Purity and Power – Bill Johnson JAPANESE

同時通訳:相馬伸子

1コリント5、6章
私達の教会は「愛」によって、知られることを私は望んでいます。清められていない憐れみは 憐れみではありません。時に人は「清められていない憐れみ」を用いてしまいます。「恵み」は罪を犯し続ける為の許可ではありません。恵は罪から私達が自由になる為の力です。神様から賜物です。
私が長年にわたって牧会的な働きをしてきた中で「苦味や恨み」を持ち続ける事、「幻覚や中毒をもたらすような薬」を使用する事、「性的な罪を継続する事」が人生に悪魔の働きのアクセスを作ってしまう非常に悪い結果をもたらす罪だとわかりました。
信者がよく「私を裁かないでください」ということがありますが、もちろん人は「有罪判決」を下すように、「裁く」ことはできませんが、信者は「自分たちを裁くこと」。それは「見極め、判断し、境界線を引く」ことをせよと1コリント5章で教えられています。自分の体に癌ができたらそれを無視する人はいないでしょう、「見極め、判断して、取り去って」くれる医者を探し、自分の体に死をもたらすものを残さないでしょう、そのように、教会でも、「見極め、判断し、境界線を引く」事をする事は必要です。
イエスは「決して罪を犯さない」清さの中をあゆみました、そして「力」がありました。私達にも両方が必要であり、求めつ続けています。イエスは私達が驚くような罪人達から愛され、彼らと一緒にいるだけで変化をもたらしました。例えばザアカイのように説教などする事なしに「盗んだ物は全て返し、財産の半分を捧げます」と彼の心は変わったのです。
イエスが、神の言葉は私達のスタンダードで、私達の文化や、思いで神の言葉を解釈して、理解する事は間違いです。私達は皆、それぞれが神のことばというスタンダードによって自分達の考え、人生観を神の言葉に合わせることをしているのです。
また、6章では兄弟達が、未信者が裁判官として働くところで告訴することに対しても言及しています。私は実際に兄弟達が問題を解決するために教会の長老の所に来たという事を見たことがありません。これでは、イエスの光を、福音を聞かなければならない人、未信者に対して、信者が福音を恥と感じさせるような事を結果している事ではないでしょうか。
私達の教会は、家族です。尖っている石が、砂と一緒に乾燥機のようなところで「研磨される」事を思ってください。私達も互いによって、こすられ、角が取れ、磨かれるのです。

日本語動画:https://youtu.be/JC06Dijtpp4
英語動画(要登録):http://www.bethel.tv/watch/4346/purity-power-sunday-pm/2016/11/20