『イエスの生き方に学ぶ』シリーズPart.3 ー コミュニティの中で生きる事を学ぶ

数ヶ月前、3週間ほどですが、男性二人の方が我が家に住み込みで弟子訓練をしました。一対一や、スモールグループの中でとても効果的な弟子訓練ですが、一緒に寝食を共にし、生活をする中で本当の訓練の機会が24時間、四六時中与えられました。

週に一度だけ、2、3時間だけ、互いの人生を共有するぐらいでは気づかないこと、また、気に障らないことも、一緒に住むとなると話は全く違ってきます。

もともと、私たちの家から車で数分のところに最近引っ越してきた、60代のアメリカ系日本人の男性のところに、お二人は滞在することになっていました。ホストのその男性は、日本語はたどたどしく、弟子訓練に参加した一人の男性は英語も理解できますが、もう一人の男性は、ほとんど英語が片言しかわかりません。

まず、意思の疎通に支障をきたしました。伝えたいことがうまく伝わらない、また、誤解されたりすると、途端に敵が過去の古傷を突いてきます。お二人がそんなつもりはなくても、ホストの男性が、日本語がわからないこともあり、自分を拒絶されたかのように受け取ったり、仲間外れにされたかのように誤解したりしました。

また、お風呂の入り方、後片付けのタイミングややり方、食費について、などなど、何気なく取った行動や決断も、自分では当たり前だと思っていたことが、同居する相手にとってもそうである保証は全くありません。小さなことで、一つ一つ、誤解を解き、話し合い、向き合ってを繰り返しました。

そんな中で、遂に、最初の1週間で、ホストの男性が根を上げてしまい、弟子訓練に参加したお二人を追い出してしまいました。その後、私たちの家に訓練の場を移して、お二人との同居生活はさらに続くのですが、弟子として生きることを学ぶために、これほど格好のチャンスはありません。

箴言 27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

鉄と鉄がぶつかり合って、こすれ合って、その角が取れ、表面がツルツルに磨かれていくのと同じように、私たち人間は、互いとの関係、その人間関係の中で、角が取られ、洗練されていくのです。

このお二人と元の家のホストの男性も、その後、うちの主人や、同じく弟子訓練に関わってくれた他の宣教師の男性を踏まえて、話し合い、祈り合い、また、心のうちをシェアしあって、赦し合い、和解して、最後の週にはまた彼の家での同居を再開しました。主に導かれては、それぞれがSOZOのセッションも受け、神様の前に、さらに罪を悔い改めたり、嘘を真理と入れ替えたり、また、裁くのをやめ、許すことを選択し、前進しました。

私たち教会の家族とも、この20年近くをかけて、コミュニティーに生きる中で、主が私たちに家族として、体の一部の器官として歩むことを強く教えてくださっています。

2ペテロ 1:3-4 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

日本語訳だけだと少し分かりづらいのですが、3節の英語訳を直訳してみると、

神の偉大な力は、私たちが神を知ることによって、神のご性質を持って生きる生き方のために必要なすべてのものを、すでに与えてくれた。とあります。

すでにすべて与えられた。完了形です。

4節の直訳は、神のご性質に預かるものとなる、という約束もすでに与えられた! こちらも完了形です。

イエスのように生きる生き方を、私たちがするという約束はすでに与えられており、そうなっていくために、必要なすべてがもうすでに与えられている!と書かれているのです。

コミュニティの中で、人が友によって研がれていく中で、沢山の、神のご性質に相反する古い人の性質が出てくることがあります。恐れ、妬み、さばき、赦さない心、自己憐憫、人と自分を比較する、キレる、何かに依存する、、、言い出したらリストはきりがありません。

でも、その一つ一つは、すでに十字架につけられています。それらに打ち勝って、もっともっとイエス様のような性質を持って生きるために、私たちの中に、御霊が住んでおられます。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。

私たちが、それらの実を結ぶ生き方をすること、それはすでに私たちに与えられた神からの約束です。また、そのために、私たちが変わっていくプロセスに必要なものも、すでにすべて与えられているのです!

では、それをどうやって、自分たちのものとしていくのでしょうか?

その前の節、2節にも書いてあります。また、今読んだ3節にもこのように書いてあります。

神と私たちの主イエスを知ることによって、

私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、

英語では、神についての知識を通してと訳してありますが、ここで使われている「知る」という言葉、また、「知識」という言葉のヘブル語の語源は、yadaという言葉です。ヘブル語の聖書に950回出てくる言葉だそうです。

ただ単に頭に情報としての知識を詰め込む、というのではありません。このyadaという言葉は、

受精する、学ぶ、理解する、体験する、、、

と言ったように訳されています。

アダムはエバを知った、と書いてあるところは、まさに二人が一心同体となって、卵子が受精したことを意味します。そこまでの深さで、二人は互いを知ったのです。ただの知識とは程遠いですね。

つまり、答えはシンプルです。神様のご性質を預かるものになりたければ、イエスのようになりたければ、そのお方ご自身を知ること以外にありません。

皆さんは、主なる方を知っていますか?

彼の素晴らしさを、愛を、平安を体験していますか?

神様の御声を聞き分けることができますか?

今、特に繋がるコミュニティー、また神の家族をお持ちでない方もぜひ、主に求めましょう。

イエス様はその戒めの中で、何度も、なんども、「互いに」と教えられています。

互いに愛し合いなさい。

互いに、罪を告白しあいなさい。

互いに許し合いなさい。

互いを自分より優れたものと思いなさい。

コミュニティーの中で、神の家族とともに生きる時、鉄が鉄を研ぐように、友が友を研ぐ時に、私たちはそのプロセスを喜んで、主を信頼して、歩んで行きましょう。イエスご自身をもっともっと深く知り、主の身丈にまで、栄光から栄光へと変えられて行きたいですね。