同時通訳:相馬伸子

創世記1:26, 31、ローマ5章、エペソ2:1~10、2コリント6:16

今日は愛と憐みと正義の話です。

最初に創世記1:26でわかるように神は人を神の似姿、神のように創造したことを確認しましょう。男と女とに彼らを創造した、ですから、ここからはっきりわかることは神は「男ではない」ということです。そして、私達が「女性」を圧迫しているなら、神の似姿を造られたものから、隠している事になります。

一つの性別でなく「男性と女性」の両方で神の姿は現され流のです。

神は人に「地」を与えましたが、人がそれを「悪魔」に渡しました。ですから神の子が「人の子」になり、取り返さなければならなかったこと、そしてそれは私達人の子が「神の子」になることができるためでした。

創世記の1:31で「非常に良かった」と神が言われた事を考えてください。そこには「罪の性質」はなかったのです。

罪の性質がなくても、罪を犯すのです、それは「間違った選択」だったのです。

 

神は「自由選択」を愛の為に、人間に与えました。神を愛することを本能でするように人間を想像するなら、それは「愛」ではない。

「愛」は失敗をすることも含めて、自由意志を与えることで、成り立つ。

 

アダムとエバが罪を犯した時から、罪によって死が入り、アダムの種が滅びの性質をもち、遺伝的に全人類に「罪ー死」が伝わりました。

アダムとエバは善と悪の知識を知る実を食べ、倒れて死にませんでしたが、「霊」は死にました。ですから彼らの子供達は、魂と体は生きていても、「霊」はかけている、霊が生きていない状態で生まれてきているのです。

 

しかし、「新生」するときに、私達は「朽ちることのない種」によって生まれるので、新生した信者は、「神の子」であり、「罪の性質」はイエスが十字架で私達の罪のため、私達として死なれたときに、とり去れられ他のです。

そして、イエスを信じて受け入れた時に、「霊が生き」て「聖霊が私達の霊に住むことができる」ようになり、神が私達といつも共にいることになりました。

 

イエスが十字架で死んだ一つの理由はこのように説明することができるでしょう。

私の兄をマークが殺し、裁判官であるキャンディスに私が訴えます。するとキャンディスはマークを見て、「あなたの父は私の友人ですから、あなたは無罪です」というのです。この場合、マークは「憐れみ」を受けたのです。しかし、裁判官が「神」だとすれば、神は「憐れみの御座」に座っていますが、その土台は「義」なので義を行う必要があるのです。 例えば、次にはマークの母親が、私が彼の代わりに死にますと裁判官に言ったとしても、「あなたも指名手配されている罪人」なので彼の代わりに死ぬことはできません、となるのです。 ここからは裁判官は「父なる神」になり、「息子」であるイエスが、私が彼の為に死にましょう、というならば「あなたは罪がないから、死なないので、彼のために死ぬことができる」ということで、イエスの十字架が、「義」を達成し、「憐れみ」を解き放つことができます。

 

日本語動画:https://youtu.be/aMXu27313FU

日本語音声:http://www.onfirejapan.com/mp3/2018-4-24_Grace_Mercy_KV.mp3

英語動画(要登録):http://marketplace.bethel.tv/watch/5155/

英語音声:http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/grace-mercy-righteousness-and-justice