前回は、聖霊にあって、私たちの唯一の義務は、愛し合うことだと、聖書の言葉を通して見ました。
そうです。
私たちは、キリストにあって、完全に自由となり、祈り、聖書を読み、断食を通してもっと理解する、経験する、また楽しむことができます。しかし、キリストにある私たちの神様との不思議な結合を更に強固にすることはできません。人間の結婚のように、神様との結合は事実です!
あなたは、キリストにあって、不思議に神様と結びつけられただけではなく、互いに、他のキリストにある者と結びつけられたことも、ご存知ですか?
そうです!
教会の一致は、皆が仲良く交わることではありません!尊敬し合うことだけではありません。
十字架の上で、キリストによって、私たち皆がキリストの体に取り込まれて、和解が成し遂げられました。
天にある事実は、私たちが既に一つとされているのです。

ローマ 12:5「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 

ヨハネ 17:21 「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。」 

エペソ 4:2-3「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

天にある、私たちの不思議な結合の事実が、地上で、私たちの関係の中に、現れますように!
人間の間の一致を作るのではなく、聖霊の一致を保つことです。
内に住んでおられる御霊に委ねながら、一歩一歩聖霊様と合わせて進もうではありませんか?
キリストの体として、教会として、進むために理解すべきなのは、まずキリストにあって愛し合うこと以外の義務から完全に自由とされたことと、さらに、神様との不思議な結合の中に受け入れられたことです。
なぜ私がいつも「不思議な結合」と呼んでいるか?それは、不思議だからです!奥義なのです。
人間の知恵や知識を遥かに越えた素晴らしいことです。
「不思議な結合」について少し聖書の言葉を見てみましょう。
2コリント5:18-20

18 「これらのことはすべて、神から出ているのです。」

この「すべて」に注目してください。
今からのことは、すべて神様からです。自分の努力、自分の信仰でもない、神様が一方的にしてくださったのです。

18「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」

更に、パウロによるその説明が続きます:

19「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」 

20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

また、ローマ書のことば:

ローマ 5:8
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神様との和解は、私たちの方からではなく、神様がキリストを通して、一方的にしてくださったことです!
私たち信じる者だけではなく、「世」、(ギリシャ語のコスモス)、世界の全ては、キリストにあって和解させられました。
ローマ 5:9「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
違反行為の責めを人々に負わせないで、神様は完全に人類全てをキリストと共に和解させてくださいました。
今すでにキリストの血によって義と認められ、和解された世界は、キリストによって神の怒り、つまり罪の当然の報いから救われることも、当たり前なのです!
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」ローマ 10:13
当然です。
この大事なことに気づいていただきたいと思います。
和解は、私たちと関係なく、神様が一方的に、十字架の上で、成し遂げられたことです。
救いも、私たちのために、完全に用意されています。しかし、その救い、罪の結果からの解放を経験するために必要なのは、呼び求めることです。頑張ること、良い行いをすることではなく、呼び求めるだけです。
私たちクリスチャンと未信者との違いは何でしょうか?
目覚めたか目覚めていないかです!気づいているか、気づいていないかです。
私たちクリスチャンは、顔のおおいが取り除けられた者です。
私たちクリスチャンは、この約束の初穂です。この事実に目覚めて、理解して、経験して、楽しむ毎日を過ごすことができます。
和解は、完成しました。
救いも、完成しました。
私たちが毎日更にその救いを自分の状況、家族、人間関係、会社、学校、つまり具体的な生活に受け入れることができます。
罪の世界は、罪の結果、神の怒りと死に溢れています。
家族の分裂、離婚、病気、鬱、自殺、犯罪、不義、貧困などが溢れています。
神様の救いがその場に、受け入れられるように、待っています。
天のところに、それが既に用意されています。
この意味で、救いは、過程であり、プロセスです。
救われていないところから、一瞬で救われた状態に移され、そこで終わるのではなく、この救いを通して、今から更にそれを経験して楽しむことができるプロセスです。
力から力へと進み、
信仰から信仰へと進み、
栄光から栄光へと進みます。

2コリント 3:18
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」

変えられて行くプロセスです。

「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

神様の働きです。私たちが喜んで、囚われているその束縛と嘘を手放して、その救いを素直に受けてもいいです。
これこそ、福音です!
イエス様に、向き直って、神の御国が既に近づいたことに気づき、それを自分の状況に受け入れます。
クリスチャンが、いつも救われているかいないか、天国に行けるか行けないか、それだけを強調するなら、本当の御国の福音を理解していないのでは ないでしょうか?
事実、全世界は既に和解されています。既に救われています。
その和解、その救いをまだまだ経験していない人が沢山います。だから私たちには、和解の務めが委ねられています。
私は、その和解と救いに目覚めた者は、毎日その中に成長することができると思います。
来週新しい試練がきます。そのためにも、神様の救いがもうすでに用意されています。
私たちも、ほかの人のために、その救いを地上にもたらす器として用いられる特権があります。
まだまだ自由意志があります。
クリスチャンだからといって、肉的な思い、過去の罪の性質が死んでいても、その悪いクセによって行動しないとは限りません!
多くのクリスチャンは、キリストと繋がっていても、自分の罪の性質が死んでいるしかも、敵の嘘を信じているので、罪人のアイデンティティのままであり、まだ囚われているのです。
罪の奴隷となっています!
せっかくキリストにある、義人としてのアイデンティティを無視して、罪人として生きています!
キリストによって、神様との不思議な結合、矛盾に見えるけど、そうではありません。
2コリント5:18-20のその奥義をもう一度繰り返します。
神様は、キリストによって、私たちをご自分と和解させました。
だからこそ、神の和解を受け入れましょう。
私たちはキリストの使節として、和解の務めが与えられました。
神様との不思議な結合をこの一週間、楽しんでください。