リバイバルを説明しようとする用語の多くは、それが起こった時の様子とか、或いはそれが起こる特別な状況に関する説明がほとんどです。その多くは「神の訪れ “visitation”」を表す言葉です。確かに私たちは神が聖霊の働きと共に訪れてくださることを待ち望んでいます。しかし聖書に書かれているのは、私たち一人ひとりの内側に建て上げられる聖霊が宿る場所、住まう場所 abiding, a habitation of the Spirit に関する言葉です。
実際のところ、リバイバルとは大勢の人が王なる主とその御国を発見することではありません。霊的に死んでいるものはリバイブする(息を吹き返す)ことはできません。死んだ霊はまずボーンアゲインする必要があります。リバイバルは教会のためのものであり、この世のためのものではありません。私たちが眠りから覚める必要があるのです。
リバイバルには3つの段階があります。第一の段階は、私たちのイエスに対する情熱が新たにされることです。即ち初めの愛に戻り、主の恵みと力に自分を完全に委ね捧げることにもどらねばなりません。第二は、失われた者に対する憐れみの心が回復されること、すなわちそれは、人生を御国に仕えるために捧げることです。この二つの段階を経験した結果として、最後の段階である「社会的改革 reformation が起ります。それはこの世の人々がクリスチャンの中に住んでいる復活の主の力と栄光に応答し始めるのです。
私たちは自分のしたいことや、言いたい事を捨てて、毎日イエスを愛することだけに自分を捧げねばなりません。イエスはヨハネ7:38で
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
と教えておられます。残念ながら人々は渇きをおぼえて水を求めて集会に来ることが多いのです。私にはそれが理解できません。私たちはクリスチャン(水を求めてではなく、既に)水に満ちあふれていて、それを人に分け与えたいと願って集会に来るべきです。
神と共に住むことを学ぶのには時間がかかります。私たちがミニストリーをするときに受けるプレッシャーは非常に大きいので、主に安息する方法を知らないと、私たちはストレスを感じ、病気になり、時には死んでしまいます。神の御前にある「平安の場所」に自分を連れて行く方法を修得するには訓練がいりますが、それは絶対に必要な訓練です。私はそのための訓練に何年もかかりましたが、今は普通5秒か10秒でその「平安の場所」に自分を連れていくことができます。私の周りで何が起っているか、何が私を脅しているのか、は最早問題ではなくなり、私は神の御前で自分を静かに落ち着かせることができるのです。
私にはその必要性があります。主の御声を聞くためには私が静まらねばならないからです。主は私たちの祈りと同じ音量で答えられることは稀です。
「父よ! あなたの御声を聞かせてください!」と私たちは神に叫びます。
すると主は「わかっています。」小声でささやきかえされます。
それが聞こえない私たちは「私に語ってください!」ともっと大声で叫びます。
すると主は「語っているのですよ。」とささやかれます。
しかし私たちは「今日、あなたの御声をどうしても聞かねばなりません!」と必死になって声を張り上げます。
すると「黙りなさい。そして、聞きなさい。」と主は静かにささやかれます。
詩編46:10に「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)」とありますが、黙想、メディテーションは神と共に住まうためのもう一つの方法です。西洋の教会は、神を深く思う時を持ち黙想することを学ばねばなりません。長い時間である必要はなく15分か30分でいいのですが、すればするほどあなたはもっと主に時間を捧げたいと思うようになります。私は黙想を愛します。
黙想し静まることは私たちに平安を増し加えます。私は自分が訓練している人達には、多くの時間を費やして平安について教えます。彼らが生活の中でどのくらい平安を持っているかをいつも尋ねます。彼らは来年には今年よりも心配やパニックの量が少なくなっていると信じています。彼らの平安が増し加わり、心配や不安は減少してゆかねばなりません。平安は極めて重要な御霊の実です。
主のうちに安息する能力を高めないならば、私たちはアドレナリンで走り回っている結果となります。それは少しの間はいいかもしれませんが、アドレナリンが高い時があるということは低くなる時もあるということです。往々にして人々は高いアドレナリンで走り過ぎた後にアドレナリンがなくなって疲れ果て落ち込んでしまいます。私たちは人生そのもののプレッシャーではなく、人生の走り方からくるプレッシャーで疲れ果てるのです。
しかし「平安」は外からのプレッシャーに対抗して内から押し返す力です。もしこの世が外から1000ポンドのプレッシャーをかけてきたら、「平安」は内側から1001ポンドで押し返すのです。私は行く所どこでもプレッシャーがあり、多くは非常に大きなプレッシャーです。多くの人々が私に会いたい、話をしたい、祈ってほしいと言って来ます。それは私の仕事ですから勿論かまいません。それを切り抜けるために私は「平安でいる」ことを学びました。神に安息することで私は平安を得るのです。
アドレナリンはやがて私たちの心と身体をすり減らし、疲れ果てさせます。仕事をして疲れるのはいいですが、仕事が嫌になってしまうのはよくありません。私たちは平安と安息と黙想を自分に与えることを学ばねばなりません。私たちが自分の内部を成長させて整えるならば、最高のレベルで長い年月働くことができるのです。(終り)
グラハム・クックの英語のブログ:http://www.brilliantperspectives.com/
From Visitation to Habitation – Graham Cook