言に何らかの役割を果たす。ヨハネがパトモス島で見た幻や、「霊にある」時に受けた啓示は、天使を通して与えられたもの(黙示録 1:1, 1:10)。なので、天使は夢心地の状態にあること、聖霊を通して幻を見ること、聖霊を通して啓示を受けることと関係がある。

それぞれの真の教会には、おそらく、その特定の教会に仕える特別な天使がいる(黙示録 1:20)。救われた人は皆、自分に仕える天使を持っている(ヘブル 1:14使徒 12:15)。なぜなら、子どもに仕える天使は天の神の御座に常に近づくことができる(マタイ 18:10)。天使はいつも私たちを見ているが、私たちが天使を見ることはめったにない。天使は階級が違う(1コリント 4:9)。

旧約聖書と新約聖書の両方が、アドラムにおける天使の働きを十分に立証しているのである。私たちはすでに、悪霊が残酷な鎖で縛って地獄に引きずり込もうとしている子どもたちを天使が救い出すという幻を見たことを話した。天使はどうやら、失われた人々を救う役割を担っているようだ。天使は子どもたちを天国へ導き、黄金の道とパラダイスの栄光をエスコートしたのだから、アドラムに与えられた幻にも天使が関係しているようだ。天使と一緒に踊ったり歌ったりしている時に他の言語や異言を話す子どもたちが多かったので、天使が他の言葉で話すことと関係があるのかもしれない。

子どもたちはまた、大勢の天使が天を飛んでいる素晴らしい幻を見、時には、天使が天から地へ飛ぶのを見た。

アドラムの真ん中とその周辺にいた天使たち

聖霊の臨在が特に豊かであった時、多くの子どもたちは天使が近くや部屋の中にいるのを見た。また、悪霊の力によって妨げられた時、天使が解放してくれるのを見た。私たちの中に主がおられるという最も祝福された感覚と、最も平安な一致と愛の場面では、部屋の真上に大きな天使がおり、部屋の周りはすべて小さな天使が並んで立ち、それぞれが右と左に触れていたので、円全体には悪霊が入る隙間はなかったのである。部屋の中に悪霊がよく見えたが、このような機会に、子どもたちの一人または数人が私たちの周りに天使の守備隊を見た時、悪霊の幻は全くなかった。

ある晩、天使の守備隊が完璧な状態で私たちの周りにいた時、子どもたちは、天使の輪の中にいる聖霊による祝福された交わりを妨げることができないために、天使の輪の外にいる悪霊が怒って騒いでいるのが聞こえたと言った。箇旧(こきゅう)市の少年たちも、この天使の輪を見たことがあった。

子どもたちが、聖霊に満たされた幸せな人のすぐ上に天使がいるのを見た時、私はその集会にあった神の臨在の祝福された感覚を忘れることができない。私たちを見下ろすこの天使は、微笑みながら左右に振り返って、私たちを取り囲む天使たちを見、闇の力の入り口がないことを確かめていた。この天使はアドラムの特別な天使ではないか、周りの小さい天使は、私たち一人ひとりの守護者ではないか、と私は思った。ともあれ、子どもたちは天使を見た。普段は目をつぶって見ているのだが、時々目を見開いて見ていた。私たちは、自分たちが本当に天使の前にいるのだと、何の疑いもなく信じることができた。

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第七章 –  悪魔の王国

聖霊の力強い注ぎがあったあの数週間の間、それを見た者であれば、対立している二つの王国があることを認めずはおれないだろう。天使が奉仕し、聖霊が真の光の王国へと導くように、悪霊も確実に妨げ、悪魔は真の闇の王国の悪霊の領域で統治しているのだ。一つの王国は、もう一つの王国と同様に、私たちにとって確かなものとなった。人間がその戦いの場であることがはっきりと明らかにされたのである。

「悪霊の低いランクと高いランク」(ローマ 8:38、ウェイマス訳)があり、「 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12)と聖書が教えている。旧約聖書も新約聖書も、闇の王国の実在と悪霊の実在を説いている。

悪霊

以前、一人の男から悪霊が追い出され、その大きな悪霊が怒りに燃えて部屋の中を駆け回り、ついには無防備に見ていた学校の教師に襲いかかり、彼を床に投げつけるのを見た話をした。この例では、二人の少年が、大きくて黒い男のような悪霊が、憑依している男の中に入っていくのを見た。何人かの子どもたちは、追い出された悪霊が、聖霊に満たされた青年によって部屋から追い出され、中庭の小さな木の陰に一時的に避難するのを見た。この悪霊と、その半分ほどの大きさの悪霊は、目を閉じて祈っていた子どもたちにも、目を開けていた子どもたちにも見られた。しかし、全員が同時に同じものを見たのである。悪霊の姿は、一人ひとりにとっては同じであった。

アドラムには、明らかに悪霊の活動に対して心を開いてしまった少女がいた。彼女は、ここに来る前、意識喪失発作に襲われたことがあった。来所してしばらくして、他の女の子たちと郊外に散歩に出かけた。その帰り道、弱視の新入生の一人が、道に迷ってしまった。迷子の少女を探しに行った年長の少女は、その少女と一緒に家に帰ろうとした時、数歩離れた目の前に3匹の魔物がいるのを見た。1匹は「扉ぐらい背が高く」、十二歳の少年くらいの大きさの2匹を従えていた。いずれも暗い顔をしていて、目が大きく、恐ろしい顔をしていた。2匹の悪霊は、大きいものに従っていた。少女はそれを見て怯えた。大きな悪霊が近づいてきて、彼女の頭をつかんだ。彼女はめまいを起こしほぼ意識を失った。彼女はほとんど歩くことができなかった。彼女は道がまともに見えず、探しに行ったもう一人の少女に家まで連れていってもらわなければならなかった。家に着くと、しばらくの間、彼女は良くなった。やがて、皆が夕食を食べていると、ある人がやってきて、この少女が自分の部屋で意識を失っていると言った。私たちは、彼女が床に突っ伏して、まるで安らかな眠りのように呼吸しているのを見つけたが、彼女を起こすことはできなかった。私たちは彼女のために祈った後、全員で夜の定例祈祷会に集まった。その後少女はすっかり元気になった。

彼女は、自分が鎖で縛られ、悪霊に引きずられて大きな暗い道をどんどん進んでいるようだと言った。そして、その間ずっと黙って祈っていたが、突然、主が自分を解放してくださったことに気づき、起き上がることができたという。部屋の中で一人ベッドに座っていると、道で会った3匹の悪霊が今部屋にいるのが見えた。しかし、彼女は主が勝利者であることを知っていたので、もう何も怖くなかった。そこで、彼女はイエスの名によって悪霊を部屋から追い出した。それらがしぶしぶ一歩ずつ退くのを、彼女はイエスの名によって追いかけ、屋敷の入り口にある大きな中国風の扉から出る歩道に沿って追い出した。その後数ヶ月間、彼女はもう意識喪失発作を起こすことはなかった。

この2つの事例を少し詳しく説明したのは、どちらの場合も悪霊の活動の影響があまりにも明確で、それを見たどんな人でも超自然的なことが起こったと分かるだろう。この数年間に見えてきた悪霊の活動については、多くの事例を挙げることができるが、ここではこの2つの事例で十分だろう。

私たちが理解できない現れがあった時、私たちは祈り続け、主に信頼し、明らかに有害または罪深いものを見ない限り、干渉しないことに決めた。8週間にわたって素晴らしい聖霊の現れを見た後、私たちは干渉しないで、子どもたちの間に自由を認めていたことに感謝した。最初は理解できなかったことが、主のご計画の一部として、最も素晴らしく貴重な啓示として私たちに与えてくださったとわかった。

子どもたちが見た悪霊ども

これらの珍しい啓示の中に 子どもたちが見た悪霊のことがあった。聖霊を受けて祝福された時を過ごしている子どもたちがいる一方で、祈ろうとすると眠ってしまう子どもたちもいた。油注ぎ(*)の下にある者は、眠くて祈り通せない者のそばに、しばしば悪霊を見ることができた。開いている窓やドアからそれが入ってくるのが見えたのだ。時には、部屋の中にあるテーブルの下や長椅子の上にそれがのんびりと横たわっているのを見た。聖霊の油注ぎの下で、子どもたちは目を閉じて、イエスの御名によって、悪霊をその場所から追い出し、それらがドアや窓から出て行くまでついていくのであった。

そして、それを追跡して部屋の外に出て、屋敷の表口や裏口を開け、追い出すということが頻繁に行われた。悪霊が現れると、何人もの人が同時に見ることが多かった。

子どもたちの中には、悪霊を見たことがある子もいた。また、以前からそれを見たことがある者もおり、主についていくら教えて安心させても、恐れるあまり、夜中に一人で部屋に入ったり、頭を覆って寝たりしていた。しかし、このような啓示を通して、子どもたちは、イエスの血潮で覆われた最も小さな子どもには、最も大きく獰猛な悪霊も無力であることを知り、初めて悪霊を恐れなくなった。そして、多くの中国の子どもたちが暗闇でも恐れず、頭を覆わないで眠ることができるようになった。

悪霊はどんなものだったのか

悪霊はどんなものだろうと思われるかもしれない。しかし、この悪霊は、中国の寺院にある鬼の偶像によく似ている。聖書によれば、(1コリント 10:20)また中国人によれば、偶像崇拝は悪霊崇拝である。鬼の偶像を作ることは、見た悪霊の似姿を再現することである。

子どもたちは、「ドアのように高く、あごが尖っていて、頭がイボイボしている」悪霊を見た。その半分の大きさのものもあった。60〜100センチの高さの小さなもの、10センチ位の高さの小さなものがいて、大きな悪霊の後をついて回っていた。

大きな目をした獰猛な悪霊は、捕虜を縛って地獄に連れ去る力があるとして恐れられているものである。

天にいるもろもろの悪霊

地上の悪霊と協力している空中(天)にいる悪の力の軍勢とその闇の仕業は、さまざまなアドラムの証人によって目撃された。その証言は次のとおりである:

悪の軍勢が支配するのは第二の天である。ここには、悪魔の使いたちが地上に対して悪の統治を行うための王座がある。闇の支配者はさまざまである。ある者は他の者より背が高く、服装、冠、顔の表情、性格、権威もさまざまである。あらゆる点で、彼らはサタンの軍勢が盲従するような悪の仕業と行為をしている。

これらの悪の支配者たちは、自分たちの間で絶えず争い、より高い権力者の権威に憤り、互いに嫉妬し、全員が最高位の座を切望している。上位のものたちは、下位のものたちの同意によってではなく、もっぱら自分たちの優れた激しさと力によってその地位を保っている。徒党や派閥は絶え間なく対立し、喧嘩をしている。

すべてのものがさまざまな階級を表す王冠を持っている。すべてのものは、下界の悪霊の力をさらに強めるために委任された職務に就くよりも、上位の王座に座って地上の悪の仕業を監督することを望む。

最高位のものは第2の天の王座に座り、無数の悪霊の群れを支配している。その中から代表が絶えず地上に派遣され、人間を誘惑し、正義の力に対抗し、地上の悪霊の力の弱いところを強化し、悪人が死ぬと魂を縛って地獄に引きずり込むのだ。

この悪の使いたちは、第3の天を飛んで新しいエルサレムの門に至り、地上に降りてその空中を飛んでいるが、彼らが無数に集まっている中心は、第2の天の権威の王座の領域だ。ここでは大小の悪霊の軍勢があちこちを飛び回り、意図的に動き回る。高位の悪の使いの周りには、ある種の後光が差している。

すべての悪の使いはいくつかの点で似ている。すべて翼を持ち、冠をかぶり、天界に属している。委任された使者は一時的に地上に行くだけで、邪悪な使命を終えて、再び天界に戻る。

地上の悪霊の軍勢は、悪魔の使いとは全く異なる。地上のそれには翼がなく、速く歩いたり走ったりすることができ、自由に動くが、明らかに地上を離れることはない。それらは身長が10センチ位から3メートルまで様々で、多くの縞のある派手な色の服を着て、様々な形と色の派手な帽子をかぶっている。一方、ある者はボロ布や不潔な衣を身に着けている。

地上の悪霊の中には、ほとんど力を持たず、むしろ無害なものもある。しかし、あるものは体格が大きく、容貌が凶暴で、大きな力を持っている。これらの悪霊は、正しい人間の働きや、人間の中の天使の働きに対抗することができる。

ある天使との戦いで、地上の悪霊の中で最も身分の高いものが、身分の低いものとともに天使の周りに集まり、棍棒や剣などの武器で天使を打とうとしたことがある。しかし、天使は信仰と主への賛美によって、この猛攻を耐え抜き、一撃も受けず、魔の手も及ばなかった。力の弱い悪霊は、少し離れたところに立って戦いを見ていたが、仲間の攻撃が成功しないのを見て、天の悪の力に頼んで、空から悪の使いの増援を頼んだ。すると、10人の悪の使いが降りてきた。この使いが地上に近づくと、地上の悪霊たちは手を叩いて喜んだ。上空の悪の使いが戦いの場に到着すると、力の弱い悪霊たちは距離を置いて、上空の悪霊の代表団の前に敬意を表して静かに立ち、今度は天使との戦いに挑んだ。天使もまた、賛美と信仰をもってこれらの勢力に対抗したが、突然、神の栄光が下り、すべての悪の軍勢を完全に打ち負かしたのであった。

改心していない人が死ぬとどうなる

クリスチャンが死ぬのを見た少年は、改心していない人が死ぬ時に何が起こるかも見た。

福音を知らないある男が死んだ時、彼の魂は肉体から離れた後、地上のあちこちを自由にさまよい、悪の使いの一人が空から鎖を持って降りてきて彼を縛り、地獄に追いやった。主を知りながら、心から悔い改めなかったあるクリスチャンの死は、さらに恐ろしいものだった。この男が死ぬ時、悪霊たちは、この偽善的で一度だけ公言したクリスチャンの魂が体から離れることを嘲笑いながら待っていたのだ。悪霊たちは、彼が完全に肉体から離れる前に彼を縛り始め、息を引き取った瞬間に、その捕虜の縛りを完了させたのである。偽善者が地上をさまよう自由は一瞬たりともなかった。悪霊に捕らえられた者は嘲笑の的となり、恐怖のあまり、すぐに地獄に引きずり込まれ、突き落とされた。

このような不道徳な男は、悪霊の特別な遊び道具となり、鎖で縛られて地面を引きずり回され、何度も何度も起こされては、死んだ犬のように引きずり降ろされた。この男は、捕獲者を楽しませた後、地獄の暗い道を引きずり降ろされたのである。

アドラムから地獄に引きずり込まれた少年

ある軍の使い走り少年は、あまりの悪さで退軍させられた後、アドラムに来て、病気になり、死んで地獄に引きずり込まれたのだ。

彼が路上で物乞いをしているのを見て、私たちは彼をアドラムに引き入れた。彼は更生を約束し、外見上は良識を示し、かなりの期間、福音を聞き、悔い改めを公言した。

アドラムからいろいろな品物が消えた。しかし、この少年が盗んだ略奪品を売りに行く途中で捕まるまで、泥棒は見つからなかった。彼をここから追い出した。

数ヶ月の物乞い生活の後、この少年は私たちが戻ることを許しさえすれば改心すると何度も約束し、彼にもう一度チャンスを与えた。主もまた彼にチャンスを与えられた。聖霊の現れと超自然的な啓示があり、最も単純な人に人生の道を明らかにするのに十分であったからである。この少年も聖霊の油注ぎを受け、主が直接彼の罪について話し、より良い道を示されたのだ。それにもかかわらず、この少年は逃げ出し、盗賊の一味に加わってしまった。

数ヵ月後、彼は転んで腕を骨折し、感染症にかかり、死のうとしたところを病院の職員に拾われた。病院では、あまりの不従順さに放り出され、やがて路上で瀕死の状態になってしまった。しかし、改心の約束をしてくれたので、同情してもう一度引き取った。

一日一日と、彼の道は終わりに近づいていた。彼が死ぬ前夜、私は、何か野生動物の、あるいは悪霊の不気味な遠吠えのような、得体の知れない叫び声で目を覚ました。少年が死んだその翌日、私は家にいなかった。彼が死の苦しみの中に横たわっている時、喜んで、ひどい地獄のような悪霊どもが彼の周りに集まった。魂が体から離れる時、少年は捕獲者を見て、泣き、叫び、荒れ狂う恐怖の中で声の限りに叫んだ。「ベイカーさん、助けて!助けて!」「ベイカーさん、早く来て!」「ベイカーさん、早く来て!」。「ベイカーさん、ベイカーさん、ベイカーさん、ベイカーさん!」。「助けて!鎖につながれているんだ!私を捕まえに来たんだ、助けて、助けて、ベイカーさん!」

地獄の幻

子どもたちは何度も何度も、地獄と火の池の幻を見た。初めて聖霊の油注ぎを受けた人は、たいてい地獄の幻を見た。少年は悪霊に鎖で縛られ、暗黒の世界に連れて行かれた。ある子どもたちは、この領域で悪霊の声があちこちから聞こえてきた。遠くまで連れて行かれると、遠くにぼんやりとした光が見え、それは火の池の反射であることが分かった。ある子どもたちは、前方に火の池が見えるほど近くに連れて行かれた。彼らはずっとキリストの血を求めて、自分たちは従わない、奴隷になることはないと捕獲者に主張していた。彼らは、イエスが必ず救ってくれると信じていた。このクライマックス、火の池に到達する前に、主がご自分の血潮で買い取られた救いを介入されたことはすでに述べたとおりである。

聖書は地獄を漆黒の闇の場として描き(ルカ 16:22, 26)、悪魔の使いの一部が闇の鎖につながれて裁きを待っていることを教えている。

火の池

子どもたちは、地獄の闇だけでなく、火の池(黙示録 20:14)も見て、いつも漆黒の闇の領域を通って近づいた。(2ペテロ 2:17マタイ ​​22:132ペテロ 2:4ユダ 6

幻の中で彼らは、薄暗い穴の中にある溶けた火の大きな湖の端に導かれ、そこから煙の雲が立ち上っていた。煙が低くなると、湖の中の火はあまりはっきりしなくなった。煙が少し上がると、赤と緑がかった炎を持つ燃える湖とその中の人々がはっきりと見えるようになった。

子どもたちがこの地獄の穴を覗き込む時、家具にしっかりつかまって、あるいは手と膝をついて、用心深く前屈みになって地獄の世界を覗き込んでいるのが見えた。しばらく見てから、落ちないように恐る恐る後ずさりする。そして、その光景を目の当たりにして、愕然とする。そして、また用心深く覗き込み、引き下がる。火の湖の縁を見る時、滑って落ちないように、子どもたちは腹ばいになることもあった。

失われた者たちが地獄に入っていくのが見えた。ある者は地獄に落ち、ある者は縁を歩き落ち、ある者は悪霊の鎖で縛られ、地獄に投げ込まれた。ある少年は、悪人の集団が束になって、この火の炉に投げ込まれようとしているのを見た。(マタイ 13:30, 40-42, 47-50

火が消え、煙が静まると、惨めな者たちのうめき声が聞こえてきた。火の勢いが増し、煙が少し上がると、悲鳴と慟哭が聞こえた。

一人は床に転がされ、地獄で苦しむ魂と同じように泣き叫んだ。

火の池の中には、助けを求める手が森のようにあった。下にいる人たちは、自分たちを見ている人たちに、助けに来てほしいと訴えている。電話で会話をしているように、片方しか聞こえないように、子どもたちが彼らに話しかけているのが聞こえた。片方の会話はこうだ

「私はあなたを助けることができない」、「いいえ、私はあなたのために何もできない」、「でも、生きていたころは、福音に従わなかっただろう」。「いや、もう遅い。ここに来る前に私はあなたに福音を語ったが、あなたは私を馬鹿にし、イエスを軽蔑した。今なら、私が真実を話したことがわかるはずだ」。「いや、私は何もできない。これは神の裁きだ。」「従っていれば、今頃は私たちと一緒に天国を楽しんでいただろう。」

このような会話の後、子どもたちは天にいるイエスの臨在や神のパラダイスの黄金の通りの栄光を楽しむために連れ去られた。

ラザロは、地獄で炎の中で苦しんでいる金持ちが見えた。金持ちはラザロと話すことができたが、その溝を越えることはできなかった。(ルカ 16:19-31)キリストが地上に王の王として君臨する時、贖われた国々は失われた者たちを見つめるだろう。(イザヤ 66:23-24

ある少年が、キリストに導こうとした祖母が地獄にいるのを見た。彼女はかつて魔術師で殺人犯であり、村で聞いた福音に抵抗して、多くの人に無限の愛を拒ませたのである。他の子どもたちも、地獄にいる親族の幻を見た。地獄にいる祖母を見たこの部族の少年は、天国で自分の小さな妹と信者の叔母も見た。

どの幻でも、天国にいる人、あるいは黄金の通りのそばにある屋敷に名前の表札がある人は皆、イエスを信じていたのである。地獄にいるのはみんな不信仰な人たちだった。ある晩、主が小さな少年を通して素晴らしい預言を語られた時、その中に「福音を信じる人以外、天国には誰もいない」と言われた。

分かれ道

主が少年少女たちに最も素晴らしい聖霊のレッスンを教えられた後、最後にほとんど全員が分かれ道に連れて行かれた。

この幻は、忘れられないように何度も繰り返されたが、幻の中の人は、二つの大きな道の岐路に立っているように見えた。一方は天国と栄光へと続く狭い人生の道、もう一方は地獄と破壊へと続く広い道であった。

忙しく急いでいる大群衆がいた。仕事で慌ただしく、大きな罪の荷物を持ち、人生の問題に急いでいる人々が、大勢通り過ぎた。子どもは岐路に立った説教者に出会った。また、一方の道から会話が聞こえてきた。

「こんにちは、友よ。こんにちは!友よ!ちょっと待ってください、私はあなたと話したいのです。」

「あの広い道を通ってはいけない、それは地獄と破滅に通じている。私はその道を通って、自分の目で地獄を見たことがある。この岐路に立ち止まって、イエスにあなたの罪をすべて洗い流してもらいなさい。このキリストの十字架から、天国と永遠の命と喜びに至る別の道を歩み始めることができるのだ。」

「ああ、あの人は信じていない。広い道を進んでいくのだ。なんと哀れなことだ。私はこの男性を止めて、信じるかどうか聞いてみよう。」

「おいおい!ちょっと待って!あの群衆について行ってはいけないよ。彼らは自分たちがどこへ行くのかわからないんだ。その道は滅びだよ。それは火の池への道だよ。どうか、先へ進まないでください。私はできるだけ多くの人を止めて、警告を与えるためにここに来たんだよ。ここで引き返して、イエスに罪を洗い流してもらい、私たちと一緒に神のおられる天国への道を行くのが良いよ。ああ、彼も行くんだ!」

「ちょっと待ってよ!その群衆の中から出て来て。この道を戻ってくる人は誰一人もいないのが見えないの?みんなあの道を行って、誰も戻ってこれないんだ。あれは地獄への広い道だよ。ここで十字架のそばに止まり、イエスの血による救いの福音を信じれば、あなたは安全なんだ。この先には他の道はない。ここが天国への唯一の道だよ。ここで向き直さないと、あなたも迷子になるよ。」

「ああ、残念!彼も信じてくれない。彼は他の人と一緒に行ってしまうんだ。」

時々、若い伝道者は、誰も自分を信じてくれないなら、群衆について行って何が起こるか見てみることもあった。群衆と一緒に地獄の火の池の縁に着いた時、少年はこう言うのが聞こえた。

「あの群衆が地獄に落ちていくのを見よ!一人も逃げ出さない。みんな入っていくんだ!」

ゆっくりと穴の縁に近づき、身を乗り出して、苦しむ大群衆のいる湖を見下ろしながら、伝道者は言った:

「私は今、あなたを助けることができない。『福音の岐路』でこのことをすべて話したが、あなた方は信じようとしなかった。いや、たとえ私が助けることができたとしても、あなた方は信じないだろう。いや、私は今、無力なのだ。私が警告した時に聞いていれば、主はあなたを救ってくださったのに、忠告を聞かないから、あなたはここへ来て、落ちてしまったのだ。いや、できない。私は岐路に戻って、話を聞いてくれる人を探して、何としても何人かを止めようと思っているんだ」。

彼は時々、話を聞いてくれる人を説得するのに成功した。

「さあ、イエスの十字架の前に膝をかがめて祈りなさい!祈り方がわからないのか?じゃあ、私が言うとおりにしなさい。『イエス様、私は罪人です!私は地獄への道を歩んでいた。私は地獄にしか向かないのだ。私が背負っている大きな荷物は、罪だけだ。私の罪を赦し、あなたの栄光だけのために生きることを教えてください。アーメン』」。

その時、罪人が救われ、狭い道を登り始めたので、喜びがあった。一方、伝道者は、別の錯乱した旅行者を救おうと出かけていった。

このような幻が何度も繰り返された。救いは福音を通して、悔い改めとキリストの血潮への信仰によってのみ得られることがよくわかった。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ 22:14

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ 7:13-14

クリスチャンは、道の岐路に立って、力を尽くして人を説得し、警告しなければならないということも明らかにされたのだ。

それを見て、少年たちが、たとえ小さな少年であっても、聖霊の力を借りて、時には見たことのないような油注ぎを受けて、街頭に出て説教をしたことは、これまでにもお話ししたとおりである。最後に、ある大学生の話でこの章を閉じよう。

岐路を通った大学生

我が家の正門の向かいに、その年に大学を卒業するはずだった大学生が住んでいた。引っ越してから、「聖書やキリスト教のことを気軽に話してみないか」と声をかけてみた。数日後、彼は私の話を聞いて納得して、彼の疑問は、十分に解決されたようだった。

彼を通じて、休暇中の他の大学生たちとも話をする機会を得ることができた。そして、10日間ほど彼らの部屋に通い詰めた頃、アドラムに大きな聖霊の注ぎがあった。学生たちは親しみやすく、先ほどの学生も福音の真理をはっきりと見ているように感じられた。彼は礼儀正しいのだが、真理を受け入れる気がないようで、他の生徒が聖書の議論に親しげに応えているのが気に食わないような様子も見受けられた。

ある朝、一人の少女が家の正門を出た時、偶然にもこの若い大学生もそこにいた。その女の子は、彼にクリスチャンになるべきだと言い始め、イエスを信じれば罪から救われ、善人になり、地獄から救われ、天国に導かれると、簡単な言葉で促した。

「私がクリスチャンであることに何の意味があるのだろう?私は救われる必要はない!」

「罪のまま急死して地獄に落ちるかもしれない」と女の子が答えた。

「お前は誰だ?」とその学生は嘲笑した。「お前は無知な小娘で、ただの役立たずの物乞いのようなものだ。何をしようとしてるんだ?私と話す価値もないのに、何か教えようとしているのか。私は大学生だ。賢いんだ。多くの本を読んで、北京に何年もいたことがあるんだ。中国語はもちろん、英語も話せるし、読めるし」。そして、彼女の顔にツバを吐きかけ、「余計なお世話だ!」と言った。

二週間後、表の路地で葬儀の騒ぎを聞いて驚いたが、数日前に道で見かけたこの大学生を埋葬するために運んでいるのだという。数日前、私達が説教に出かけた時、少年の一人がこの青年にトラクトを差し出したが、受け取らなかったという。

私はこの少女との会話は何も知らなかった。それから約一ヶ月後、この少女は御霊の力によって夢心地状態になっていた。天国の栄光の幻を見た後、彼女はじっと立って、まるで地獄を見るかのように身をかがめた。私が聞いたのはこうである。

「ああ!地獄がある。いや、私にはできない。今、あなたを助ける力はない。あなたは確かにひどい窮地に立たされている。今、物乞いよりひどいのはあなたで、すべて汚く、不潔で、火の池で苦しんでいる。実際、今まで見たどの物乞いよりもひどい様子。あなたはお金持ちで、素晴らしい教育を受けたと言ったよね。今、その教育はどうなっているの?今さら謝ってもどうしようもない。そうかもしれないが、私には力がないの。いや、あなたを救えるのはイエスだけなの。でも、イエスのことを話したら、あなたはイエスを馬鹿にして、私を罵った。

イエスを信じる私たちのような物乞いが天国で受けたものを見てください。すべてが喜び、すべてが幸福、すべてが愛、素晴らしい神のパラダイスのある黄金の通りの街なの。」

義人がかろうじて救われる1ペテロ 4:18

すると、少女は狭い橋の上から火の池を渡っているように見えた。まるで綱渡りのように、片足を慎重に前に出し、左右の腕を伸ばしながらバランスを取っているのが見えた。そして、「これは危険。でも、主が助けてくださる。でも、主が助けてくださる。」そして、もう片方の足を慎重に前に出したが、またバランスを崩しそうになった。彼女はバランスを取り戻すまで主を賛美し、前と同じように進んだ。こうして部屋を横切った彼女は、火の池に落ちる危険もなく、無事に天に召されたようであった。

このような幻を語ることが他の人にどのような影響を与えるかは別として、これらのことはアドラムの私たちに、天国と神の御国の実在と、地獄と悪魔、悪の国の実在をこれまで以上に確信を与えた。

火の池の危険の上に続くこの人生の道、「勝利者」が歩むべき道は、恐れおののきながら一歩一歩進む綱渡りのようなものだと、これまで以上に強く主張している。(1ペテロ 4:17-18

主イエスだけが、私たちが右に倒れ、左に倒れることがないように、バランスをとって支えてくださるのだ。私たちが岐路に立ち、罪人たちに十字架から始まる狭くて小さな道を指し示し、その道を通って天国に行き、主を愛する者のために主が用意してくださった人生を歩むことを、かつてないほど確信している。イエスの救いなしに救われる人がいるだろうか。この救いをないがしろにする人は、どうして逃れることができるだろうか。

「御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができましょう。」(ヘブル 2:2-3

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第八章 – 世紀末とキリストの再臨 

聖霊の力強い注ぎの間、幻と預言によって、私たちは繰り返し、現在の時代の終わりと主の再臨が近づいていることの警告を受けた。

聖霊が現代の終わりを鮮明に、現実のものとし、主なる神がその民に非常に重要なメッセージを伝えていることを、私たちの誰一人として疑うことなく、心に刻んだ。

聖書は、今の時代は世界が見たこともないような大きな患難で終わり、その患難の直後に主が悪人を滅ぼし、正しい人に報いるために戻ってこられると教えている。(マタイ 24:30-31

また聖書によると、この時代は「終わり」の収穫の時に最高潮に達し、その時には、実は完全に熟し、小麦は苗や穂から穂の中の完全な粒になると教えている。麦も毒麦も熟した時、天使たちが主とともにやって来て、収穫を集め、麦と毒麦とを分けるのである。つまり、悪魔の王国が最悪の状態になり、地上における神の王国が最高の状態になった時、最も純粋な形で、悪が熟し、善も熟した時、収穫がやってくるのである。(マタイ 13:37-43)聖書はさらに、悪魔に惑わされ、苦しめられた世界を支配する悪魔の化身において、悪は頂点に達し、この悪霊に取り憑かれた世界の支配者、反キリストが、主の到来によって滅ぼされると教えている。(2テサロニケ 2:1-10

上記の発言に異論がある方もおられるかもしれないが、このような神学をほとんど知らないアドラムの子どもたちに与えられた幻と啓示を、できるだけ詳しく紹介する。

疫病と戦争

飢饉、疫病、戦争、荒廃の時期が来ること、そしてこの危機に際して神が特に備え、保護される神の民への迫害が伴うことを、彼らは幾度となく預言で語った。

ある少年が、アドラムの先生が米を一升買おうとしているのを見た。穀物倉を取り囲む群衆はすさまじく、先生は群衆に押し潰されそうになっていた。一人一升の米しか買えないのだ。(黙示録 6:6

ある無知で無学な少年は、幻の中で、この文明の地に運ばれ、人々が戦争の準備をし、爆弾や大砲や破壊の武器を作るのを見た。

悪魔の到来と反キリストの化身は何度も預言され、幻もあった。

悪魔と反キリストの幻

子どもたちは、七つの頭を持つ悪魔である竜を見た。ある少年は、それと7人の天使が戦っているのを見た。悪魔とその使いたちは打ち負かされ、天から地上に投げ出された。(黙示録 12:3, 7-9, 12

アドラムの少年たちは、世界が求めている反キリスト、つまり仏教、神智学、イスラム教、その他の宗教が期待する偉大な崇拝の対象を見たのである。彼らは反キリストの中に、若い、ハンサムな強い男として化身した悪魔を見たのである。

彼らはまた、この神を無視する反キリストが、やがて預言に従って崇拝の対象として建てる像、つまり世界を欺くことができる像の幻も見た。(黙示録 13:14-15)私は、このハンサムな権力者が反キリストであると、どうして彼らが知っているのかと尋ねた。彼らは、悪の軍団がどこまでも彼に付き従い、彼のあらゆる命令に従い、彼の言葉によって前進したり、停止するのを見たと言った。

この反キリストはまた、平原に立つ7つの頭を持つ獣として見られた。私は再び、これが反キリストであるとどうして分かったのかと尋ねると、子どもたちは天使が教えてくれたと言った。子どもたちは「霊の中」で夢心地になっている時に天使を通してこれらの啓示を受けたこと、ヨハネと同様に天使と会話を続け、自分では理解できない多くの事の謎を教えられた。

迫害を受ける聖徒たち

反キリストが支配していた間、神の聖徒たちは、あらゆる苦難と危険にもかかわらず、忠実な証しをして立っていたのである。彼らは、エルサレムにいる二人の証人を見た。そして、この二人と同様に聖徒も、地上にはかつてなかったような恐ろしい時に、闇の力と戦い、それに抵抗するための強大な超自然的な力を与えられているのを見た。

御霊に満たされている聖徒でなければ、このような悪魔の力と超自然的な悪魔のしわざと現れに立ち向かうことができない世紀末に、子どもたちは、聖徒が神、すなわち「世にいる者」より優れた方の御霊のさらに大きな超自然の力に満たされるのを見たのである。彼らは大きな迫害の中で福音を宣べ伝える幻を見たが、聖徒らはその言葉によって、敵が疫病や死に渡されるような力を与えられた。(黙示録 11:5)この力は内から出ているようで、彼らの口から出た。その力で敵を叱り、殺した。聖徒は、主が弟子たちに約束されたように、主が行われた御業よりも、さらに大きな業を行う力が与えられた。(ヨハネ 14:12)ある時は、彼らを拒絶する町で証しをした後、その町を離れてから、ソドムやゴモラが一掃されたように、天から火が下って邪悪な街を滅ぼした。

迫害が激しい時には、ピリポ、またエリヤと預言者たちのように、聖霊によって肉体的に連れ去られることもあった(使徒 8:392列王記 2:16)。このように、彼らは聖霊によって安全な場所に運び出された。飢えた時や必要な時には、食べ物や果物が奇跡的に提供された。天使が仕えてくれた。

恐れ知らずの証しをするための力と大胆さが与えられた。クリスチャンたちは、見知らぬ未伝道部族の言葉で異言を話す力を得た。幻の中で少年や少女がこのように御霊によって説教している時、私たち自身、これがどのように真実であるかを見ることができた。二人とも他の言葉を異言で話した。一人がいくつかの文を話してから、もう一人が通訳した。彼らは、あらゆる民族と言語の人々のうちの何人かに説教していたのである。(1コリント 14:28

大バビロンが崩壊する直前に、ヨハネは、すべての部族と言語に宣べ伝えるべき永遠の福音を持った天使が天を飛んでいるのを見た。(黙示録 14:6-7)彼らは小羊の血で自分の衣を洗い、大患難から抜け出してきた。(黙示録 7:9, 13, 14)子どもたちがこれらの幻で見たように、福音は天使の働きかけのもと、聖霊の奇跡的な力で、迫害の時代の初代教会をはるかに超える超自然的な印で再び宣べ伝えられるというのは、聖書と一致しているではないか?収穫の時の聖霊の注ぎ、つまり後の雨は、前の雨のペンテコステ(*)の日の御霊の注ぎをはるかに超えるのではないだろうか?

最後の世界大戦

アドラムの子どもたちは最後の世界戦争のために反キリストと世界の指導者が結集しているのを見たのである。と同時に世界が見たこともないような完全で超自然的な教会と、この地上でどの時代も経験したことのないようなサタンの力と悪魔に支配された人間の力の最大の迫害を見た。

彼らはまた、霊の世界での戦争も見た。その中で、白い馬に乗った男が、白い服を着た天使の軍勢を率いているのを見た。(黙示録 19:11, 14, 15)また、赤い馬に乗った騎手が、暗い衣装を身にまとい、黒い服を着た悪の軍団を従えているのも見た。

また、戦争の幻も見た。子どもたちは、戦艦が飛行機から投下された爆弾で破壊されるのを見、その戦艦の全員が水の墓場に入り、もう見ることができなくなるのを見た。地球上のあらゆるところから軍隊が集められ、大きな、恐ろしい戦いに従事しているのが見えた。子どもたちは、その恐ろしい戦いを見ていた。毒ガスや殺傷力の高い兵器が、数え切れないほど多くの犠牲者を出していた。最初は死者が埋葬されたが、その後、殺された者は、あまりに多く、ちゃんと埋葬できないほど、預言者が預言したように、山のように積まれ、あるいは地球の表面で肥やしとして腐るに任されたのであった。(エレミヤ 25:31, 32, 33

キリストの突然の再臨

このような中で、キリストの突然の再臨により、すべてが中断された。

太陽は暗くなり、月は血のように赤くなった。(マタイ 24:29-30黙示録 6:12-17)星は雨のように降り注いだ。天は揺れ動き、巻物のように巻き上がるように見えた。大地を引き裂くような大地震があった。大きな裂け目ができて、人々は生きたまま飲み込まれた。

建物は揺り動かされ、子どものおもちゃの家のように倒れ、住人は殺され、埋められた。このような天と地の出来事が起こっている時に、主は天に現れた。年上も若者も、金持ちも貧乏人も、死ぬほどの恐怖に襲われた。彼らは荒々しい混乱の中で四方八方へ逃げ惑った。男たちは手ぶらで店から逃げ出し、少し前まで大切だと思われていた貴重品にも目もくれず、逃げ出した。家族は、自分たちの生活の糧であった贅沢品を振り返ることもなく、家から飛び出していった。

一瞬にして、すべての人が目的を一つにし、ただ一つの欲望を持ち、ただ一つのものを求めた。その一つの願いとは、帰ってくる審判者(*)の顔から逃げることであった。彼らは、目に見える王の王から隠れるための避難所だけを探した。家屋の倒壊で死ななかった者、開いた地に転げ落ちなかった者は、安全を求めて逃げ惑い、ある者は川に飛び込んで死に、ある者は自分の武器で自殺した。

どこもかしこも慟哭し、悲鳴をあげていた。どこもかしこも暴動と恐怖に包まれていた。小羊の怒りの大いなる日が来たからである。(黙示録 6:16-17

神の大宴会

この後、神の大いなる宴会の幻が現れ、獣や鳥が、廃墟となった大地に散らばる埋葬されていない死者を食べるように命じられた。犬や野獣が人間の死骸を食べているのが見えた。鳥や空飛ぶ動物も一緒になって、神が用意したこの宴会に参加した。(黙示録 19:17-18

この大宴会を目の当たりにしている間、私たちは少年たちの発言を聞き、彼らの動きを見て、この光景が私たちの目の前で描写され、演じられたのである。ある者は、「あの鷲が金持ちを食っているのを見ろ。鷲が金持ちの服を取っている。あれを見ろ。肉片を奪って飛び去ったんだ」。

別の子どもは言った、「おお、あそこを見て、ハゲタカとカラスが一緒にあの男を食べている。ハゲタカが強いよ!カラスは怖がって、少し食べては、自分が危なくないか見回してる。あら!あれが見えるかい。あの太っちょに鳥が乗っかって、食らいついてるのを見てごらん。」

少年たちは突然、一斉に背中を向けて、その忌まわしい光景に向かった。彼らの発言と動作は、地球の最後の宴会の忌まわしい光景を十分に明らかにしている。ここには、金持ちや権力者、地球の支配者、会社の社長、富の支配者、戦争の将軍、キリストを拒絶するあらゆる働きや宗教の支配者たちがいるのである。

彼らは名誉ある客としてではなく、彼らが利己的な贅沢をして暮らしてきた地球の清掃人の餌としてそこにいるのである。

このように、アドラムの子どもたちは、私たちの誇る物質文明の絶頂の場面を、すでに恐ろしい現実として見て、描写している。彼らは、神を恐れずに蒔いた種が実を結び、「全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ 8:36)という主の問いに対する答えを見たのである。神の御言葉はこう書いてある。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩篇 9:17)。この単純な子どもたちは、神と天使によって、主の御言葉にも書かれていることを示されたので、疑いなく信じている。人間的な教育と自慢と富を持つ現在の世界の終末である「神の大宴会」。

反キリストは縛られ、悪魔は穴に投げ込まれる

子どもたちは、主とその天使が反キリストを手足で縛り、生きたまま地獄に投げ込む準備をするのを見た。(黙示録 19:20

また、悪魔が生きたまま穴の口に連れて行かれ、蓋が持ち上げられ、奈落の底の黒い井戸に投げ落とされ、蓋が閉められ、主が大きな鍵で鍵をかけられる光景もあった。(黙示録 20:1-3

主の再臨と最後のトランペット

これまで、悪人に関するキリストの再臨の幻について書いてきた。聖徒に関しても、同様に明確な幻があった。アドラムは、天が開き、主が天使たちに伴われて栄光のうちに降臨されるのを見た。主の両側には、白い衣を着た仕える大軍勢が従っていた。前方の者たちは美しいラッパを吹き鳴らし、ラッパの音とともに主とその軍勢は完全な順序で、一人一人が自分のふさわしい場所を守って降りてきた。主がこのように地上に向かって来臨されると、聖徒の復活と携挙に関するすばらしい幻が現れた。

聖徒たちの復活と携挙

墓が爆発したように開いた。死体は墓から出てきて、突然、復活の栄光の命の天の幕屋をまとったのである。ばらばらになった骨は、一緒に集まり、肉をまとい、復活の体となり、空中で主に会うために引き上げられたのである。(1テサロニケ  4:15-171コリント 15: 51-53

ある少年が葬列の中で、一人のクリスチャンが埋葬のために運ばれていくのを見た。墓地に向かう途中でラッパが鳴り、主が再臨され、棺が開き、死者は立ち上がり、姿を変えて空中に昇っていった。

子どもたちが、すでに死んで天国にいるアドラムの人々が白い衣を着てパラダイスを楽しんでいる姿や、昔の聖徒たちが白い衣を着ている姿を見たことは、すでにお話しした。聖書には、死後復活するまでの間、聖徒は霊的な体を持ち、復活の前に白い衣を着せられると教えられている。(ルカ 16:19-30黙示録 6:9-12

私が子どもたちに、天国で見た聖徒が復活したかどうしてわかるのかと質問したところ、「聖徒の魂だけを見て、その体は復活していない」と天使が教えてくれるまでわからなかったと言った。

子どもに質問しに行った時に、いつも一様な証言をもらった:子どもたちはいつも白い衣を着た聖徒を見、聖徒には翼がなく、天使にはすべて翼があり、聖徒と天使の区別に困難はない、というものであった。

要約すると、アドラムは白衣の聖徒が天国にいて、パラダイスに行くことができ、キリストと天使たちの交わりを楽しんでいるのを見た。また、小羊の婚宴の夕べも見た。

小羊の婚宴黙示録 19:9

パラダイスでは、壮麗な木々、魅惑的な香りを放つ素晴らしい花々、賛美の歌を歌うあらゆる鳥たちの中に大きなテーブルが置かれ、贖われたすべての動物と植物の被造物は、霊に満たされ、神をたたえ一つに調和されたものであった。

そして、この筆舌に尽くしがたい神のパラダイスでは、広々とした空間に偉大な婚宴のための食卓が広げられていたのである。天使と栄光の聖徒は、ハープを弾き、ラッパを吹き、歌い、主を賛美しながら、そこかしこを飛び回っているのである。

その様子を、私たちの前で演じてくれた子どもたちもいた。彼らは宝石で飾られた家に急いでハープやトランペットを取りに行き、霊に触れる音楽で、すべての時代の希望のクライマックスである最高の祭りの場面に加わった。大勢が歌い、踊り、王を賛美した。他の人々は、テーブルや座席の準備に急ぎ、食べ物の入った黄金の皿を運んだ。

食べ物は豊富で、すべてが独自の味を持ち、想像を超えるものであった。

準備が整うと、発令により、歴代の聖徒が食卓を囲んで、王の大いなる御子の婚礼を祝った。東と西から娼婦、ホームレス、罪人、そしてかつて地上にいなかった者たちがやって来て、アブラハム、イサク、ヤコブとともに神の国のこの祝祭の食卓につく時、彼らのすべての望みの完成、天国におけるすべての最高の喜びを得てクライマックスに達したのである。(マタイ 8:11

すべてのクリスチャンが目覚め、期待に満ちて最高潮に達した時、御子ご自身が来られ、血潮で贖われた白い衣をまとった花嫁に囲まれて食卓に座り、あらゆる国民、民族、言語から贖われた者たちと共にぶどうの実を飲まれたのである。(マタイ 26:29

アドラムから来た子どもたちは、数々の書物が開かれて、裁きの日が来るのを見た。

開かれた書物と裁きの日

彼らは、人の行いが記録されている書物を見、その書物からすべての人が裁かれる、王座の上の審判者を見た。正しい人は、一方に集められて一つの大きな群れとなり、命の書に名前のない人は、もう一つの大きな群れに集められて反対側に立つ。一方の人々は神の国と永遠の命に入るために分けられ、もう一方の人々は悪魔とその使いたちのために用意された火に入る。(マタイ 25:34, 41

新しい天と新しい地黙示録 21:1-2

数人の子どもは、新しい天と新しい地の幻を見る特権が与えられた。

新しい天はシャカイナグローリーに満ちていて、子どもたちはちゃんと見つめることができなかった。

新しい地には四角い都市、新しいエルサレムが中心的な位置を占めていた。天の都とそのパラダイスはそのままに、新しい地に降り立ったのである。新しい地全体は、現在も、そしてこれからも、神の都、小羊の花嫁の中にあるパラダイスとよく似ている。それは、神がご自分の子どもたちのために望まれた地であり、圧倒的な勝利者であるイエスによって回復されたものであった。それは、新生(*)を経た新しい天と地であり、決して過ぎ去ることのない、神が再び人とともに住み、永遠に彼らの神と呼ばれ、彼らは皆、常に神の子であるところであった。アーメン。

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第九章 – 孤児の男の子の預言

「終わりの日に… あなたがたの息子… は預言し、青年は幻を見(る)」(使徒 2:17)という聖句の成就のために、中国の小さな10歳の孤児の息子の一人が、主の預言者として用いられ、直接の霊感によってメッセージを伝えてくれたのだ。

数ヶ月前、この少年はぼろぼろで汚く、実際、衣服というより汚物を身にまとっていたが、二人の仲間を連れて私たちの玄関にやってきて、中に入ってもいいかと尋ねた。入浴して服を着ると、その少年は素直な小人のように見え、その通りであることが分かった。彼はすぐに聖書の話や説教をすべて心に受け入れた。彼はすぐに祈ることを覚え、毎晩ベッドの上で真剣に祈っているのが聞こえた。聖霊が私たちに下った時、この少年はいち早く聖霊のバプテスマを受け、ペンテコステの日のように異言で語った。

聖書は神の霊感によるものであり、預言者たちはその確信に命をかけて「主はこのように言われる」と宣言したのである。同じように、生ける神は、状況がそれを要求し、信仰と他の条件が神の御心に従う時、今も支配し、直接預言によって人の子らに語りかけておられる。

ある夜、主の力が普通ではない形で現われた。天国はそう遠くないように感じられた。その時、かつての、小さな、友達のいない孤児の少年が、この汚れた地上から離れ、天に召されたようだった。主イエスの前に導かれた彼は、その足元にひれ伏し、謙虚に礼拝した。実際、少年は部屋の真ん中にひれ伏し、床に座っている仲間に囲まれて、主からのメッセージに熱心に耳を傾けていた。こんなにも心を打つ言葉は聞いたことがない。少年が深い悲しみにむせび泣く間、メッセージは一度に1、2文ずつ、はっきりとした強い声で語られた。言葉はリズムを刻み、最もシンプルで純粋なものが選ばれている。声のイントネーション、言葉の選び方、一言一言が持つ影響力は、この小さな単純な心のサムエル(*)が神からの直接的な超自然的霊感によって話していることを、聞いた者は誰も疑うことができないほどであった。

「主イエス、私はここにいる価値もなく、救われる価値も全くない。私は小さな孤児にすぎません」と言った。そこで、イエスは少年に話しかけられた。少年はその時知らなかったのだが、実は主は少年を装い、一人称で、私たちや少年の周りに座っている子どもたちに向かって語られた。この「主はこう言われた」が、私たちの心を掴んだように、皆さんの心を掴むようにと願っている。

キリストからのメッセージ

私は今夜泣く。胸が張り裂けそうだ。私を信じる者があまりにも少ないので、私は深い悲しみに陥っている。私は、すべての人のために天国を計画し、準備した。私は新しいエルサレムを三つの大きな都市に作り、一つは他の都市の上にあり、すべての人のために十分な場所を確保した。しかし、人々は私を信じようとしない。信じる者は、とても少ないのだ。私は悲しい、とても悲しい。(このメッセージは、少年の胸が張り裂けそうな嗚咽と溢れる涙で語られた。) 人々が私を信じないので、私は邪悪な地球を破壊しなければならない。私は3つの大きな災難でこの地を訪れるつもりだったが、あまりにも邪悪なので、4つ目の災難を加えた。

もし、あなたに友人がいるならば、早く悔い改めるように言いなさい。できるだけ早く、すべての人に福音を信じるように説得しなさい。しかし、人々が耳を傾けず、あなたのメッセージを受け入れないなら、その責任はあなたにはないだろう。

聖霊のバプテスマを受けなさい。もし、あなたがたが待ち望んで信じるなら、わたしはあなたがたにバプテスマを授ける。悪魔は、バプテスマを受けられないと思わせて、あなたがたを欺く。しかし、待ち望んで求めれば、わたしはバプテスマを授け、悪霊を追い出し、病人を癒す力を与える。聖霊の印を受けた者は、宣教し、証しするようになり、わたしはあなたとともにいて、危険な時に助け、守る。

もしかしたら天国に行けないかもしれないと思うなら、その思いは悪魔のものだ。わたしは自分の子どもたちを滅ぼさず、一人一人守り、救い、一人も滅びない。わたしは必ず打ち勝つ。ベイカー夫妻のために祈りなさい。そうすれば、悪霊を追い出し、病人を癒す力を与えよう。アドラムの子どもたちよ、従いなさい。喧嘩をしてはいけない。嘘をついてはいけない。平和に暮らしなさい。祈る時は、心から祈りなさい。愛が冷めてしまわないように。

他の教会にも「聖霊を求めよ」と伝えよ。すべての教会は前進しなければならない。

数年後、悪魔が地上に現れ、大きな苦難が訪れる。心配するな、わたしがお前たちを守り、世話する。

そのあと、わたしが地上を罰するために来る。わたしを信じる者は引き上げられ、ラッパを吹き、ハープを弾く。

わたしは3人のうち2人を滅ぼすだろう。私が来れば、すべてのものはわたしの声に従わなければならない(中国語:「人人都要聽我的話」)。家屋は倒れ、山は崩れ、木々は破壊される。草の葉一枚も残さないような、完全な破壊が起こるだろう(中国語:「一根草都不留」)。偶像を拝む者は滅びる。魔術師や霊媒師はすべて地獄に落とされる。福音を信じる者だけが救われる。

このように主はアドラム、そして、私たちがこの預言のメッセージを伝えるすべての人にも語られたと信じている。この復活した主からのメッセージは、上記のように中国語で語られ、文章はゆっくりと、はっきりと間を置いて話された。私は与えられたメッセージをそのまま書き、しばしば1、2回繰り返し、聞き間違いがないように与えられた。主がこの選ばれた小さな霊感のある預言者を通して話されたすべての言葉を間違いなく記録するために、十分な時間があった。

メッセージが終わると、その少年は立ち上がり、イエスの足元にいたことを告げた。彼は、主が自分を通してだけでなく、一人称で自分に向かっても語られたことを知らなかった。そして、彼は、「イエスはあれを言われた、これを言われた」などと、預言を繰り返して言った。

この預言は聞いて、書いて、小さな預言者の記憶の中から一項目ずつ繰り返されたのである。このように、昔の預言者たちは、神に動かされるままに語っていたことがよくわかる。書記が預言者の口から出た言葉をそのまま記録したり、預言者自身が自分のメッセージを記録して、本当に「主はこう言われた」と言っているのがわかる。

その昔、宗教的で世俗的な人々が、人に語りかける個人的な生ける神への単純な信仰から離れ、不信仰と邪悪のために、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」(1サムエル 3:1)時、神は純粋な心を持った小さなサムエルを見つけて、彼に聞こえる声でメッセージを語り、まさに文字通りに実現されたのであった。従って、私たちは、過去に他の人々に語りかけた生ける神が、邪悪と不信仰の今日、小さな中国人サムエルを通して、まもなく実現する「主はこう言われる」、永遠の喜びのために聞き入れられるか、永遠の悲しみのために無視されるかのメッセージを私たちに与えてくださったことを信じるのである。

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第十章 – 聖書執筆について

このように中国の子どもたちに聖霊が注がれたことで、神の言葉、聖書に多くの光が当てられたのである。

預言の成就

このような聖霊の注ぎと超自然的な現象は、それ自体、聖書が神によって書かれたことを証明するものだ。神は、ただ一人、未来を知っておられる。キリストと使徒たちの考えでは、預言が成就することは、聖書が神の手によって書かれたことを示す十分な証拠であった。

この子どもたちへの聖霊の注ぎについて記録したことで、聖書の10の預言が成就されたのだ。

  1. 聖霊のバプテスマは、現代の信者のためにも与えられる。
  2. 未知の言語、異言で話すことが伴う。
  3. 御霊によって預言することも伴う。
  4. 子どもたちには「キリストのこと」が見せられた。
  5. 「来るべきもの」の現実も示された。
  6. 預言どおり、彼らは聖霊によって「新生」し、心の中で「アバ、父よ」(*)と叫ぶ証しを受けた。
  7. この子どもたちが見た幻は、終わりの日に「青年は幻を見る」と書かれた御言葉を実現させた。
  8. 悪霊が追い出される。
  9. 聖書に書いてあるように、聖霊の力によって病人が奇跡的に癒された。
  10. かつて愛されていたものが憎まれ、かつて憎まれていたものが愛されるという奇跡的な変化が起こった。

この世の愚かな者は知恵ある者をはずかしめる

聖書によれば、神の啓示や聖書の記述は、生まれつきの能力や後天的な教育とは無関係であるということを覚える必要がある。学歴のないアモスやペテロやヨハネは、神の霊感を受けて、この世の「知恵のある者」よりも深い内容を書き記したのである。

主がこれらの卑しい、見捨てられた孤児になさり、啓示されたことの中に、神の御言葉の証明がはっきり見られます。

神への単純な信仰の道に従っている者は「肉的に賢い者、力ある者」ではないのですが、神はこの軽蔑されている単純な中国の子どもを通してでさえ、この世の知識の時代において、非常に学問的で賢いとされているものを「無にする」ことができるのだ。

この学識ある高慢の世代が、単純な御言葉に抵抗して、自己満足的な妄想の暗闇を手探りで進んでいる間、人間の知恵があまりにも混乱する中で、イエスが「天地の主であられる父よ。・・・これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ 11:25)と言えるのは、過去と同様に、現代においても事実である。

全体として、キリストの時代の教育者や支配者たちは、キリストの奇跡的な御業と生涯を理解していないし、「もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(1コリント 2:8

使徒たちの時代の支配者や律法学者は、聖霊の力を与えられた単純な人々を通して全能の神がなさった御業を理解していなかった。この世の学校で「学ばなかった」これらの中国の子どもたちへの深い啓示は、神の書かれた御言葉が生まれつきの能力や後天的な教育とは無関係に、開かれた心を持った人間を通して来たことがよくわかる。

聖書の過去の出来事の証人たち

アドラムのことを通して、聖書の作者たちが、どうやってすでに起こった出来事がわかったのか、光が当てられた。ある無知で才能のない少年が、「聖霊にある」時に、旧約聖書と新約聖書の主要な歴史的出来事の目撃者となったことが何度もあった。彼はエジプトの十の災いを見た。王の宮殿で蛙が鳴き、パロの食事にハエがたかり、イナゴが飛び、長男が死に、家族全員が狼狽しているのを見た。また、エリヤとエリシャがヨルダン川を渡るところ、火の車、エリヤが昇天するところも見た。また、ダニエルがライオンの穴の中で天使に守られている様子や、その他の旧約聖書の出来事も見た。

この少年はまた、キリストの奇跡の幻を見せられた。彼は主の誘惑を見た。ハンサムな若者の姿であるサタンが主を高い山に導き、幻の中で世界の王国を見せた。天使はイエスの行くところならどこへでもついて行ったことも見た。キリストが水の上を歩き、病人を癒し、目の見えない人の目を開くという幻があった。この少年と他の子どもは、主イエスの受難、復活、昇天を見た。

私は最初、このような過去の出来事の幻を見た話を聞いて、不思議に思った。しかし、神には「過去」、「現在」、「未来」がないことを思い出した。神は偉大なる 「私」なのだ。すべてのものは、神のもとに同じように存在している。聖霊は神の霊であるから、幻と霊の啓示によって、「過去」「現在」「未来」は、神の世界において、主が啓示しようと思われる人に対しても、「現在」とすることができるのである。

このアドラムへの過去の啓示は、聖書の霊感を裏づけるものである。聖書は、神がモーセや他の人々を啓示によって、過去、現在、未来を、初めから終わり、終わりから初めを記録する唯一の書物だ。

神からの啓示を記録する

聖霊は、超自然的な啓示によって、図解を通して、聖書のある部分が記録されたことを見せられた。一人の少年が「御霊に動かされて」幻の光景を見ている時に、もう一人の少年が同じく「御霊に動かされて」夢心地になっていて、他の少年が見ていることを一項目ずつ書き写すという動作を、御霊がさせたのだ。このように、神が聖書を書くことがいかに簡単であったかは、誰でも分かるはずである。ある人は、他の人が見て描写したことを記録することができた。

神は中国の路上の孤児や人里離れた山村の少年を聖霊で満たし、天使によって「聖霊に導かれて」天国のこと-現在のこと、過去のこと、来るべきこと-を目の当たりにさせることができるのだ。このように、神は聖書に書かれているすべてのことを、神が選んだ人に幻によって明らかにすることができるのだ。そして、その横に別の人を座らせ、見たこと、啓示されたことをそのまま書き記させることができるのだ。このようにして、あらゆる預言の一語一句を記録することが、主なる神によってできるのである。

もし私たちの少年が主の御前に捉えられて、「主はこう言われた」と言って帰ってくることができるなら、昔の預言者たちは自分の預言や幻影を記録して、絶対的な真実を持って「主はこう言われた」と言うことができなかったのでしょうか?

過去、現在、未来がすべて同じである神が、過去、現在、未来の出来事を、どうやって現在の出来事として明らかにできるのか、私にはわからない。しかし、聖書には、できると書いてある。聖書には、そうされたと書いてある。アドラムは、今もそうであることを確信している。

聖霊に動かされて預言を語ったことのある人なら、「主の日に聖霊に動かされて」天に引き上げられたことのある人なら、「ウジヤ王が死んだ年に」幻を与えられたことのある人なら、今でも聖霊に動かされて預言をすることができる。また、「御霊によって」捉えられ、覆いの向こうの見えない世界を見ることもできる。ウジヤ王が死んでから何年経っても、幻を見ることができるのだ。

同じ神がまだ同じ王座におられ、同じ世界を支配し、同じような悪の心を扱い、同じような人間を通して、エリヤと同じような気質や情熱を持った人々を扱っておられる。

神は今日、預言、幻、啓示を通して、世界中の至る所で御自身を現されている。それは、聖書によると、昔の時代に預言者や聖徒になさったように、御自身を現されているということである。

この邪悪な時代、現在の不信仰で倒錯した世代のただ中で、主は聖書に書かれたことが生ける神の言葉であることを証明することができ、また証明されるだろう。主は、聖霊の賜物によって超自然的な方法で信じる人々の中に入り、次のしるしによって御言葉を確証することができ、また実際にそうされる。(マルコ 16:15-20

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第十一章 – 故郷

今までの証しを通して、主があらゆる手段を用いて、聖書の中にある預言は確実なものであり、また、聞くべきものだと十分に明らかにされた。

そして、聖書の預言の言葉と現在の幻や預言の大きな目的は、覆いの向こうに素晴らしい故郷があることを私たちが確信することも、十分に明らかにされているのだ。どんなクリスチャン、どんな「巡礼者」も、決してこの世のもので満足することはない。満足するのは、旅の終わりだ。

困難な道や疲れる山を越えていくうちに、巡礼者は重い荷物に疲れ果て、鳥のさえずりを聞くことも、道端の花に癒しを感じることも、仲間との交わりに大きな幸福を見出すこともできなくなるかもしれない。しかし、道の終わりではそうではない。

人生の巡礼者たちは、故郷に辿り着いた時、青春の泉に浸かって、その身を新たにするのである。「一瞬のうちに… 私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(1コリント 15:52-53)老いは消え去り天国には老人はおらず、その足取りは軽い。視力の衰えも聴力の衰えも不具の身体もない。

昼も太陽、夜も月を必要とせず、決して暗くならない町がある。その黄金の通りは掃く必要がない。宝石で飾られた住居は修理の必要がない。金色の通りには葬儀の行列もない。憂鬱な気分やあらゆる喪が去り、すべての死が生に飲み込まれ、より豊かになった街、純粋で限りない喜びの街。

嵐の雲が決して立ちのぼらない、曇りなき日の地がある。その幸せな土地では、飢饉や闘争はない。自己中心の競争もない。愛のない疑いを抱かせるような自己顕示欲もない。誰も自分が何を食べるか、何を着るかについて心配することはない。白い衣は決して擦り切れることはない。命の実を結ぶ木が荒れ果てることはない。

命の水が枯れることはなく、望む者はだれでも飲むことができる。

この世の最も楽しい青春時代のすべての喜びと熱意は、天国のすべての人が受け継ぐものだ。今の世にいる限り、最も幸福な日々の中で、私たちはまだ粘土の器の中にいる。今の人生の最高の瞬間には、さらに大きな喜びと、ほとんど手の届くところにある幸福を感じるが、それを手に入れる前に、まとわりつく重さに引きずられてしまうのである。子どもたちは、はしゃいで遊ぶ。走ったり転がったり、喜びのために跳んだりする。歌い、叫ぶ。時には喜びと幸福が満ち溢れているように見える。「天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ 19:14)しかし、地上で最も幸せな青少年の最高の喜びは、この煩わしい土の体が本物の体に変えられる時、「言葉にできない」大きな喜びにも変えられるのである。

新しいエルサレムでは、誰もが「愛に包まれている」のだ。誰もが他のみんなと恋に落ちている。地上での “in love “は、栄光の地での “in love “に比べれば、大したことではない。どんな欠点も、どんな不完全さも、どんな愛すべき特徴も、すべての人と完全に「愛し合っている」ことを損ねることはないのだ。

地上の弱く肉的な私たちの魂には、歌がある。私たちの魂は、自分自身を表現しようともがき苦しんでいる。時々、束縛から一瞬抜け出したように見えるが、すぐにまた迷い込んでしまう。神が人を造られた時、その魂に音楽を吹き込まれたが、肉体の不協和音がそのハーモニーを台無しにしてしまったのだ。失われた音楽は、私たちが天の衣を着る時、天で発見されるまで、決して見つかることはない。地上で最も素晴らしく、最も甘く、最も完璧な音楽は、人間の魂が、天使や聖徒によって天で歌われる失われた音楽を求めているに過ぎないのだ。アダムの息子たちが弦楽器、管楽器などを始めた時代から今日に至るまで、地上で作られた最も優れた楽器は、トランペットやハープ、そして黄金の都で「失われた和音」が回復される楽器の単なる型であり、解放された魂のすべての音楽がその完全な表現を見つけることができるものである。

御父がご自分の子どもたちの魂に置かれた音楽とリズムの多くは、その後、悪魔によって、変質した肉の欲望の快楽のために邪悪な道に変えられてしまった。この世の中では、多くの人は音楽のリズムに合わせて踊り、肉の欲望に由来する官能的な喜びを見出す。天国では、聖なる純粋な音楽の調べにのって、聖徒らや天使たちは、星々がその軌道で揺れ、歌うリズムの中で、地上や自然のあらゆる「喜び」を超えた「喜び」の中で踊っているのだ。

都にはエデンの「喜びと実りの公園」がある。非現実が本物に置き換えられたここでは、神のすべての動物や植物の被造物において、聖なる山には傷つけるものや破壊するものは何もないのだ。

地上では、私たちは神の創造の美しさをほとんど見ることも理解することもできない。地上の汚れやほこりが、私たちの魂の窓を曇らせている。私たちは、暗いガラスを通して見るため、ほとんど見ることができない。神が邪魔するものを払いのけ、魂の目を開いてくださった時、初めて私たちは神の素晴らしい創造の栄光を本当に見つめ、感謝することができる。このようなことはすべて、向こうにあるエデンで行うのだ。

あらゆる種類の鳥が歌い続ける公園があり、あらゆる耳が彼らの魂を揺さぶる賛歌を聞くために調整される土地があり、あらゆる色合いの花が咲き続ける土地があり、あらゆる目がそれらの美しさを見るために開かれる土地があり、シャロンのバラと谷間のユリの香りが、我々の世界では決してなかった数限りない香りと混じり合う土地があるのだ。

時々、空の彼方に街の光が見えるような気がするが、衰えた視力のため十分見ることができない。時には、異次元から魅力的な音が聞こえてくるように感じるが、その音楽は、より近くにある音の不協和音でかき消されてしまう。時には、私たちは、自分たちの奴隷のような状態から切り離そうとする大いなる力を感じるが、地上の魅力が、地上の枷(かせ)となり、私たちの足を拘束している。時には、魂は「昼よりも美しい地」へと飛ぼうとするが、翼が折れているために意気消沈する。

自分の力で、自由を宣言し、都へ歩いて行こうとする者は、この世のもの、肉、悪魔によってその道が絶望的にふさがれており、自分の中に克服する力がないことに気づく。

しかし、道はある。

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第十二章 – 道

道は一つしかない。キリストがその道だ。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ 14:6

人間は道ではない、人間は道を作ることができない、人間は黄金の都への道を知ることができない。都も都への道も、すべて天からの啓示である。

道であるキリストは、下からの存在ではない。上からのものである。天から降りて来られた者、それも天におられる人の子であり(ヨハネ 3:13)、「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」(テトス 2:13)なのである。

人間は純粋な喜びの幸福な都に向かっているのではない。逆に、そこから遠ざかっていくのだ。歩けば歩くほど、この天の都から遠ざかっていく。子どもたちは神の国に属している。彼らは都の門の前で遊び、はしゃぎまわっている。彼らが一人で歩き始めると、いつもその都から、この幸せなエデンの園から遠ざかっていく。一人で歩こうが、群衆について行こうが、迷えば迷うほど、都の光がかすかになっていくか、完全に永遠に失われるまで遠ざかっていってしまう。都に行く唯一の方法は、引き返すことである。改心して幼な子のようにならなければ、 決して天の御国に入ることはできない。しかし、人間は一人で歩けば歩くほど、年を取れば取るほど、金持ちになればなるほど、人の能力で勉強すればするほど、自己満足の回転扉を通り、ついには、単純な信仰に引き戻すべきその回転扉がもう動かなるまでになる。幼な子のような心には戻れなくなるのだ。

「この世が自分の知恵によって神を知ることがない」(1コリント 1:21) 人は学問によって神を見つけることはできない。自分の能力や他の人の能力を信じる人は、決して神の都を見ることはできない。

人は自分の功績によって、決して黄金の道を歩むことはできない。人が何であるか、何をするか、どのように生きるかは、その人の救いとは何の関係もない。その人がどれだけ「良い人」であるかという基準では、この世で最も良い人は、この世で最も悪い人よりも、天国へ入る望みはない。自分の性格、自分の道徳的な善良さを信じる人は、真理に対して目が曇っている現代のパリサイ人に過ぎない。取税人、酒飲み、遊女は神の都に入るが、「善良な」人は、泣きながら歯ぎしりして、外の暗やみに追い出される。

私たちは行いによらず、恵みによって救われたのだ。救いは神が与えるものだ。人間がそうであるか、そうでないかということではないのだ。救いは上から来るものだ。下からでもなく、内からでもなく、人の間からでもない。

下から生まれるものは、肉であり、人間の意志によって生まれるものだ。下から生まれたものは、どんなに賢くなっても、善くなっても、悪くなっても、上から生まれ変わらなければならない。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ 1:13)「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3

神を見、空のかなたの都で贖われた者の歌を一緒に歌うすべての人は、この超自然的な誕生を経験しなければならないのだ。

それは完全に天からのものだ。教会に集まること、賛美歌を歌うこと、祈りをすること、教会のために働くこと、説教壇から説教すること、自分の体を焼かれるために渡すことなどは、新生とは何の関係もない。新生とは、行いに関係なく、神が恵みによって与えてくださるものなのだ。

最も立派な説教者、最も勤勉な教会員、最も忠実な信者は、新生しない限り、最も無謀な罪人と同じく、天国への希望はないのである。

帰路の見つけ方

主は、私が帰って来ることを切望されたので、道を分かりやすく、明らかにされた。私は神の栄光のためではなく、自分勝手に生きている罪人だった。私は自分の道に歩んでいた。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ 3:23)「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ 3:11-12)私もその一人であった。

イエスが性格の良い「正しい人」ではなく、「罪人」を救うため天から来られた。だから、私にもチャンスが与えられた。私は罪の罰を受けるべきであったが、キリストは私を愛し、私の代わりに死んでくださった。彼は「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(1ペテロ 2:24

キリストは罪人の代わりに、罪のない者として十字架で死なれた。罪を知らない方が、私の代わりに、私が死ぬべき十字架の上で死んでくださった。罪を犯し、罰に値する罪人バラバ(*)であるこの私は、完全に無条件に自由にされたのだ。

「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(2コリント 5:21)イエスは罰せられたのだから、私は罰せられることはない。イエスは見捨てられたから、私は見捨てられることはないのだ。

罪人のままで、何もしないままで、私はただ、イエスがすべてをしてくださったことを信じた。

「信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ 6:47

「信じる者は、、、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ 5:24

「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ 1:12

イエスが神から言われたことをなさった、イエスが私の代わりに罪を負う者となった、私が受け入れて信じると、イエスは、神の子として私を受け入れられたのだ。

そして、聖霊を私の心に送り、天から生まれるようにされた。私の心の中の聖霊は証しして、「アバ、父」と叫んでくださった。(ローマ 8:15-16

それまでは私は自分の働きに頼っていた。

今神は、みこころのままに、私のうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる。(ピリピ 2:13

かつて愛したものが今は憎み、かつて憎んだものが今は愛している。今、私が自分の力で善良であろうとすればするほど、悪い方向へ向かってしまう。代わりに、神が私の中に、そして私のために働いてくださると信じれば信じるほど、良い方向へ向かうのだ。

主はこの先の都の光を私に示してくださった。

「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(2テモテ 1:12

門から都に入り、小羊の血のゆえに単純な信仰によって打ち勝った者たちと一緒に私は必ず喜びを分かち合う。

キリストは救いをもたらされた。全世界の罪のために死んでくださった。永遠の命は贈り物である。「​​神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ 6:23)この贈り物は無料だ。

私たちがしなければならないのは、ただそれを受け入れるか拒否するか、それを取るか無視するか、それだけだ。イエスの隣に、十字架につけられた2人の強盗の1人のようにならなければならない:一人のように、イエスが神で、自分の状態を認めて、罪人を救うことができると信じ、パラダイスでキリストと永遠に過ごすか、もう一人のように、イエスが神であることを信じず、神から離れ、悔い改めないで、赦されていないままで、罪のまま死ぬか。

キリストは、誰でも、その信仰のゆえすべての人を救われるのだ。

「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16

信じてこうして救われた者は、キリストが守ってくださる。彼らは救いの岩(*)を抱いているのではなく、救いの岩が彼らを抱いてくださる。彼らはキリストを抱いているのではなく、キリストが彼らを抱いておられる。

彼らは、行いによらず、「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ 2:8

彼らは、行いによらず、恵みのゆえに、信仰によって保たれるのだ。

「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(1ヨハネ 5:4-5

恵みによって救われ、恵みによって保たれている人は、救われるためにではなく、すでに救われているからこそ、悔い改めの生活をし、義の業や行いなどをやり遂げるのである。

救われた人は、「神のご性質にあずかる者」となったのである。(2ペテロ 1:4

「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ 8:9

キリストの子どもたちは皆、体と心に聖霊を受け、新しく生まれ変わったのだ。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2:13

救われた者は天国の国民であり、世と世にあるものを愛さない。彼らは今、聖霊と同じくらいに「天国の命」を持っている。聖霊ご自身は、御国の命、神の命、永遠の命だ。私たちは、天国の「保証」、つまり確認の印が押されているのだ。聖霊の深い体験を通して、天国はこの世よりも現実のものとなる。

神の子は、神ご自身が設計し建設された都への巡礼の旅において、時には信仰によってだけでなく、神からの啓示によって歩むことができるようになる時もある。

アドラムのメッセージはこれで終わり。この証言は、生まれつきの優れた知識によってではなく、「御霊によって私たちに啓示された」(1コリント 2:10)これらの事によって、私たちの間に起こったのである。

最良の奥義(*)は、私たちには書けない。知るべき最良の奥義は、聖霊が一人一人に啓示される以外、直接知ることができないのだ。もっと書きたいことがあるが、今は書けない。

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ 20:31

または、既にその命を持っている者は、豊かな命:

聖霊のバプテスマと満たしによる命、主がご自分の子どもたち一人一人に計画された命、すべてが新しくなる大いなる王の都の前味を、もっともっと感じるまで前進するよう励ますためのものなのだ。

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(*)用語集

贖われた者: 人間は、罪を通して、罪の奴隷となり、悪魔の捕虜になってしまった。イエスは、十字架の死と復活によって、私たちを買い戻された。イエスを信じる人は皆、イエスの血潮によって買い取られ、贖われた者になる。「… 神がご自身の血をもって買い取られた神の教会…」(使徒 20:28

アバ、父よ: 神様の親しみを込めた呼び方:日本語のパパのような表現

油注ぎ: 神様ご自身の存在が人の上に臨むこと

異教、異教徒: キリスト教以外の宗教、宗教者

異言: 外国語に聞こえるが、人の霊から直接神様に語っている言葉、(1コリント 14:2)たいてい話す人も、聞く人も、意味は分からない。例外は、時々話す人が自分では知らない実際の言語を話していることがある。(使徒 2:4-6)また、教会の集まりで使う異言の賜物:この場合、人が理解するためには解き明かしが必要。(1コリント 14:27-28

奥義: 人間から隠されている深い真理;神様が悟りを与えない限り人知で知ることができないもの。

改心: 自分の心をイエスに委ねて、新しく生まれ変わること。(ヨハネ福音書 3章

携挙: イエスの再臨の時に、 敬虔であったすべての死者が蘇り、生きている信徒と共に天を昇ってイエスと出会い、永遠の命を得るというもの。

審判者: 黙示録に預言されているイエスの役割の一つ

啓示: 神様が人間の心、思いに与えられる悟りや教え、知恵や知識。

サムエル: 幼少期から神様の御声を聞いて、従った旧約聖書の預言者。

新生: 神様を知って新しく生まれ変わること、改心(ヨハネ福音書 3章)。

主からの訪れ: 神様が御霊にあって、人間一人にでも、群衆にも、力強い現れを持って触れられること。(使徒 2章

救いの岩: 永遠の変わらない、揺るがない存在を表す神様の呼び名。

聖徒: 聖霊によって清められたキリスト教徒。

聖霊: 三位一体の神様は、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神;信じる人と共におられる神様のご臨在。

聖霊のバプテスマ:超自然的に生きるために神様の御霊が人の上に臨み、心と思いを生かす力。

聖霊の注ぎ: 主からの訪れと同義。

罪人バラバ: 裁判の時に、イエスの代わりに釈放された罪人。私たち罪人のために身代わりになられた象徴。

天の父の食卓: 信じる人の死と復活の後の宴会

天: 第一の天:太陽系、星など。
第二の天:天使と悪霊、悪魔が存在する、地球の周りにある見えない領域。
第三の天:神様とその王座があり、死んだ信者が存在している天と新しいエルサレム。

御声: 神様の声。

初穂: イエスが神でありながら、人間となり、私たちの代表として、死に、蘇られて最初に生まれた人。イエスを信じる人は、キリストにあって生まれ変わり、初穂となる。(ヤコブ 1:18

反キリスト:イエス・キリストに偽装して、イエスの教えに背く者、人を惑わす者の名称。

被造物: 創造物全て

福音: 良い知らせ、4つの福音書にあるイエスの救いのメッセージ。

ペンテコステ: 聖霊降臨(せいれいこうりん)と呼ばれる新約聖書、使徒の働き2章にある話。イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事。五旬節とも言う。

預言、預言者: 人間が神様からの言葉を預かって、他の人に伝えること。預言する者。

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読者、視聴者たちへ日本語翻訳について

私たちも、この話を聞いて、感動と主への情熱が増し加わりました。この証しを聞く人も、主の御霊による強い啓示を頂き、熱心に主を求めながら、御国の福音を一人でもより多くの人に伝える情熱を受け取るよう祈ります。

この大変興味深い本をできるだけシンプルに日本語に訳し、提供する目的で、自動翻訳ソフトを使用しました。その翻訳をチームで目を通し、校正をして、編集し、提供したものです。また、原本の英語が100年前のものなので、詩的な英語や、くどい言い回しも多くあり、多少読みづらく、分かりにくいところがありますが、どうかご理解いただきますようお願いいたします!

神とその御国のため!

Onfire Japan
ジェフ・リンスコット

2022年5月

翻訳、校正:Onfire Japan チーム

著作権について:Osterhus Publishing House

英語の原本には、“This book has not and will not be copyrighted.” 「本書には一切の著作権がつけられていませんし、つけられる予定もありません。」と記されており、H. A. Baker の著書には全て、著作権がつけられていません。また、著書本人がそれを強調しています。

原本(英語)の情報:

タイトル:Visions of Heaven, Visions Beyond the Veil

(Japanese title transliteration: The Chinese Orphans Who Saw Heaven and Hell)

by H. A. BAKER, missionary to Tibet, China, and Formosa (Taiwan)

English audio book: https://www.youtube.com/watch?v=TVS4IloR7Wc

English book. PDF online: https://www.hopefaithprayer.com/books/Visions_Beyond_the_Veil_HA_Baker.pdf

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