私は「90年代の純潔文化の中で育ちました。「90年代の純潔文化」とは、教会があらゆる努力によって性的純潔さを教えた結果、もたらされたものでした。私は10代の頃、純潔であることは正しい事であるという(教会の)メッセージを通して、この「純潔文化」を経験しました。男性の周りでの振る舞いに気をつけること、男性が生理的に抑制が効かなくなることに配慮して、女性はタンクトップなどを着用しなこと、また、気軽にデートをするべきではなく、結婚しようとしている人とのみ関わるべきであるということ、そのため高校生のデートは明らかに間違っているという事などを学びました。男性が強い性欲を持っている一方、女性は性欲が全くないか、あっても非常に少ない(女性は感情によってのみ動機づけられる)こと、また男性はキスをするとセックスをしたくなるので、気をつけなくてはならないとも教わりました。教会は、他のどんな罪よりも、性的な罪に対して過度に焦点を当てているように思えました(パリサイ人が安息日を何よりも優先することに似ています)。これらのメッセージを通して、私は自然と、神が他のどんな罪よりも性的不純さに嫌悪感を持っておられると学びました。

私にはこういった概念が、真実であるとは思えませんでした。性的な分野において、自身が反抗的であるべきだと納得するのに多くは必要ありませんでした。じゃあ、性欲についてはどうしたらいいの?と思いました。時に私の性欲はは男性と同じくらい強かったのです!セックスによるメリットは?つながり、肯定感、愛の感覚… これらは私の心が求めているものであり、セックスがそれらのニーズを満たす方法となり、他にもそれらのニーズを満たす方法があるとは気づきませんでした。ただ「いけない!」と言うだけの教えは私にとって十分ではありませんでした。当時、性的な話題は教会ではタブー視されていました。それは、夫婦の寝室のみで許される秘密であり、謎でした。そのため、性に関しての神の御心について、私に話してくれる人は滅多にいませんでした。そして、私はクリスチャンの家庭に生まれたので、いろいろな面において、神のことを当たり前だと思っていました。神が私に対して不満を抱いていることを知っていました(むしろ神は私にうんざりしていると思いました)が、神は私の罪を許すだろうと思い込んでいました。「神よ、私はあなたの家族として生まれたのだから、しばらくは私の反抗も許してくれるでしょ。」と。

彼氏とのセックスは徐々に私に乱れをもたらし、私は神とのつながりを失いました。私はこんな生活をしながらも自分が神の友でいることはできない、とわかっていたので、自ら神との関係を切り離しました。教会が(彼氏との)この関係に代わる何かを与えてくれる事ができるの?という思いで、私はこのような生活を続けていました。しかし、実際は私は「生命の源から自分自身を切り離し(ヨハネ 1:4)」てしまい、「罪のために霊的に死に果て(エペソ人への手紙 2:4)」ていたのです。

しかし奇跡的にも、両親の祈りに神が応えてくださった事を通して、私は神が私の心に呼びかけているのを聞きました。神は、私がしていることをはるかに超える素晴らしい計画を、私の人生に持っているのだということを教えてくれました。神は私を純潔へと召されました。それは、まるで奴隷の苦役のように私の背中に積まれるような、抑圧的な規則ではありませんでした。それは神と共に歩み、神を知り、神にも(私を)知っていただくことへの招きでした。十字架により示された神、イエスの愛を理解するということでした。

それは長く曲がりくねった旅でした。ユースタス(C.S.ルイス 『夜明けの航海』の航海)のように、私は罪が覆い被せた「ウロコ」のようなものを、愛と痛みをもって剥がしてもらう経験をしました。福音を理解するには時間がかかりました。イエスの弟子たちが、初めて網のところで神から呼ばれた時に従ったように、私もイエスに従いました。しかし、その時には私はまだイエスを愛しておらず、イエスの愛について知る必要がありました。私が以前、自分の欲求を満たすためにしてきた事へと引き戻そうとする力が強く働き、簡単に切り離す事は出来ませんでした。(繋がり、肯定感、愛の感覚などの) 必要を満たすために、別の方法を見つける必要がありました。神に与えられた性的欲求と、パートナーが欲しいという思いを持つ女性として、待つということと、結婚願望の間で強く揺れ動いていました。 間違った思いがまだ、私の中で引っかかっていました。「私の罪のせいで、神は私に対して不快な思いを抱いている。神の腕は短すぎるし、神の愛は私が必要とするものに対して抽象的すぎる(現実味がない)。」私が以前してきた事(罪)は、一時的であっても私の心をより速く、具体的な方法で満たしてくれました。私は再びそれらに誘惑され、愛すべき神の腕の中ではなく、自身が作った囚われや鎖に繋がれてしまっていることに気付きました。私は助けを求め、イエスはそこから私を救い出してくれました。

この時、私は初めて神の深い御心と愛を理解し始めました。神は私に、神の愛は私にとって十分であり、私のすべての必要を満たすことがことができる、ということを示してくださいました。私は、私達を自身の罪、とりわけ私達を最も傷つける性的な罪から解き放ってくださるのは、神の愛であると学びました。神が「私が一番よく知っているのだから、私に従いなさい。」と言われているのではなく、「あなたに一番良い道を歩んで欲しいから、私に従いなさい。」と言われていると知りました。それから私は、神の言葉の中に隠れた多くの秘密を発見しました。それは、誘惑にあっても揺らぐことなく、どんな試練に直面しても強く堅い心を持ち、そして、二度と渇くことがない神の井戸から生ける水を飲む、という秘密です。

神は特に性的な罪において、私に呼びかけられました。なぜならそれが私自身にとって最大の闘いだったからです。(あなたの人生において最大の罪との闘いとして、神があなたに呼びかけられている事とは何ですか?)性的な純潔さへの呼びかけは、私自身がイエスを知る、ということへの呼びかけでした。それは単に教会が伝えるイメージを通してイエスを知る、ということではなく、他の人から教わることでイエスについて知る、という以上のことでした。主との親密な関係を直に、間に何も介さずに築くことでした。イエスの愛に触れ、イエスが「私に従いなさい。」と言われる時、それはイエスがかつてペテロに「私を愛していますか?では従いなさい。」(ヨハネ 21:15-19) と言われたのと同じく、さらに深い関係への呼びかけなのです。純潔さへの呼びかけは、まことに神聖さへの呼びかけなのです。それが本当に神に従うということなのです。イエスが十字架で捧げられた犠牲を受け取り、その子羊イエスの血を受け継いだ者として歩んでいくことなのです。「わたしはきよい者であるから、あなたがたもきよくなければならない」(レビ 19:2)という福音が述べ伝えているのは、「罪を犯してはいけない」ということではなく、「どのように生きていくのか」ということなのです。

私は純潔についてみなさんに「教える」ことはできません。と言うのも、これがルール本のようなものではないからです。でも、神が私に教えてくれたことについて、共有することはできます。イエスに従い、決して従うことを諦めないでください。イエスに従い、その愛の中で、主があなたのために用意してくれているものを見つけてください。主イエスはあなたに必要な全てを持っておられます。主は、決してあなたを見捨てません。