前回、エクレシア・教会の愛し合う等しい関係の共同体について話しました。
三つの要素:フラット、フリー、そして、オープンの関係が必要だと話しました。

今回も、エクレシア・教会、兄弟姉妹の人間関係の鍵、オープンな関係について話します。

世の中の問題のほとんどは、人間関係だと言っても、言い過ぎではないと思います。
この世で一番大切なものは愛。その愛を育み、愛し、愛されることを学ぶ訓練を受ける現場は、人間関係の中ですね。
友人関係、夫婦関係、親子関係、会社関係、教会の関係です。

人間関係の中に、こういう葛藤がよく見えます:
深い、信頼し合う関係を築くためには、へりくだり、自分の弱さを見せないといけません。
でも、自分の弱さをさらけ出した時に、人に拒絶されるリスクがあります。
だから、多くの人は、本音ではなく、建前で関わり合うことを選び、うわべだけの関係ができてしまいます。

以前、「真の共同体を求めて探し回るのを辞めましょう。」というメッセージの中で、この話をしました:

人間は幸せを感じる為に、深い、親密な人間関係が不可欠だと言う事を説いています。こころを開いて、つながり合う関係ですね。でも現実には、こころが開けない、本音を出せない人がとても多く、本当の深い絆を築く事はとても難しいそうです。こころを開いて、本音を出すためには、恥を捨てないといけない。本心を伝えたら、拒絶されるかもしれないという恐れを捨てないといけない。でも、育って来た環境や様々な状況の中で、恥や恐れを手放す事が出来ず、配偶者にも、友人にも、家族にも一生こころを開けない人達がいます。その人たちは、深い信頼関係を築く事が出来ず、結局、傷ついたり、拒絶されたりを繰り返してしまいます。

この研究結果によると、自分の弱さをさらけ出して、こころ開けれる人に共通している事は一点です。彼らは、「自分は愛されている、受け入れられるに値する存在であるという自信」を持っているそうです。つまり、愛されていることを自覚している人は、恥を捨てて、自分の弱さを見せることができ、他人が自分の事をどう思おうが恐れません。その結果、彼らは他人とさらに深い絆を育むことができます。

逆に、愛されていると自覚出来ない人、自信の無い人、不安のある人は、心を開いたら拒絶されるかもしれないとの恐れを持っています。本当の自分を見せれない状態、いつも建前の強さ、見せかけで完璧主義に走り、深い絆はなかなか育めないのです。

https://www.ted.com/talks/brene_brown_on_vulnerability?language=ja (日本語字幕付き)

イエス様の愛による癒しが必要ですね。また私たちをありのままで受け入れてくださっている神様の愛の啓示が必要ですね。

全き愛は恐れを締め出しますと、聖書には書いてあります。
皆さんはその全き愛を知っていますか?
皆さんは、全き愛と聞いて、何と考えますか?

愛と聞くと、「ロマンス」のような、ふわふわした恋愛感情や、好きという気持ちを思い浮かべますか?

愛は選択です。と答える人もいるでしょうか?気持ちや感情がどうであれ、愛することを選ぶこと。

愛は犠牲です。との答えはどうでしょうか?自分よりも、他人を優先にすること。聖書的な優等生の答えですね。

最近ある方の結婚式に際して、メッセージを取り継ぐ機会がありました。有名な第二コリント13章、愛の章から、シェアしました。
愛は「人のした悪を覚えず」、「全てを信じ、全てを耐え忍びます」

でも、私たちの経験してきた人間関係の中には、この章で書かれている愛を実践するのがとても困難な関係もあります。信じていると思ってきた人に裏切られた。良かれと思ってやったことを誤解され、非難された。一生懸命心を尽くしたのに、感謝されるどころか、気づいてももらえなかった。

信頼して心を委ね、守ってもらえると思った人に逆に傷つけられた。

そういったときに、私たちの中の愛はすぐに冷めてしまいます。彼らのした悪を指摘し、批難し、裁いてしまいます。ときには復習さえも妥当だと思ってしまいます。信頼は一瞬で崩れてしまいます。全てを耐え忍ぶなど、不可能な話です。

聖書には神は愛ですとあります。愛は、神ご自身。神なるお方です。先ほど話した感情や選択、自己犠牲は、愛なる神様ご自身が私たちの心に住まわれるときに、私たちの行動や言葉、生き方に現れる副産物です。

神が愛だからこそ、私たちは、愛します。逆に神が心の中にあるみ座に座しておられない時は、愛することは不可能です。

人間の愛、肉の愛というふうに呼べるでしょうか。そのような愛に名前をつけました。「自力愛」です。

自力愛で人を愛そうとしても、この愛は、相手の出方に応じて、増えたり減ったりします。相手が愛しやすい人の場合は、私たちの自力愛もどんどん増えていきます。でも、相手が愛しにくい人の場合は、私たちの自力愛も、さっさとどこかへ消え去ってしまいます。

「 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」第一ヨハネ4章20節

最近、この御言葉から、新しい啓示を受け取りました。

ここで、目に見えない神を愛することはできませんとありますが、「いいえ、私たちは神を愛しています!神様は素晴らしい方。賛美に値するべきかた。私を救い、永遠の命を与えてくださった!」と言って、皆さんも、見えない神様を愛していますよね?

でも、その愛も、本当の愛ではないとここで言われています。
目の前にいる、兄弟のことを愛していないなら、、、

ああ、でも、あの人は愛されるに値しません。こんな裏切り行為をしましたから。
ああ、あの人は、信用できません。こんなひどいことをして、私を傷つけた人ですから。
あれ?また、自力愛のことを話してしまいました。これは、本物の愛ではありませんね。

本物の愛、神ご自身である愛は、愛する対象が、その愛を受けるに値するか否かは関係しません。

その方が、信頼することができるか否かは関係しません。
どのような背景、どのような人物であるか否かは関係しません。
その方がまだ罪人であった時に、御子をさえ惜しまずにお与えになった神、ご自身が愛なのです。

その愛を受け取りましょう。その愛が、私たちの心のうちにますます満ち溢れて、今まで自分の中にあると思い込んでいた肉の愛、「自力愛」がますます、アガペの本物の愛に作り変えられていきますように。

神がその方を見られるように、その人を見ることができるようになるまで。

神はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
神の愛は決して絶えることがありません。

お祈りします。

神様、あなたが「愛」そのものであられることを感謝します。
そして、その神様、あなたを私たちが、心の中に、お迎えすればするほど神様、あなたのその全き愛で私たちの心の中の恐れがどんどん締め出されることを今、受け取っていきます。あなたのその愛を。
そして、私たちが自分の力で、肉の思いで、自力愛で、人を愛してしまう時に、それを悔い改めて、神様、あなたの全き愛で、その人を愛することができるように。
その全き愛を、私たちが受け取った時に、信じるのができない人、赦すことができない人も、信じ、赦して行くことができるように、神様、私たちの心の中をあなたご自身で、もっと埋め尽くしてください。
イエス様の御名によってお祈りします。

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