ルカ9:27〜31、ヨハネ3;13
黙示録4:1で主が「ここにあがって来なさい」と言われた事をヨハネが書き記しているけれどもこれは私達に常に開かれている招待状だと感じます。天に上げられて、栄光の中で、主と出会う事を体験することは私達クリスチャンの普通の生活です。
イエスは「人の子」として地上に体を持って住みながら、天の栄光に上げら神と出会っていた。啓示は「覆いを取る」という意味ですが、主が私達に啓示を下さった時に、それはまだ、油注ぎを受け取った訳ではなく、その見える様になった真理により私達は油注ぎを求めて、その啓示された真理を行う事、イエスを確かに明らかにする責任と特権があるのです。特に西洋の教会では定義や教えを受け取って満足する傾向があり、しかし本来は油注ぎを求めて御国を現していく事を実践するべきなのです。癒しを信じていても、実践できる教会が少ないので多くのキリストの体は癒しを信じなくなったのです。
「変貌山」での出来事は、イエスの顔が「他の人」になり、服が「稲光のように輝いた」とあります。それは地上の人が「栄光の領域」に住む事の影響であり、私達もこのような栄光を教会としてますます経験するのです。「栄光」によって最大限に私達の考え、視野、感じ方が変化させられ、その事で回りに影響を与える事です。
聖霊は「私達をイエスの様にする」事を一つの目的にしていますが、その為にも聖霊はイエスが十字架で死なれ、甦り、上げられて、栄光をお受けになるまで人に与えられなかったのです。そして、イエスが栄光を受けられた後に注がれた聖霊は私達を「上げられたイエス」黙示録1章でヨハネが記しているイエスの様に変えているのです。十字架に向かっているイエスではなく、上げられたイエスです。
ある人は「栄光」を追い求める事が、それほど大事ではない事柄を中心的な事柄にしてしまうと心配していますが、私が思う事は、どれだけ「栄光」が大事であるかを私達が発見しているかということです。

栄光の領域に住む Becoming Glorious – Bill Johnson