「弟子として生きる人生」ビル・ジョンソン
Life Of A Disciple – Bill Johnson
同時通訳:相馬伸子
マタイ10:37〜39、ヨハネ13:35、15:7〜8 

「弟子」という言葉の意味は「学ぶひと」という意味があります。でもこれは「一緒に時間を過ごす事で知る事」によって学ぶ事であって、外側を真似るだけのコピーではなく、関係によって生み出される旅をして知る、学ぶことをさしています。従っていく者ということです。

私はイエスが自分で死からよみがえったと信じていません。父なる神がよみがえらせる必要がありました。 ですから、イエスは信頼して十字架でいのちを捧げたのです。イエスは殺されたのではなく、自らのいのちを選んで捧げられたのです。イエスは父がご自身をよみがえらせることを信頼して死なれました。

悪魔は神の敵でも、問題でもありません。被造物ですから、神の息吹で瞬時で滅ぼされる存在です。世界の問題は「罪」でした、ですから神は御子イエスによって解決をする必要がありました。罪のないイエスが、罪となって神の怒りがそこに注がれ、赦しと解決のために死なれたのです。

弟子としての人生は、イエスに従うことであり、自分の十字架を負って自分に死ぬこと、自分の自然な選択では選ばないような行動をそこに神の栄光が働くチャンスになる時に選んで行うことです。クリスチャンの人生は、十字架で苦しむ事でなく、よみがえりの命ですが、十字架の死がなくてはよみがえりもありません。

昨年は人間関係に問題が生じて、痛みを感じました。しかし、ここで言いたいのは、痛みがあるのは生きているからです。十字架で自分に死ぬなら痛みがなくなります。ですから、私は主の前にでて、その人を祝福する祈りをして、義の実が増し加えられることをしました。

70年代の終わりに、私に主が強い示しをもって現れたので、私は「完全な従順」とを選択して主に「わかりました、主よ、あなたに人生の全ての計画や、ミニストリーなどを全て捧げ、自分の人生の物質的な祝福や報いも主の前にあって重要ではありません」と告白しました。
主は私達の心を父のように作り変えたいので、そのようにされるのです。主に全てを捧げ、神の国を第一に求める時、多くの事は主によって与えられました。しかし、私の心は「完全な従順」であり、「神の国とその義をまず求める事」なので、その報いが決して私の心を主ご自身から焦点を外さないように決断しています。 

ヨハネ15章のぶどうの木と枝の例えがありますが、木にとって実をならせることは自然なことで、信仰や預言や宣言の結果が「みをならせる」ではないですね。
では木の仕事はなんでしょうか、水と養分を受けることだけです。私達も繋がっていれば、実をならせること、ヨハネ15章では「祈りが答えられる」ことであると文脈からわかります。

弟子のするべきことは、自分の十字架を負うことであり、よみがえりと報いは主のされることです。

日本語動画:https://youtu.be/sPRCsp0Dlrg
英語動画(要登録):https://www.bethel.tv/watch/7791
英語音声:https://www.bethel.tv/en/podcasts/sermons/episodes/335