「悔い改めなさい!」は、キリスト教でよく聞く戒めのひとつですね。
旧約聖書から新約聖書まで、「悔い改める」という言葉は、日本語の聖書の訳によりますが、多くて150カ所で使われています。
この「悔い改め」という日本語は、新約聖書ギリシャ語のメタノイアの訳語です。
イエス様が実際に使った言葉はおそらく、ヘブライ語の「シューブー」と考えられます。
日本語でいう「悔い改める」の背景を理解しましょう。
これは、日本特有のキリスト教用語です。
キリスト教が初めて日本に伝来した際に、聖書の訳者が造語をつくり選択した言葉です。
これは私見ですが、この言葉が選択された背景には訳者の神学の見解や日本の文化からの影響が大きいと考えます。
面白いことですが、旧約聖書、新約聖書どちらの言語にも
悔いること
後悔すること
という意味はありません。
ここで、イエス様が初めてこの言葉を使った場面に注目してみましょう。
マタイ4:17

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

イエス様は、福音、つまり良い知らせを伝え始められたとき、この「悔い改め」のメッセージでスタートしました。
しかし、これは矛盾していないでしょうか?
悔いること、後悔することは、良い知らせではありません。
だれにでも後悔することはできますし、大勢の人が毎日後悔しています。
良い知らせとは、新しい選択があることなのです。後悔すること以外の選択がある。悔いることをしなくてもいい、これこそ、良い知らせです!
その当時、イエス様が使ったヘブライ語の「シューブー」は、簡単に言いますと、向きを直す、向き直れという意味です。
つまり、他の選択に目を向けることは可能なのです。
もちろん、時として悲しむことは人生において大事なことです。
イエス様を信頼する時に、過去の失敗や罪などを思い起こして後悔するのは当然です。
私達は、信じた嘘や無駄にした時間の大きさを実感するときに、人を傷つけた大きさに気づきます。
自分の自己中心に目覚めたら、悲しむこと、悔いることは当然ですよね。
深く悲しんで、泣き崩れることもあるかもしれません。
しかし、詩篇30:5節

その怒りはただ、つかの間、その恵みは、命の限り長いからである。
夜は、泣き悲しんでも、朝と共に、喜びが来る。

悲しむことがあっても、それは一瞬です。喜びは、私達の常です。
こんなイメージを描いてみてください。
ショッピングセンターの中を歩くお父さんと小さい子供がいます。
人が多くてごみごみしているので、子供は不安になって、あわててしまいます。
そのうち、お父さんから目が離れてしまい、知らない人が目の前でバタバタするのを見て子供は怖くなります。
実は、お父さんはすぐ近くにいるのに、目をそらし見失ったために怖くなって泣き出す子供。
お父さんが子供の名前を呼ぶと、子供は向き直り、お父さんのほうを見て安心し、ニコニコ笑ってお父さんに抱いてもらおうと手を上げます。
一瞬、悲しんだ子供が、お父さんの存在と愛によって癒され、安心して喜ぶことが出来ました。
実際にはお父さんから離れてしまったわけではありませんでした。子供が離れたと感じて怖くなりました。
お父さんはずっとそばにいました。
でも、子供には選択がありました。
お父さんから目を離して怖くなった時に、「ああ、しまった!失敗した。どうしよう?!お父さんが見えなくなった!目を話さなければよかった。」と考え込んでずっと悔やみつづけるか、お父さんの声に応えて向きを直し、お父さんに抱っこしてもらうことか。
みなさん、向きを直すことと、悔い改めることは、違います。
少々のニュアンスの違いどころではなく、まったく異なることなのです!
この二つを比べてみましょう。
悔いることは、悲しむことに基づきます。
向き直ることは、喜ぶことに基づきます。
後悔することは、自分中心です。
向き直すことは、イエス様中心です。
後悔することによって、心が病む。
向き直すことによって、解放されて、心が癒される。
悔いることは、毎日できない。
向きを直すことは、いつでもできる。
自分の悪いところに目を留めているから、自分の失敗、自分の弱さ、自分の罪、自分の足りなさに、目が留まる。
向きを直すことは、自分から目を離して、イエスに目を留めることです。
自分の足りなさではなく、イエス様の満ちあふれる、いつでも、どこでも、足りている十字架の恵みと憐れみに目を留めることです。
悔いることは、毎日できない。
向きを直すことは、いつでもできる。
毎日悔いていると心が疲れてしまいます。自分の失敗に目を留めて、落ち込んで、鬱になるかもしれません。
しかし、向きを直すことはいつでもできます!
向き直すことはこの御言葉に基づいています。

ヘブル 12:2

「信仰の創始者、また完成者であるイエスにしっかりと目を留めつつ、走り続けましょう。」

ヨハネ 15:4

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

最後に、聖書から一つの具体例を見てみましょう。
十字架の前に、ペテロは大きな失敗をしました。
イエス様を知っていることを3度も否定しました。
その夜、自分の失敗、罪に気付いたとき、彼は激しく泣き崩れて、本当に後悔しました。
その失敗は余りにも大きくて、その後悔は一晩ではなく、一週間どころか、ずっと続いて重荷となり、彼に のしかかりました。
しかし、数週間後に、イエス様はペテロと2人きりで話すチャンスをもたれました。
その時に、イエス様は何を言われましたか?
まず、ペテロ、お前は、私を愛しているかい?とイエス様は3回同じ質問をします。
3回目に聞かれたとき、ペテロは心を痛めたと聖書には書かれています。
なぜでしょう?
後悔することで、自分の失敗を悲しんでいることで、ペテロは深く傷ついている。
しかし、イエス様はやさしくペテロに接し、彼が本来の生きる目的に目を留めるように、向きを直されようとしています。
「私を愛しているかい?」
つまり、すべては、私との関係に基づいているよ、とイエス様は強調しておられるのです。
また、「私の子羊を養いなさい」、「私の羊を飼いなさい。」
イエス様は、ペテロがもう一度イエス様にある目的、その召しに目を向きを直すことを促しているのです。
結論:
みなさん、クリスチャンの信仰生活の中心は、悲しむこと、悔いること、後悔することではなく、喜びを持って、常にイエス様に目を留めて、必要なら向きを変えることです。
もちろん、悲しむ事もある。一瞬、一晩。
しかし、イエス様の素晴らしさを見ることで、私たちは悔いる事と後悔する事から解放されるのです!
過去はイエス様の十字架によって聖められました!消えています。もはや存在していません。
イエス様ご自身も そのことを忘れて下さっています。
私たちは後ろを向いたまま 立ち止まるのではなく、前を向いて進むのです。
世界やこの世の考え方は、後悔は つきまとうものというのです。
イエス様と出会う前は後悔は山ほどありました。
私たちクリスチャンが未信者に与えられる贈り物は、悔いのない希望です。
実践:
では、実践しましょう。

 

  • 少し時間を取って、イエス様にまだ手放していない、過去の後悔あれば、聖霊様に示していただきましょう。
  • もし何か示してくださったら、一つ一つの後悔を手放して、そのこと、その罪などが、すでに十字架につけられたことを感謝しましょう。
  • そして、そのこと入れ替える赦し、真理、希望、約束、をイエス様からいただきましょう。
  • 主が示してくださる約束とみ言葉を書き留めてください。
  • そして、今から、その後悔の気持ちがもしよみがえって来るなら、イエス様の真理と約束の言葉を感謝して宣言してください。

 

 
 
[English]
 
Repentance Without Regret
The Japanese word for repentance in the Bible is kui-aratameru, with the word kui meaning to regret.
However, I believe the choice of this Japanese translation for the original word reflects the culture and religion of the translators.
The original word does not have any meaning of regret included in it. This brief teaching looks at the real meaning of the original Hebrew and Greek and encourages believers to “turn towards” Christ and his freedom with joy and expectation.
Jef Linscott
ONFIRE JAPAN