既にある、更にいただける、というテーマで続けて話をすすめたいと思います。
私たちクリスチャンは常にこの矛盾と言える現実に生きています。
つまり、既に全てをいただいていますが、同時に、更に神様にいただくこともできます。
不思議です。信仰生活の中で、この二つのポイントは矛盾してるように見えますが、実は矛盾していません。
全てが既に与えられているなら、「もっと、主よ!」と祈る時は、実際に何を祈っているでしょうか?
詩篇23篇を見てみましょう。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」

素晴らしい神様の安息です。
わたしには乏しいことがない。その中にずっと留まってもいいです。
キリストにあって全てが与えられています。
他の御言葉も少し見てみましょう。

「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」エペソ 1:3-4

「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられています。」2ペテロ 1:3

「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、(何も)私たちを引き離すことはできません。」ローマ 8:39

そして、この驚くべき御言葉:

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」コロサイ 2:9-10

キリストには、父なる神、子なる神、御霊の神の満ち満ちた性質が宿っていて、そして、あなた方は、キリストにあって、満ち満ちているのです。
すごい!すごすぎませんか?
この御言葉は本当でしょうか?
キリストにあって私たちの中には、神様の満ち満ちた性質が宿っていると書かれています。
もう一つびっくりする御言葉:

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ローマ 8:11

そして、この有名なイエス様の言葉:

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」ヨハネ 14:12

(時間のある方は、エペソ1章から3章をキリストにあって既にあることは何かと考えながら、読んでみてください。)
この全ては真理です。事実です。
私たちがそう感じないからと言って、その事実が変わるわけではありません。
しかし、信じなかったら、経験することはできないかもしれませんね。
事実かもしれないけど、この豊かな命をいつも感じているではありません。
詩篇23篇の続きがあります。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」

この言葉は詩篇84:6節と似ています。

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。」詩篇 84:6-7

まず、信仰生活は旅です:歩むこと、通ること、進むこと、また泉が湧くこと、全部動いてる、生きていて、起こっていることです。
人生も、神様との関係も、生きていることですね。
この旅のために力、強められること、啓示が与えられること、満たされること、こういうテーマも良く御言葉に出ます。
また、御言葉の大きなテーマは、「毎日」、「日々」、「今日」ですね。
日々の糧。
主の恵みは毎朝新しい。
明日のことを心配するな。
今日こそ、主の安息に入る。
今日御声を聞けば、従う。
今日は集まり、励ましあいましょう。
イスラエルの民にも毎日、一日分のマナが与えられたのと同じように、神様が私たちには、一年分の糧を用意するのではなく、日々、必要の恵みを用意してくださっています。
毎日、新しい経験があります。新しい試練もあります。
そのために、新しい恵みと力があります。
その恵みはどこにありますか?
まあ、神様が天から降らせてくださると言ってもいいかもしれませんが、本当は、もっと正しく言いますと、自分の中に住む聖霊様によって、既に自分お腹の中にあることです。
詩篇84編に、ダビデが預言した「泉のわく」ことについて、イエス様が説明してくださいました:

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ 7:37-38

イエス様を飲む人、そのお腹から生ける水の川が流れ出るようになる。
詩篇23に書いてある、敵の前の宴会のこともあります!

「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしの頭に油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」詩篇 23

これを覚えてください:
もっともっとを与えてくださいと祈る時は、足りないからではなく、まだ経験していないからだけです。
実は、自分の中に、永遠の命に至る聖霊様の泉があります。食べて、満腹になり、またお腹が空いて、また食べます。
私たちの杯も溢れています。ぶどう酒をいただいて、飲んで、満足して、また喉が渇いて、またいただいて飲みます。
神様との生きている関係です。信仰生活の潮の満ち引きのうようなものです。
常にお腹が空いている人は、問題です。栄養失調です。
常に喉が乾いている人は、大変です。脱水症状です。
どちらも、不健康的です。
制限のない食物、ぶどう酒があなたの中にある!

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」コロサイ 1:27

目の前には、宴会があります。生ける水の川があなたの中にある。
自分で奮い立たせることではなく、イエス様にあって、あなたの中に既にあるものに目を止めるのです。
足りない、弱いところからではなく、

「力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れる。」(まで)詩篇 84:6-7

この豊かな乏しいことのない心の平安を経験したことのないクリスチャンは、イエス様に来て、飲みましょう。

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録 22:17

目を自分から離して、イエス様に留め、満ち溢れるその豊かな恵み、愛、平安に留まりましょう。
詩篇 23と 84をもう一度聞きましょう。
この言葉を聞きながら覚えてください。

 

主の宴会、ぶどう酒、満たし、溢れは聖霊様によってすでにあなたの中にあります。