神様の怒りについて少し考えましょう。
神様の怒りは、本当に勘違いされていると思います。
まず、私たち人間は、神様のイメージによって造られたのに、いつも神様を自分のイメージによって作り直そうとしています。
この場合、私たち人間、特に人間のお父さんは、怒りっぽい、いつも怒っているイメージがあります。
いつ怒るかわからないし、多くの子供は、毎日不安を感じながら生きています。
「地震、雷、火事、親父」
ああ、もしかしたら、天のお父さんも私の人間のお父さんと同じように、いつも私のことを怒っている、いつも不満を言っているじゃないか、と思うクリスチャンも少なくはないですね。
いや、私たちの本来の父親は、神様です。人間ではありません。
ですので、私たちの父親のイメージを天のお父さんによって、心の一新によって、変えなければならないのです。再定義が必要です。
神様の怒りは何でしょうか?
まず、理解していただきたいことは、神様の怒りは、神様の愛の一面です。

「神は愛です。」1ヨハネ 4:16

神様のご性質を分けて、分析することはできません。
全能の神様は、完全な愛なのです。全ては、その愛を通して理解しなければならないのです。
主の恐れ、神様の裁き、神様の怒り、全て神様の愛の視野から見なければならないのです。
放蕩息子の話はその一例です。
お父さんが息子に遺産を分けて、自分勝手な道に行かせたのは、神様の愛と同時に神様の怒りの表れです。どうして?
息子は、自分の罪の結果を自然に受けたからです。神様は、彼がその報いを受け取ることを許しました。
「どうぞ、ご自由に。出て行ってください。遊んでみてください。あなたは自由ですよ。」
この話の中で、息子のお金がなくなって、飢饉が起こり、飢えたのは、罪の結果によるものですね。
ここで、罪の意味も、再定義の必要があると思います。
ギリシア語の「罪」と訳されている言葉は、「目的を外れた」、「的外れ」という意味です。
つまり、神様の完全な計画、本来神様が定められた目的を私たちが達成できず、目的から外れてしまったということです。
この有名な聖書の箇所、ローマ 3:23-24をこのように読みましょう:

「すべての人は、神の完全な目的から外れたので、神からの素晴らしい当然な報い、神の栄光を受けることができなかった。」(著者の意訳)

旧約聖書の律法も、神様の素晴らしさを表すこの完全な目的の表れの一つですね。
罪を犯す楽しみは、すぐなくなります。また、目的から外れた生活によって、心が空しくなります。さらに、それを紛(まぎ)らわせるために、いろいろなことをやってみます。
罪を犯すものは、罪の奴隷となります。
罪の結果は当然、死です。
では、神様の怒りとは何でしょうか?
有名なローマ1章の箇所を部分的に見てみましょう。
また、時間がある時、全部読んでみてください。

ローマ 1:18「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」
19 「神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。」
20「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
21「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」

彼らは、目で見えない神様ではなく、偶像を作り、偶像を礼拝するようになりました。

24「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され(ました。)

また、性的に神様のご計画を捨てました。

26「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。
27「こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

まとめて言いますと、
神様の怒りはどのように啓示されていますか?何に見えますか?
人は、その心の欲望、恥ずべき情欲、そして良くない思いに引き渡されることです。
放蕩息子、そのままです。愛に溢れるお父さんは、息子を止めないで、どうぞ、自分の思う通りにしてください。と言って、彼を手放します。
罪には当然の報いがあります。体にも、思いにも、心にも、報いがあります。
しかし、私たちは、いつでも神様に立ち返ることはできます。本来の「悔い改め」の意味ですね。
立ち返って、神様は、全ての罪の結果から私たちを聖めて、本来の目的の只中に置いてくださいます。
この意味で、神様の怒りは、私たちを聖めるものです。
私たちを裁いて、切り捨てるような怒りではなく、私たちが父なる神様の身元に戻られるようにできるお誘いです。
このように見ると、パウロの不思議な言葉がわかります。
パウロがある二人について酷い言葉を言います:

1テモテ 1:20 「私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」

どういうことですか?パウロは、この二人が地獄に行くように祈っていますか?
まさか!
パウロは、彼らは、罪の当然の報いを経験して、神様に立ち返るように、望んでいます。
神様の怒りは、神様の愛の一面です。
今日、二つのおすすめがあります:
まず、ぜったいに人を裁かないことです!
あなたの目では、どれほど酷いことをしていると見えたとしても、その人は、すでに自分の罪に対する当然の報いを受けています。
放蕩息子のように、その報いを受けている中で、目覚めて、お父さんに立ち返るように祈って下さい。
次は、自分の心を探ってください。
放蕩息子のように、お金がなくなって、飢えているなら、いつでも天のお父さんの家に戻ってもいいですよ!
神様の目的から外れた生活をすると、不安、恐れ、悩み、鬱、妬み、恨み、憎しみなどが溢れます。その全ては、死に至るものです。
しかし、主の家には、平安、愛、希望、喜びがあります。
パーティーがあります!
いつでも歓迎されるパーティーです!
今でも、心から祈ってみてください。
「天のお父さん、あなたの家に戻りたい。戻る道を教えてください。」

 

祈りながら、天のお父さんがあなたのところに走ってきて、受け入れてくださることを覚えてください。