友人のスティーブの家を訪問した時のことです。当時スティーブには4歳と6歳の娘がいました。彼が電話に出るために退室している間、6歳の子が4歳の子に「明日は教会に行くのよ。」と伝えているのを耳にしました。
4歳の子は全くあわてずこう言いました:「私達は教会に行かないの、私達が教会なんだから。私達はもう御国にいるのよ。」
すると6歳の子は「御国ってなに?」と尋ねました。
「御国は天国がこの地上でおさめているところよ」と4歳の子が言いました。
こういう時に、「子供」版の聖霊などいないことが分ります。使徒に語りかける聖霊と同じ聖霊が4歳の女の子にも語りかけられるのです。
4歳の子でも理解しているのです。御国から教会が出てくること、そして教会は御国におさめられていることを。
私達の中にも誤解している人がいます。彼らは御国が、教会から出てくるものとして見ています。この見方なら、教会が正しく機能していれば、時々、御国が現われるかもしれません。神も時々現われ、教会に立ち寄られることでもない限りは、また姿を消されるのです。
しかしイエスにとって、神は時々「現れる」存在ではありません。私達にとっても同じです。神は私達の内に生きておられるのです。私達はキリストの内にあり、キリストは私達の内におられるのです。
『訪ずれる文化』と『住まれる文化』の違いです。
旧約は神が訪問される文化でした。特定の働きのために神は人々のもとに訪れました。イスラエルは神の訪問を体験しました。神は彼らが悔い改め、考えを変えた後に来られましたが、暗い時代や、罪や偶像礼拝によって彼らは神から離れることが可能でした。イスラエルは神と、ヨーヨーのような関係でした。上がったり下がったり、入ったり出たり。人々の行動を基にした一時的な関係です。
イエスは私達を固定概念から解放して下さいます。イエスは新しいことを行うために来られました。いま私達は神が私達の内に住まれる文化に生きています。なぜなら私達はさらに良い約束と正真正銘の神の臨在が土台である、新しい契約へと生まれ変わったのです。
私達はイエスの生前には地上で決して見ることがなかった新しい被造物です。多くのクリスチャンや教会は旧約聖書のアプローチから神との関係を学ぼうとします。しかし今、全ての古いものは過ぎ去り、全てのものが新しくなりました。
生まれ変わった新しい人生はまったく新しく違う契約から始まります。私達の内におられるキリストは今までにない期待を与えてくださいます:永遠の臨在。この臨在に入るために私達がせねばならないことは、何もありません。これは贈り物です。
しかし、この場所にとどまるために、絶対にせねばならないことがあります。それは「主の中に留まる」と呼ばれるものです。けっして去らない神が住んでいる現実の中に住み、のこり、とどまり続けることを学ぶことが主の中に留まることの全てです。
このことを本当に理解しないなら、残念ながら悲しい結果が待っています。あなたは「訪ずれる文化」と同じ行動をし始めます。自分でミニストリーを作り、「神が来てくださるのを見たい」とか「神に現れてくださるよう必死になりましょう」の様なことを言い始めます。
「神に必死」と言う彼らが何を言いたいか分かりますが、同意は出来ません。人は、本当に貰えるか分からないときに必死になります。砂漠にいる人々は水を必死に求めます。孤独な人は関係を求めて必死です。
神に必死になっている人は、神が何をしてくださったか、本当は理解していないのです。彼らは神が自分達にとってどんなお方なのかあまり分かっていません。もはや訪ずれる文化に生きていないことが掴めていないのです。彼らは既に聖霊なる神の住まわれる場所なのにです。
私は遠くにおられる神に必死なのではありません。神の中で楽しむことで手が一杯なのです。
自分は神の住まいであると理解する時に、神との歩みについての見方が根本的に変えられます。実際に主を探し求め始めます。
私は神を追いかけません。なぜなら神は私から逃げ去らないからです。一緒におられます…「わたしはいつもあなたと共にいます。」
私が主の中に留まることを実践するとき、神の臨在をもてなすことを学んでいます。楽しんで、頼って、相談し、信じて私への愛を一杯体験するために。神を慕い求めることが「全てのものが新しくなった」ことの一つです。どうやっていつもそこにいる人を慕い求めるのでしょう?私達は期待と興奮で慕い求めることを学んでいます。これは与えられたのです。神は私の人生の中に、私の状況に、関係に、ここにおられます。もし私がキリストの中にいるなら、その状況もキリストの中にあると言うことです!
聖書の「主を求めよ」とは、本当はどんな状況の中でも立ち止まって見わたして、その状況の中のどこに神がおられるか探してみよ、と言う意味です。神の臨在から来るものを探し求めましょう。すなわち知恵、好意、祝福そして力です。
これは神を見つけよ、と言うことではありません。神は行方不明ではありません。もちろん私達も。主の臨在の中の人生は互いにさらに素晴らしい方法で影響し合うと言うことです。神と共にいることを学ぶのが私達は大好きです。私達は神の愛の守りの中で成長し、神が自分を喜びとして下さることを味わいます。神が私たちの中におられるように、私達がキリストの中に住み、とどまることを学ぶ時に、素晴らしい自信が生まれます。
だから今日、関わりましょう。神があなたと深く関わられるのと同じように:必死にではなく、招待に応えて。
このように祈ってみて下さい。

「神よありがとうございます。いつも私と共にいていてくださることを感謝します。私をイエス様の中において下さり、満ち足りた人生に招待して下さってありがとうございます。毎日ここで会ってくださってありがとうございます。今日、あなたが私を見るのと同じように自分自身を見れるように助けて下さい。あなたが見るのと同じ方法で、ほかの人々を見ることを私にも教えて下さい。あなたの臨在をもてなすことを教えて下さい。そうすればどんな状況でもあなたを見つけることができますから。あなたがすでにそこにいて、待っていて下さることを知るために私の信仰をアップグレードして下さい。」

グラハム・クック
 翻訳:細見マリヤ、リンスコット綾