投稿者: Onfire Japan

「人々の父となる」ポール・マンワリング

「人々の父となる」ポール・マンワリング

人々の父となるー父達のする31つの事(ルカ15、イザヤ9)  今日のメッセージは「父のする31の事」です。私は息子2人がいて、昨年は彼らの周り人生のハイライトと私の呼ぶような出来事がありました。一つは長男が学校でレミゼラブルを監督し、それを見る事ができた事。彼は私に彼の情熱や賜物を用いて生きていることを見せてくれました。もう一つは次男のルークとブラジルでサッカーのワールドカップを見る為に3週間一緒に旅行したことです。 私は父を15歳の時に癌でなくしました。ですから、「父と息子」の大人としての関係をつくる事はありませんでした。ですから、〜ができたらよかった、これはできなかったと「自分がもっていない」事柄を見て、考えてしまう事が多くありましたが。でも、今はそのような考え方を止めました。反対に「自分がもっている」事がらに焦点をあてて、感謝をするのです。良く地球は「孤児の星」といいますが、これは「父母」がいない、だから「息子娘」もいないということです。マラキの4:6では「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向ける、それは呪いで地が打たれない為」といっていますが、「父と母」がいれば、この全世界の問題が解決すると私は思っています。 父と言っていますが、今日のメッセージは「父=男性」に限られた事ではなく、女性であっても私はあなたに語っています。神はご自身を現すために男性と女性を造られたのです。父は回復します、無条件で愛します、犠牲を払います、妻を愛する事を模範となり、感情を表現する事、弱さを見せる事を模範します。父は「お気に入り」を育てます、安全と自由と導きをあたえます。道徳的な考えを持つために家族で討論する事を教えます。

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「約束の人々」ダニー・シルク

「約束の人々」ダニー・シルク

ヤコブ1:2〜6、出エジプト23:28〜30  神はアブラハムに「空の星の数以上、海の砂の数以上の子孫をあなたはもつ」と約束しました。しかし、それはまだ一人も跡継ぎのいない男性には非常に大きい話しだったでしょう。数千年前に出来事、約束ですが、今現在もこの約束は成就し続けていますね。私達もキリストにあって、アブラハムの子孫であり、またアブラハムは私達にとって信仰の父です。 天の父は良い父であり、私達といつも共にいて、導き、助け、訓練してくれますが父のご人格を誤解していると人生の試練はまるで罰の様に見えるかもしれません。試練の中でもイエスは私達と共に立たれています。良い方です。試練をどのように取り扱うかで、成熟できるのです。全ての人は年を取りますが、全ての人が成熟できるとは限りません。主は私達に約束を与えてくれています。 イスラエルの民が約束の土地を見た時に、そこには人々が住んでいました。しかし神はクマバチを送り、少しづつ敵をご自身が追い払われたのです。それはまるで訓練、準備の様で一年では起こらなかったのです。私達の願いとそれを行う能力が一致するには訓練や成長が必要です。 神の約束(結婚、繁栄、健康)などに戦いが挑まれています。間違った統計や、情報をとうして敵は攻撃して、希望を奪い、信仰をなくさせようとします。しかし 私達はその戦い勝利者イエスが共に人生を歩んでくれる事を覚えながら歩くのです。

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「隠れた所への召し」べニング・レビスチャー

「隠れた所への召し」べニング・レビスチャー

「隠れた所への召し」べニング レビスチャー師 第2列王記9; マタイ6、マタイ22  私達はジーザスカルチャーという働きの為にレディングからサクラメントに移りました。しかし、以前はベテル教会のユースパスターでした。今日は「隠れた所で祈る事の召し」について話します。 私達は物語の一部だけでなく全体を知る必要があります。神の行っている物語り、神の物語もそうです。神が事柄を起こそうとしてる時に、必要としているのは優れた道具や組織ではなく神の召しに対して従う人達です、なぜなら、神の油注ぎは組織や建物に注がれる物ではなく人の上に注がれるからです。 神は勝敗を変える事のできる人々を探し、召し出し、油注ぎ送り出しています。マタイの6章では「隠れた所で祈りなさい」と描いてありますが、2列王記9章で預言者エリシャが若者を呼び、軍隊の長であったエフーに「奥の間に連れて行って油注げ」といったように、奥の間に連れて行かれる事、それは、「自分自身を周りの事と離れさせる」事だと思います。 「召される人は多いが少数の人が選ばれる」事があります。全ての人には召しがありますが、召された後、それに対して「はい」といって手を挙げ、従う人、隠れた部屋に行って祈り、周りと分かたれる事をした人が選ばれるのです。 隠された所での祈りで、神があなたに語り、油注ぎ、あなたはそこから送りだされるのです。

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「偽預言者とは何か?」クリス・バロトン

「偽預言者とは何か?」クリス・バロトン

使徒16:16〜19 1ヨハネ4章 イエスは「偽預言者があなたがたの内にくるか注意しなさい」とわれました。ある教会グループは終末には偽預言者でる、といって預言者をみな偽であると説明します。 そうではなく、終末の注ぎのしるしは預言です、ペンテコステのように。預言は力があります、それは神が創造をしたように「語る事で神と共同創造」をするからです。 それゆえに悪魔は偽預言者を送り、預言が妨げられる様な戦略をもつのです。預言は力があり、神が言葉で創造した様に私たちも預言によってあるものを無いもののように、無いものをあるもののように語るのです。 使徒16章の預言の霊につかれた女性は「正確な言葉」を語りましたが、主の霊ではなく、悪霊に繋がっていた。預言者ピリポやアガパスは 主の霊で預言したけど、完全に正しい預言ではなかった。ミニストリーは「召し、賜物、油注ぎ」で行われ、召しと賜物は変る事はありません。しかし、預言の賜物、預言者が神から離れた時に受ける油注ぎは何でしょうか?悪魔です。ですから、間違った霊から聞いてしまうのです。 偽預言者を判断する時に、2つのポイントがあります。1ヨハネ6章で見れますが、「愛の無い事」と「人からの矯正を受け入れず、単独、独立」している事です。

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「一新された思い」ビル・ジョンソン

「一新された思い」ビル・ジョンソン

「心・思いの一新」の事について長らく話しています。「一新された思い」を持つ時に、信者は神の視野,考え方を持つのです。イエスの公生涯の最初に「悔い改めなさい、神の御国は手の届く所にある」と言われましたが、その「悔い改める」とは「考え方を変える」ということです。 「一新された思い」はあなたの内側にある事、平和や勝利を外側の状況に対して広げて行きます。私達の内側にあるもの、神の御国が私達の外側の現実に影響を与えるのです。 イエスは船の中で嵐が来た時に寝ていました。そして嵐と湖を静めました。同じ様に私達は自分たちが寝ている事ができる様に平和をもっている所にしか私達の中の平和を解き放つ事はできないのです。 弟子達はイエスに「あなた達が群衆に食べ物をあげなさい」と言われました。イエスが、語ったなら、それをするための能力も一緒に与えられます。 変貌山ではイエスが「別の人」の様に見え、衣が「光り輝き」ました。超自然的です。一新された思いが、霊の領域を見て、考えていたのだと思います。イエスを見ていたので、3人の弟子にはこれはイエスだと分かりました。しかし、それのイエスは彼らがその時まで知っていたイエスではなかったのです。神の究極的な目的はあなたが改心する事ではなく、「主の満ち満ちた所まで、満たす」ことです。

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「不可能を生み出す事」ビル・ジョンソン

「不可能を生み出す事」ビル・ジョンソン

創世記18:1〜16、ヘブル11:11  「神の約束」を信じる事、その内を歩いて行く事は私やこの教会が熱心に実践している事です。その事で 今日は皆さんに「約束」によって妊娠してもらいたいのです。神は約束、言葉によって信者の中に種を与え、信者はそれを生みだします。「奇跡」という言葉は、子供が出産される事に対して最も使用される言葉ではないでしょうか? サラは主が現れ、「来年の今頃、男子がいる」と言われ、笑い、嘘をつきました。しかし、神は異なる物語をヘブル書に書いているのです。11章11節には「〜彼女は約束して下さった方を真実と考えたからです」とあるように これはサラの人生の「福音」の物語ですね。彼女の様に私達も皆、人生のなかで「福音」の物語を持っていますが、それはいつも神によって「上書きされた」ものです。サラは、ベブル書に書かれているようには、自分の人生を思ってはいないでしょうが、神がどのように考えるかが働き、影響するのです。サラは「〜考えたからです」とありますが、彼女のすべき事は「考える、思いめぐらせる」事でした。 神の子イエスが、マリアを通して生み出されたように、あなたの人生を通してで無ければ現れないイエスの姿があります。「主は国々の望み」という聖書箇所がありますが、この世はイエスのような王様を待ち望んでいます、そしてあなたを通して現れたイエスによって触れられる人々がいるのです。

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「預言者はどのように慰め、守るのか」クリス・バロトン

「預言者はどのように慰め、守るのか」クリス・バロトン

1コリ14:3、2列王記18、19章、イザヤ2章 私達が預言をする時にに中心にいつもなる事は「励まし、建て上げ、慰める」ことです。しかし、私がフェイスブックなどに「励ます・良い事を言う」事を主の名によってすると、「あなたは矯正をせず、叱っていない」と行ってくる人達がいますが、預言者は励まし、建て上げ、慰める人なのです。私の今書いている本「預言者の学校」の一部で、「預言者は国を守り、慰める」と下書きの後に書き進めるか葛藤していた時に主は「預言者は国を守り、慰めるのである、書き進めよ」と言われたので、そのようにしました。多くの預言者でそれを遂行した者達は旧約聖書から見る事ができます。イザヤ2章については殆どの神学者達は千年王国の後であると同意していますが私は、そうではありません。預言者は国々が敵の力、悪魔によって互いが戦う様に支配される時に預言してその戦をやめさせる事ができるのです。国に対して敵対して預言するのではなく、その後ろにいる悪霊の力に対してです。ヒゼキヤ王がイザヤに人を送り、預言してもらった時、主の御使いの働きが関与するような神ご自身の勝利を見ています。

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「奴隷、しもべ、友」エリック・ジョンソン

「奴隷、しもべ、友」エリック・ジョンソン

箴言8:22〜31、使徒2:17〜18、ゼカリヤ1:18〜2:1 イザヤ61:3.4、ヨハネ15:13.14 箴言、使徒の聖書箇所でみえるように、神は「信者、教会」に神の霊を注ぐのではなく、人類全体、全ての人を愛し、心を向けています。そして、イザヤ61:4で「壊れた町の再建、復興」とあるように、私達の地上での神からの使命は「町」に影響を与える事です。神は「町」に心をもっているのは皆さん知っていると思います。 それはどのようにして行われているのでしょうか?あなたの人生を豊かに、生き生きとその町で生きることです、町に関心を持ち、繋がり、人生を与えることです。それはまるで普通の事ですが、それを神の御国が拡大することを信じて行うのです。 ゼカリヤ書から私は「職人」たちが悪の要塞(角)を恐れさせたという事を見てわくわくしています。彼らは祈りや、霊的戦いによって悪の要塞を恐れさせたとはありません。職人というのは「知恵と創造性があり、高品質な働きをする事ができる人」と言う事ができると思いますが。あなたの得意な事は何ですが?やってみて下さい。あなたはそれをとおして町にある「悪の要塞」を恐れさせる事ができるのです。 私は人が主を受け入れたら、まず奴隷として働き、その後しもべに昇格して、その後、80歳くらいでやっと主の友になるれるとは思っていません。進級するようなランクではありません。友とは深い意味があり、真の友であるなら、奴隷や、しもべであること無しには真の友はないでしょう。 現在の使徒的な流れの中で、私は神はキリストの体の友となりたい、キリストの体を友としていると信じます。使徒や使徒的な働きは「天の設計図」を地にもたらすのですが、これは「友」として主人の心を知る事なのです。奴隷やしもべは「命令された事だけをします」と生きているので、多くの人はこの新しい季節、「友」として与えられた計画に私達が自分たちの得意な事、できる事をして行く時に、天がその計画に協力してくれる事に難しさを感じるのですが、私が決断に対して強調をしているのはその理由なのです。 あなたは町、市に対して、友になりますか?

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「よみがえり」ビル・ジョンソン

「よみがえり」ビル・ジョンソン

マタイ28章、ヨハネ11章 私達は御言葉を教えますが、もちろん、デモンストレーション実践ます。今日は主が「よみがえり」の命の力を実践されたいと願っていると感じます。 もし、私達の人生の中に「希望」を持つ事ができない所があるなら、その部分は嘘に影響されているのです。聖書的な「希望」はただ、願いがいつかかなったらいいな、できたらいいな〜という意味では全くありません。聖書的な意味の希望は「神のご人格による、良い事が自分の人生に起こる事を信じて楽しみに待つ」ような事です。それは、クリスマスの朝に子供達がツリーの下にある自分のプレゼントをあける前の喜びで一杯の気持ちのようだと例える事ができます。 ある方は希望、夢、仕事、結婚、関係、家族などの状況に、絶望があるかもしれません、しかし主が今日打ち破り、よみがえりの力を解き放ちます。イエスは「私がよみがえりである」だといわれました。主のよみがえりは私のもの、主のよみがえりはあなたのものなのです。 多くのとき「奇跡やしるしを見なければあなたは信じない」というイエスの言葉は、ネガティブなイメージがありますが、でも、もしイエスが私達の人生の事を知っていたら、どうでしょうか? 「あなたがたは奇跡を見ないと信じないね、それならここに奇跡がある、これで信じて下さい」というようにはかんがえられないですか? 奇跡の目的は私達が神を見て、信じることです。私達を神に導くことです。

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「恵みによって報いる」ビル・ジョンソン

「恵みによって報いる」ビル・ジョンソン

2歴代32:23〜26、2サムエル24:24  恵みは主の臨在が私達に力を与えて、不可能が可能になる事あり、それは私達信者がイエスが生きた様に生きる、弟子となって生きる為である。 現在ある教えは「恵みがあるから、罪を犯しても大丈夫」といって、恵みの意味を誤用しています。ですから、この恵みの話しをします。2歴代誌では「ヒゼキヤは自分に与えられた恵みに報いようとせず」とあります。恵みだけでなく、神の国の法則では、好意やプロモーションは、自分の益の為だけではなく、かえって周りに益を与える為です。ソロモンも彼に与えられた神からの好意は神がイスラエルの国を愛したからです。神からの好意、恵みを受けている時に、私達に感謝や賛美ではなく、「神だから親切であたりまえ」と思い、捧げる事に躊躇したり、反抗的になる時にそれは高慢さの中にあるのです。 恵みを受けたら、私達は「捧げる事」をします、それは「支払い」では全くありませんが、豊かに与える事の中に生きる為、私達は犠牲を払い捧げます。 また、「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」の目的は、私達が主の弟子となるライフスタイルを生きるためです。イエスの十字架の死、よみがえり、流した血潮で贖いは完全に達成されました。ですから、私たちが「十字架を負って」行く事は贖いの働きでなく、「主に従う、イエスの弟子となる」為のライフスタイルを整えるためです。

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