マタイ19;20、20:1〜16 ヤコブ3:16、17 
私達がイエス様と共にいる時に、心は主からの夢や、使命、偉大な事をしたい願いを受け、それらが沸き立ってきます。弟子達は漁師でしたが、ある日急に世界を変える者になる!となったのではなく、イエス様と過ごした時間のなかで変化しました。ヨハネとヤコブは炎を天から落として、自分達を通らせない村を滅ぼしましょうかと言って、神と共にあり、偉大な事が出来る、夢見る事を望む事という正しい根から、間違った実をならせてしまいました。もちろんイエス様はその枝を刈り込みました。神の願い、使命を行う願い、それは偉大な事を達成する事を夢見る事であり、正しい根が生えていましたが、私達は間違った実をならせる事があるのです。「刈り込み」はイエス様の栄光を良く現せるようにとの神様からの「訓練」であり、「罰」ではありません。正式な子供としての特権です。
「後の者が先になり、先の者が後になる」という箇所がありますが、以前私はこの箇所の事は、「神様はへりくだった者を高く上げ、昇給させ、自分中心で、自力で昇給しようと思うなら神はその人をへりくだらせる」という事だと思っていましたが、でもそれだけではない事がわかりました。神様が私達に夢や、願いをくれます。私達は祈り、求めていく過程で整えられ、試みられ、祈った事の祝福が実際に私達を破壊してしまわないように主の憐れみによって準備されるのです。妬みや嫉みは、私達が祈って願っている神様の領域の事柄、祝福から私達を遠ざけ、悪霊は働くドアを開きます。時に疑いや、糾弾を「見極める賜物」と言わないでください。他の人があなたが祈り願い、断食していた祈りの答えを受け取り、昇給したら 自分自信の勝利のように喜んでください。あなたが共に喜ぶ事、自分が願っている事を受けた人を祝福する事があなたが答えを受け取る事が出来るにふさわしい者にします。
ですから、後の者が先になり、私達の心に普段は隠れている「妬み」「嫉み」「怒り」がでくる事は、神の憐れみによる訓練ですので、それたは告白し、悔い改め、取り除きます。

後のものが先になる The Last Will Be First – Bill Johnson