目的のある繁栄シリーズの2回目です。
マラキ3:8〜11、ルカ16:17、マタイ22:17、創世記14:18〜20
マラキ3:8〜11
十分の1を捧げるということは律法から来たと思っている方もいますが、そうではなくこれはアブラハムから始まりました。創世記14章にありますが、アブラハムはメルキセデクにすべての収入の十分の一を捧げました。それは神を敬う為でした。モーセが400年後に律法に書き入れ、批准されましたが、これは信仰の父であるアブラハムによって始められました。十分の一を捧げる事をリックジョイナーが神の造った地球に住み、空気を吸っているからこれは家賃のようだといっていますが、私はそのアプローチを好みます。
マタイ22でイエスは「神の物は神に返しなさい」といったのは、私達の所有物の中に私達の物でないものがあるので、それは「返す」または「支払う」ものであり、「与える」事はできないという意味です。マラキ3章で分かる様に十分の一を与えない事で「いなご」が入ってくる権利を敵に与えてしまい、それは神がのろうのではなく神の言葉に不従順になる事で、神の守り、祝福から自分で出て行く事、その結果は神の御心ではないのです。ですから、十分の一献金をする人も、しない人も、それはその人の物にはならないのです。主が私達を訓練する時に、使わない物を持たせて、使わない事で、管理する事を訓練されます。自分の物でない物をよく取り扱えるなら、自分のものになる物を良く取り扱える事とされるのです。
他の聖書箇所では「わたしを試してみよ」という神の言葉を見つける事はありません。ここだけです。開いた天が経済のことだけでなく、それは主の臨在そのものであり、経済、健康などの祝福が来るのです。マラキは自然界の従順(十分の一献金)を霊的な打ち破りに結びつけています。主は私達を召し、それぞれの置かれた所で、文化や価値観に影響を与え、歴史の流れを作る為にもちいられますが、経済をどのように取り扱うのかを私達が学ばなければ、それはする事ができません。繁栄とは、神の御国とその義を追い求めた時の副産物です。そして主は悲しみをもたらしません。しかし、もし繁栄を追い求めた結果が繁栄なら、そこには犠牲を伴います。私達の土台はイエスの主権です、それ以外の人道主義、宗教のシステムを混ぜて建てるものならば、耐え忍ぶ事ができず、違う場所や文化に適応する事もできないでしょう。

目的のある繁栄:まことの豊かさ Prosperity With a Purpose: True Riches – Bill Johnson