ピリピ4:10〜13、コロサイ1:15〜17 
パウロの書簡の中心には、いつでも「喜ぶ事」が書かれていると私は思います。。私が彼の人生を思って、それを考えると、非常に心に響きます。なぜなら、彼は福音を語ったが故に、精神的、肉体的にひどい迫害を受け、拒絶され人だからです。そしてピリピ書でも、貧しい中でも、富んだ中でも「満ち足りる事を学びました」と言っています。驚きます。彼はなぜ、迫害や困窮の中でも「満ち足りる」事が出来たのでしょうか?
もし、「満ち足りる」事が目に見える状況や、物理的、霊的な事からの結果としてもつものであるならば、その人の満ち足りる心は1週間ごとに上がったり、下がったりするジェットコースターのようでしょう。しかし、私はパウロの満ち足りる心は「イエスキリストの故に」という事から来ていたと思います。ですから、「いつも喜んでいなさい」という事も、強制や意志の力によって喜びぶことではなく、イエスキリストの故に喜び、勝利していたのだと思います。コロサイの1:15〜17は、非常に深く、まるで真理が凝縮されているようですが、パウロはこの事を理解していました。結局は、「イエスキリストの故」なのです。
賛美は王が来られる為の道をスムーズにします。私の娘達が小さかった時に私が帰宅する車をみて、娘達が「パパが帰ってきた!!」とソファーから飛び上がって、私を呼ぶ声は私が部屋に入る事を早めました。感謝の心を働かせてください、それはイエス様をあるべき人生の中心に戻すものです。

満ち足りる心を見つける Finding Contentment – Eric Johnson