イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられなかったことを、前回紹介しました。
そのことによって、私たちも、絶対に、神様に見捨てられることはない、と確信を持つことができます。感謝ですね!
次のことは、似ていますが、少し違う角度から見てみたいと思います。
多くのクリスチャンは、神様、つまり天のお父さんとキリストは、十字架の上で、別れてしまったと思っています。
それだけではなく、地上を歩いている神様であるキリストは、天におられる神様と別の存在だと、多くのクリスチャンが何となく信じています。
また、旧約聖書の中には理解しにくい話が多くあります。
多くのクリスチャンは、はっきり言って、二重人格の神様を信じています。
旧約聖書に書かれている、怒りっぽい、人間をさばいて、人間を罰する神様と
新約聖書に書かれている、優しい、人を愛するイエス様。
それに加えて、多くの人は、怒りっぽい人間のお父さんのイメージに慣れていますので、天のお父さんも怒りっぽくて当然だと、密かに信じています。
そのために、天のお父さんとイエス様は、別々の存在ではないかと思って、神様の御性格に疑いを抱いています。
神様は、本当に良いお方なのか?本当に優しいお方ですか?近づいても大丈夫ですか?突然私のことを怒ったりすることはないですか?
神様は良いお方だと原則的に信じていますが、本当は少し疑いがあります。
怒りっぽいお父さんに近づきたいと思う子供が、どこにいるでしょうか?天のお父さんについての疑いを抱いたら、そのお父さんに近づかず、自分の思いと心の中、遠くからしか接することができません。
皆さんがもし、神様の本質についての疑問があれば、それを正直に認めてもいいですよ。
ただ、認めながら、御言葉を改めて見て、神様にその真理の道に導いていただきましょう。
クリスチャンの生活は、栄光から栄光へ。神様の素晴らしさの新しい啓示が私たち皆のために、待っています。
この十字架のメッセージを通して、あなたも私もどれほど天のお父さんに愛されているかをもっと知ることができるように祈っています。
神の本質の完全な現れ
素晴らしいニュースがあります。
ヘブル 1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり…」
キリストイエスは、神様、つまり天のお父さんも、聖霊様も、完全に示してくださいました。
旧約聖書の中で、この「奥義」は隠されていました。
コロサイ 1:26「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。」
キリストが来る前の人々は、この奥義が分からなかったのです。隠されていました。
しかし、この現された奥義は、何ですか?
キリストイエスを通して、神様の本当の御性格が現されました。
皆さん、理解していただきたいことは、天のお父さん、聖霊様、そして御子キリストの御性格は、まったく一緒です。
三位一体の神様です。家族のように、お父さん、お母さん、子どもの3人ですが、一つの家族です。
まったく同じ御性格です。
旧約聖書に書かれている神様に疑いを持って、新約聖書を読むなら、躓きます。
旧約聖書を新約聖書に現されたイエス様を通して見なければなりません。
ビルジョンソン師がよく言います:「イエスキリストは、完全な神学です。」
その通りです。
十字架の話に戻りましょう。
イエス様が十字架につけられた時に、天のお父さんは、どこにおられましたか?
遠くから見ておられたでしょうか?
愛を持って、近くからイエス様を見ておられたでしょうか?
いいえ、イエス様の中におられました!
十字架の直前のイエス様の話を見てみましょう。
ヨハネ 10:30「わたしと父とは一つです。」
ヨハネ 14:11「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。」
ヨハネ 17:11 イエス様が天のお父さんに祈りました:「…わたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
続けてその同じの祈りの最後に:
ヨハネ 17:22 「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
そうです。天のお父さんは、御霊を通して、イエス様の中におられました。
イエス様を見捨てたこともなく、背を向けたこともなく、近くから見ておられただけでもなく、天のお父さんは、キリストの中におられ、一緒に十字架の上につけられました。
また、2コリント5:19 「神はキリストにおいて世をご自分に和解させました。」(口語訳55年)
英語の聖書の、「キリストにおいて」は、「キリストの中におられて」と訳されています。
天のお父さんを旧約聖書の話を通して理解するのではなく、キリストを通して旧約聖書を理解するのです。
旧約聖書には、不思議な話が多くあります。
私たちは、たとえ理解し難いことが有ったとしても、それでも構わないと考えられる意識を持っても大丈夫なのです。
全てを綺麗に片付けることは、できません。
不思議なことが多い。理解しにくいことも多い。矛盾しているように見えることも多い。
私たちが、そのようなことに直面するとき、すぐ片付けるために、変な解釈、神様の御性格と決めつける神学などを抱いてはいけません。
こういう言い方は、どうですか?
旧約聖書では、神様はこれこれしました。このように言われました。なぜだか分かりません。
しかし、イエス様は、このことを示してくださいました。イエス様は、神様の本質を完全に見せてくださいました。
つまり、旧約聖書の言葉をイエス様のメガネを通して見ることです。
罪人は神様の敵?
これに関する勘違いですが、旧約聖書を通して多くの人は、罪人は、神様の「敵」だと信じています。
これをイエス様の目を通して見ると、別の角度から見えます。
それは、まず神様が私たちを敵として見るのではなく、私たちがイエス様と出会う前に、自分を神様の敵だと思ってしまうことです。
コロサイ1:21「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。」
以前説明したように、私たちは神様から離れることができないのなら、どうしてここには、「離れている」、また「敵対している」と書いてあるのでしょうか?
この節の中に、書いてある「心の中」だからです。
神様から離れていること、捨てられたこと、神様に敵対していることは全部、人間の立場、人の視野からのことです。
被害妄想です!
しかし、妄想は大きいですよ。
多くの人は、妄想によって生きています。数十年前の経験から自分について、また神様についての嘘を信じて、その妄想によって自分の人生を定義している人が、非常に多いのです。
だからこそ、イエス様の「悔い改め、つまり向きを直す」メッセージは大事です。
神様とその御国は遠いのではなく、近いのです!
聖なる陰謀があります!
ヨハネ5章のイエス様の言葉を見ましょう:
19 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
皆さん、天のお父さん、イエス様は、一緒です!
21「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
昔からの神様の心は、命を与えることです!創造のときから変わりません!
天のお父さんの心は、イエス様と同じように、命を与えること、癒しを与えることです。
もし旧約聖書に書かれている、神様の命令による虐殺の話が理解できなかったら、それをしばらく横に置いてください。イエス様のメガネを通して、現された本質、その明確な神の愛と命に目を留めましょう。
今後も、旧約聖書の理解しにくい言葉を見るかも知れませんが、今日はもっと大事なこと、天のお父さんの明確な本質を正しく理解しましょう。
22「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」
じゃあ、イエス様には、すべての裁きが委ねられているなら、イエス様の裁きはどうなりますか?
ヨハネ 12:47「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」
ヨハネ 3:17「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
え!?イエス様も、天のお父さんと同じように、もう人を裁きません!
どういうことですか?
裁きはもうないですか?
さばきの日はどうなりますか?
確実に、さばきの日はありますよ!しかし、その日はまだ来ていません。また、その裁きの日も、もしかしたら、私たちが考えている裁きと違うことだと思います。
「さばきの日」の意味を論争してもいいですが、今日は、恵みの日です!
次回、神様の怒りについて十字架を見てみましょう。
本当に神様の怒りが十字架につけられたイエス様に注がれたのでしょうか?
では、神様の恵みを楽しみながらこの一週間を過ごしてください。