Living in Expectation for Blessing – Bill Johnson
同時通訳:相馬伸子

ルカ3:21〜4:27、マタイ14:13〜14。

イエスが水の洗礼を受け、父に「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と天から聖霊が降り、父の声がしました。
そのあとに、イエス様は聖霊によって荒野に導かれました。あなたが今荒野の中にいると思っても、それはあなたが荒野に住み着く為ではありません。主はその先の約束の地があるときだけ、私達を荒野に導きその中で力と勝利を体験させようと知るのです。打ち勝った者であるには、戦うことが欠かせません。

悪魔はイエスに「もしあなたが神の子なら」と「神の子」だと父に言われたばかりのアイデンティティーに戦いを持ってきます。
そして、アダムに園では「神は語ったのか?」と神の言葉に対して疑わせるような戦いを持ってきます。

園で起こった事はこうです。神の言葉、「わたしの言葉は霊であり、いのちである」とありますが、神は全ての権威と力を持っています。悪魔には権威も力もありません。神は「人=私達」に権威を与えました。ですから、私達がもし、敵の声(嘘)を聞いて信じるなら、そこに権威を与えてしまうので、一番の権威である神の声、真理が、全くの劣勢であるはずの嘘が、勝ってしまうのです。

神の言葉は語られた後に、反対され、真理だと発見される必要があるのです。信仰と報いは繋がっていて、神のエコノミーはそのように働きます。イエス様でも、「前に置かれた喜びのゆえに十字架をしのばれた」とあるます。ですから語られた言葉を「信じ、行動する」選択をする事が必要です。

荒野での体験は神があなたの内に備えている物を表面に動かします。神があなたの衝突がある状況に導いたなら、それは人との戦いではなく、悪霊の領域との戦いですが、その理由はあなたに勝利を体験して欲しいからです。

あなたの隣に座っている人、あなたをよく知っている友人が、「神にあってどのような人」で「その人の中にいる神」がどのような方かを判断に失敗することが私達は多くあります。それは「預言者は郷里では歓迎されない」という意味ですが、あなたの必要の為の打ち破りの為の油注ぎは、私達が名前を知らず、本の著者でもないような人の中にある事がよくあります。離れた所からくる講師や、牧師、知らないミニスターの油注ぎを、神の臨在や恵みがあることを見ることは簡単で、それはそれで良いのですが。しかし、あなたの隣にいる人の賜物、恵、油注ぎを認識して、歓迎する時には、わたしは「預言者」を歓迎することになるので、その預言者の益を受けるアクセスを持つことができるのです。

日本語音声:

英語動画(要登録):http://www.bethel.tv/watch/5022/sunday-morning/2017/10/29
英語音声:http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/living-in-expectation-for-blessings