前回のブログに引き続き、ここ1年半
ほど関わりを深めてきた「ギャザリン
グ」の流れでもう一つ、主が強く語ら
れていることがあります。

「自分に死ぬこと」です。

これは、個人的に私の2018年の
大きなテーマでもありました。

今までの信仰の歩みを振り返って
自分に問いかけてみたのです。

「どこまでが自力でやれたこと?
どこからが、主が働かれたこと?」

でもこのテーマで深くお話しする前に、
自分の中で大きな縛りであった「ある
こと」からの解放についてまずお話し
しますね。

私たちぐらいまでの世代にとって、
「日本人の美徳」とされるある信念が
あります。

「頑張ること」です。

私たちは「頑張る」のが大好き!

元気がない人を見つけては、
「頑張って、元気出して!」

学校休んだ人へのお手紙も、
「頑張って、明日は学校へ来てね」

受験勉強中の塾生に向かって、
「頑張って、勉強してね!」

ファイト!ドンマイ!!!

努力、忍耐、弱音を吐かない、、、
根性もののスポ根ドラマ、
みんなを魅了した「おしん」などなど。

私の年齢がバレてしまいそうですが…

自分の弱さを否定し、涙を隠しながら、
なお格闘し、耐え忍び、自力で試練を
乗り越える=素晴らしい美徳

それができる人は素晴らしい!

葛藤の向こうに、大きな達成感と
自分の努力が無駄にならなかった

満足感が待っていますから。

そして試練を乗り越え、一まわり成長
した自分への賞賛を胸に、頑張った
自分へのご褒美を受け取るのです!

「私を、認めてくれる人がいる!」
「私はもっと愛されている!!!」

承認欲求が満たされた瞬間です!

こんなに気持ちのいいことは
ありません。

ここでもう少し、自分の話を。

育った過程の中で信じてきた物の中に、
神の真理とは相反する嘘がありました。

今回は、その嘘の縛りから解放された
時の話です。

長女気質バリバリ、優等生であることを
全うすることで、自分の承認欲求を満た
そうと躍起になって生きてきた私にとっ
て、困難なことがありました。

自分の弱さを認めることです。
ほぼ不可能に近い選択肢でした。

「学校で良い成績を取ること」
「お家でもいい子でいること」

物心ついた頃から、私の生き方の
軸でした。

良い成績をとったら先生や親が褒めて
くれます。

お家でもお利口さん、口ごたえをせず、
お手伝いをして、お行儀の良い子でいる
と、母が愛してくれます。

自分の価値が、自分の行いで測られる現
実に、ますます弱さを見せれなくなって
いきました。

うまくできた時はまだいいのですが、
うまくいかない時は悲惨でした。

テストの点が思ったよりも悪かった時、
それを親に報告するときの恐ろしかった
こと。

高価な焼き物のお皿を台所で手洗いして
いて、誤って割ってしまった時。

血相を変えて怒鳴った母から受け取った
メッセージは、私が最も恐れていたもの
でした。

「お前は愛するに値しない。」
「お前には価値がない!」

(*母は実施にはそんなこと一言も
言ってないんですよ!私が勝手に
そう思い込んでるんです!!!)

自力で頑張ることによって価値が認めら
れると本気で信じてきた人間にとって、
どんな理由であれ、自分ができない時、
自分の努力ではどうしようもない時の
到来は耐え難いものです。

「もうこれ以上頑張れない…」

希望を失い、生きていく力さえなく
なってしまうのです。

某難関高校に入学し、周囲がみんな、
有名国立大学受験に向けて躍起になって
勉強する中、ある日恐ろしい現実に直面
しました。

どれだけ頑張っても自分には勝ち目がない…

これを悟った私は自分を見失い、
拒食症を患い、身も心もボロボロに
なってしまいました。

その後キリストに出会い、神様の救いを
受け入れた後も、根本的なところは
変わっていませんでした。

自分の価値を神様が語られる真理とは
別に、自分の行いの良し悪しで測る
習性から抜け出せずに生きていました。

御父の無条件の愛についてメッセージを
たくさん聞きました。

聞くたび頭では分かっていましたが、
真理は私の心には届きませんでした。

「ありのままであなたを愛します。」

そう言って、両手を広げて待って
くださるイエス様を尻目に、

「もっと聖書を読まなければ…」
「もっと献金をせねば…」
「もっと教会で奉仕をせねば…」

あくせく走り回っていたのです。

そんな私が本当に解放されたのは、
SOZOのセッションの中で主が見せて
くださったある1シーンから私が受け
取った真理の力でした。

そこは、私が幼い時に過ごした実家の
自分の部屋でした。

そのシーンの中にイエス様がおられ
ました。

ベッドの脇に腰掛け、そこに横たわる
子供の私をずっと温かい眼差しで
見つめておられました。

私は何をしているのかというと、
ただ寝息を立てて寝ているだけ
でした。

「存在している」だけで、
「何もしていません」でした。

その私をご覧になられるイエス様は、
満面の笑みを浮かべておられました。

イエス様のために何もしていない私が、
そんな私がただ存在しているだけで、
イエス様はこんなに喜んでおられる!?!

驚きというよりもショックでした!

神様の無条件の愛、無条件の受け入れを
心から知った瞬間でした。

自分の価値がどこから来るのか、
その真理を受け取った私が180度
変えられたのはいうまでもありません。

まず、自分の弱さを認めることが
できるようになりました。

「できないから、助けて!」
と言えるようになりました。

(*結婚当初は、これが言えなくて、
可愛くない妻だったと思いますよ、
ごめんね、ジェフさん!)

自分の行いに対する他人の評価を
気にすることがなくなり、
人の目が気にならなくなりました。

そして同時に、自分の弱さを補う
ために、主が私の人生に備えて
くださった人たちの存在が
見えてきました。

その人たちを通して、私の人生が
とても豊かになった話しは、
前回のブログでも少しお分かち
しましたね。

さあ、この次のブログでは、自分の
弱さを認めることができるように
なった私に、主がさらに深い啓示を
与えてくださるプロセスを分かち
合いますね。

なんったって、死ななきゃ始まらないん
ですから…