投稿者: Onfire Japan

「きよく生きる事の素晴らしさ」ビル・ジョンソン

「きよく生きる事の素晴らしさ」ビル・ジョンソン

エペソ5:25〜27。「キリストの血潮」は土台であり、私達は決してキリストの血潮から卒業する事はありません。キリストの血潮は全ての罪から清めます。では「御言葉」の水の洗いとはなんでしょうか?「汚れ」から清めます、御言葉は「生ける声」から来るものです。清めるとは「聖別」するとゆう意味で「ある所から取り出して」「ある人の為に分けられる」と言う事です。誰のために取り分けられたのか? その光を見る事ができる時に私はその方のように変えられます。日常生活、人生の中で「汚れを受ける」事は避けられません、ですから御言葉によって洗われる事は必須です。「汚れたかんじがする」体験をした時に罪の赦し、清めを願っても、あなたが罪を犯した訳ではないので、血潮によっての取り扱いではなく、「御言葉」の水による洗いをするのです。私は汚れたような経験をしたら主の所に行き、御言葉を読み、神が語るまで読み続けます。ですから、「清く、きれいな状態をもって生きる事を学び立て上げる事」は非常に重要です。

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「文化を形作る祈り」ビル・ジョンソン

「文化を形作る祈り」ビル・ジョンソン

1テモテ2:1〜4は「原因と結果」のような聖書箇所です。「王やリーダー達の為に願い、祈り、執りなし、感謝を捧げる」なら「敬虔と威厳をもち、平和な一生を過ごせるため」そして「すべての人が救われ、真理をしる」為です。王やリーダーは「決断をする人達」ですが、私達が祈らないなら、決断の為に用いられる情報の出所は多くが悪霊の影響を受けている所ですが、私達が祈りによって状況/雰囲気を変えて、執りなしのレベルの祈りによって彼らが「神の視野、神の世界観」を持る情報を彼らが受けとる事ができます。 また祈る時に、人に向かって説教する様に祈るではなく、人のために、その人が「神の価値観」を見る事ができるように祈り、感謝を捧げます。また、リーダーや王が「全ての人が救われ、真理を知り」に入るのです。祈りによって長期的に市や町の土台を掘って、神の影響によってその場所の文化が形作られるような祈りをする事に関しては私達はまだまた足りないです。今まで行って来た「クルセード、路傍伝道」なども良い事ですが、それらのものでは「文化が形作られる」ことはありません。

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「ジャイアントキラーの調査」エリック・ジョンソン

「ジャイアントキラーの調査」エリック・ジョンソン

1サムエル18章 ダビデはゴリアテを殺して、サウル王に仕える者となったが、多くの試練をダビデはくぐり抜けた。 ダビデが戦いで成功を収め、人々に愛されたので、サウル王は嫉妬して、ダビデを殺そうとしてしたが、ダビデは決してサウロ王に手を下さなかった、それは「主に油そそがれた者」が、どのような状況にいても「守り、覆う」と言う事を決めていたからだ。私達も一度は主に油注がれ、偉大に用いられた人が罪に落ちたり、問題を起こしている事を見たり聞いたりしているでしょう、しかし私達はそのような人達を裁きや、批判的な霊を持って応答する事をする資格はありません。私達に与えられているのは、かえって恵みをもって覆い、回復を助ける事でしょう。 ダビデはサウロの王宮から逃走した時、ゴリアテの出身の村に行った、それは「敵の陣地」であるが、ダビデはそこで生き延びた、それだけでなく、400人の勇士達がダビデの逃げていた洞穴にやって来て「あなたが私達のリーダーです」と言ってきた、この400人は社会的にはみ出した者達だったが、後に非常に優れた軍隊となる。 あなたが今いる所が「敵の陣地」だと感じても、そこには立て上げられる事を待っている軍隊がいるし、敵の陣地であなたが生き延びるなら、どこに次にいってもうまくできるでしょう。 神の好意と人の好意、2つは異なるもの。私達は神の好意に目を向けるべき、時に神の好意は私達を「王宮に送り、そこから追い出す」事があるが心配せずに神を求める事。

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「警告から約束へ」ビル・ジョンソン

「警告から約束へ」ビル・ジョンソン

ユダ書1章:ユダ書のような聖書箇所は「しっかりと堅い肉」のような御言葉で、ミルクのような誰もが受け入れやすいような心地よい御言葉とは違う。しかし、「しっかりとした肉の御言葉」は私達への矯正というより、私達が清められるためのもの。神が罪を名を挙げ、リストアップしているが、殺人、姦淫、文句、不平を言うもの、へつらうもの(ごますり)などありますが、なぜ、「不平を言うもの、ごまするもの」がリストにあるのか?それは言葉には非常に大きな力があるからです。また、コラの子というのは 、真理を誤用したため、主の裁きにより、大地が口を開きこの一族が飲み込まれました。 なぜでしょうか?それは反抗的な心で真理を誤って用いたのです。素晴らしい約束は神が私達を「つまずかないように守る事ができ、傷のないものとして、栄光の神の前に立たせる事ができる」です。そしてその約束が成就される為にも神は私達の側の仕事を先に語っています、それは「神の愛のうちに自分自身を保ち」という事です。 神と人の共同作業であるのです。

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「これこそ恵みだ」ビル・ジョンソン

「これこそ恵みだ」ビル・ジョンソン

出エジ14:13、コロサイ1 私達の命は「声」の中にあり、律法ではないです。それは、関係であり、その時々によって神様は変化をもたらします。神ご自身の約束を破棄や違反されるのではなく、しかし私達の考えに過激な変化をもたらす事をされます。それは私達が「従う事」を学ぶためです。何かを一つできる様になったと思ったら、それを主は違うやり方で しなさいと私達に求められるようです。関係の為です。恵みは「私達に力を与え、できない事をできる様にする主ご自身の臨在」ですが、最近人々は自分自身の考えで聖書の 恵みの理解を定義しているようですが、反対に私達は聖書によって私達の定義を形作っていただくべきです。

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「飢え乾くギフト」ビル・ジョンソン

「飢え乾くギフト」ビル・ジョンソン

申命記8章3節 詩篇107篇4〜9 「満たされている」事と「飢え乾く」事を同時に得ている事自然界では食べるなら飢え乾く事はないれど、神の国では「食べる事で飢え乾きが増し加えらえる」 「飢え乾き」を感じる事は「霊的に健全」である事のサインである「飢え乾き」を神の視野から見るとそれは「神により頼むこと」を起こすものであり、そこに神は価値を持つ。また、飢え乾きは夢を見るため、現状よりもっと良いものを願うために必要な事であり、飢え乾きによって人は現状や便利さから踏み出して、打ち破りを得る事ができる。神が「豊かさ」に反対するのではない、しかし「豊かになること」で神に信頼や信仰を持てなくなる事を喜んでいない。どれだけのものをもったら、「多すぎる」なのか?神に信頼する事をしなくなったら「多すぎる」になる。

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「鮮烈とは飼いならされない勇敢さである」ダニー・シルク

「鮮烈とは飼いならされない勇敢さである」ダニー・シルク

マタイ 25章 今日は「鮮烈」と言う事について話します。これは「飼いならす事ができない、野生の」と言う意味と「勇敢さ」の意味二つがあります。神が私達に与えてくれた「使命や最終到着地」に到達する為には、色々な戦いや痛みに直面し、その壁を打ち破って、壁の反対側に行く事です。あなたはその為に召されています。 「鮮烈さの中」に生きる時に、リスクを負う事や、痛みがあっても、「鮮烈な情熱」を持っている時に「使命や神からの目的」進む為に、あわれみと愛を持ち続ける事ができます。イエスが言われた「牢獄にいる者を訪ね、病いの者を訪なさい」を実践する時に、私は無力感をかんじます、祈っても、その人が癒されない時に私は無力を感じます。しかし、本当のあわれみとは鮮烈さと愛が合わさったもの。王国のあわれみです。諦める事や、恐れによって止まる事ではないのです。動機は燃える様な愛です。 力強い者は責任がありますが、その責任を受け入れる事によって、「助ける事ができる」「与える事ができる」者になり、被害者マインドセットから解放される。

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「答えが遅れる時に信仰を」ビル・ジョンソン

「答えが遅れる時に信仰を」ビル・ジョンソン

ヨハネ11:6、16、40  ラザロが病気だと知知った時、イエスはすぐにラザロの所に行かず、4日目に甦らせた。「あなた方の為に、あなた方が信じる為には私がその場に居合わせなかった事を喜んでいます」と言われたのは「甦り」を弟子達が証しする為であった。より大きな信仰、奇跡の為であった。「答えが遅れる時」は「素早い答え」より偉大な栄光、目的がある。答えを待つ時「持続する信仰」が作られ、その間に人格や考えが形成されます。主が私達の中に求めているのは「愛」と「信仰」です。 信仰がどれくらいあるのかより、「主の所に行く」信仰を持っている事が重要である。信仰で葛藤する私達を主は罰せず、逆に信仰が成長するために信仰の旅、大きな信仰が必要な状況の中に導かれる。「あなたが、信じるならあなたは神の栄光を見る」である。マルタの様に、正しい神学を知っていても、その故に私達が「今起こる奇跡」を願わない事もある。奇跡を信じていても、主の奇跡のドアには入る事は準備できていなかった。

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「神のムーブメントを保つ」ビル・ジョンソン

「神のムーブメントを保つ」ビル・ジョンソン

ヘブル13:15、16節 神は「祭壇の上の捧げもの」の上に降りて来る。捧げものとは何か「くちびるの果実」と「善を行う事」と「交わり」がありますが、これを絶えず神に捧げる事は「神によろこばれるいけにえ」であり、私達は祭司として炎を祭壇の上に保つ為、祭壇に何かを捧げ続ける事ができます。 「ささげもの」は「犠牲を払う」事であり、選択であり、契約を神と結ぶ事である。時に、「自分の感情」では賛美したくない時にも、私は自分をしたがわせて神の言葉を宣言し、預言を読み、踊り、神を誉めたたえ、打ち破りを得ました。賛美は「捧げもの」なので「犠牲を払う」領域に入る。神の炎が下る為に自分を生きた捧げものとして生きるライフスタイル。

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「全ての領域での癒し」クリス・バロトン

「全ての領域での癒し」クリス・バロトン

ルカ17:12、3ヨハネ1:2 イエスは言葉だけで、病いを癒す事ができた。しかし、その他にも色々な方法で癒した。例えば、ツァラトを病む人に触れる事、これは感情的な癒しをもたらし(たましい)、また「祭司に見せなさい」といって彼らの霊的なルーツを癒した。 3ヨハネでは「たましいに幸いを得ている様に」すべての面で幸いであり、健康であれと言っている。それは「たましい」が私達をすべての幸いー繁栄、祝福に霊と体を導くための器官として創られている事であるが、「たましい/心」は霊的でないと宗教的な考えによって私達教会は長い事「霊」が成長することは学んで来たが「たましい/心/感情」を適切に取り扱う事をして来なかった。それで私達は「たましいの必要」、例えば健全な愛情表現や人々からの励ましなど教会の中で受け取る事ができずに、その他の不健康な所で受け取ろうとしている。霊とたましいと心、全ての領域で欠けた所が無い、それは「ホールネス/完全である」事であり、ソーゾー(sozo)である。

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