ヨハネ 19章 31節~36、37節の預言の言葉の独特な所は、預言者は当時の人々の状況に語られているにも関わらず、究極的にはそれが「救い主」の為の預言であることでしょう。
過去数十年、数年の間で尋常でない奇跡や癒しが起こる時に、気がついたのですが、それは私達が「~の事があるかもしれない、~は可能である」という神の全能さに 寄りかかり、そのなかを歩んでいく時に 事柄、打ち破りをもたらす事があるのです。「奇跡の領域」は神がすべてをされる境域であり、私達にはできない領域ですから、ある意味簡単だと言えるでしょう。でも、これは「トラウマを癒す」かも知れない、という小さな声、印象を受けた時にそれに寄りかかり、実践する時にそれが起こっている事を見ています。偉大な信仰は「傍観者」であっては持つ事は難しいでしょう、しかし「期待し、準備し、参加している」所には偉大な信仰があるでしょう。
34節 血と水がでてきましたが、血によって罪の赦しには解決がありましたが、それであっても水、御言葉の水により私達は洗われます。自分がわくわくする事は、私達の心が、関係が神が予定している時間を変更させてしまう事も可能であるという事です。マリヤを見た時、イエスは「自分の愛するものがいるから予定をちょっと変えて、彼女と話そう」とおもったのではないのでしょうか。マグダラのマリヤは新しい始まりにたちました、それはイエスが彼女の名前を呼んだときです。

甦り、新しい日 Resurrection: the New Day – Bill Johnson