2コリント9:6〜11、ピリピ4;10〜19、ホセア10:12 
ベテル教会は、しばしば「祝福を受けたい人の集まり」と嘲笑されましたが、私の態度は「それのどこに問題があるのですが?」というものです。なぜならば、私達はもらった物を全て与えるからです。私達が祝福を受けることはそれを与える為です。2コリ9章、ピリピ4章これらは2つとも「祝福と繁栄」に関する約束であり、表面的には「個人的な繁栄」の事が書かれています。神は私達を繁栄させ、祝福する事を願っています。2コリ6章には、その為に「全て」に対して「常に」「あらゆる」恵みを溢れるばかりに与えます。神は豊かに与える方です。無駄はしませんが、豪華に豊かに与えるのが神様の本質です。10節にあるように「食べるパン」は私達を保ち、「蒔く種」は私達が投資する、与える為です。義の実とは、私達がキリストの内に置かれ、神の義とされましたが、その義なる行いをする事によって「義の実」は現れます。
ピリピ4章では、パウロはピリピの人々から支えられて、テサロニケで奉仕していたのがわかりますが、この「支え、支援」は「神が喜んで受けてくださる供物」であり、自然の領域では「物や経済をパウロに与える」ですが、神の御国の世界観では「神が喜んで受ける捧げ物」になり、2コリにあるように「惜しみなく与え、神への感謝になる」となるのです。コリントでは興味深い事にパウロはテントメーカーとして市場で働きました、リバイバルが集会の講壇から起こっていたのではなく、市場で人にキリストを現す事から始まっていたからです。
私達の祝福と宣教には繋がりがあります。「豊かに与える事」は私達の打ち破りに関係しているのです。私は時に「数年葛藤しているのです」といってくる人に「豊かに与えるべきかもしれないですね」と励まします。また、信者が受ける事ができる、神からの満たしの資源は、私達の信仰や、仕事の状況、住居地などに関係せず、それらは「キリストイエスにあるご自身の栄光の富」から来るのです。

宣教と祝福 Missions and Blessings – Bill Johnson