詩篇67:主は「聖と世俗」、「自然と超自然」にひかれてしまった、分ける為の線を消していると思います。
主はイスラエルの民を荒野で訓練しました、それは奇跡によって彼らが毎日生かされ、主の御手によっての「超自然、奇跡」による祝福を経験しそれが、主からのものであると認識する訓練であり、その後に約束の地に入って、彼らがマナではなく、自分達が蒔いた穀物、「自然の働き」に主の御手がおかれ豊かな繁栄があった時にそれが主の祝福であるとも分かるためでした。
主の召しを受けた時に、それは「自然・普通」なものが「超自然」なものになります。「自然 普通」にあるものを使っての、働きや仕事であったとしてもです。歯科医、労働者、母親、どんな働きでもそれは主の召しを受け取った時に、その働きを「主への捧げもの」としてする時に、それは主が見える様に現れて下さる臨在を引き寄せる、主にとって魅力的な捧げものになるのです。使徒パウロがテントを造った時に使ったタオル、エプロンが病を癒し、悪霊を追い出した事から神が私達に教えたのは「自然、普通とされる仕事」を主の為にする時に、聖なる働きとなる事であり、そこには力がある。
詩篇67篇は 主の良さ、祝福を主は私を通して、国々、全ての人々に見える様にして、その事でリバイバルがある事を見る事ができます。神の祝福は、ある特定な人々だけでなく、すべての人に注がれるものであり、それが神の願いです。その為にも私達は祝福の神学の上にしっかりと立つ必要があります。1、2節のように、私達は主の道が国々で知られる、良さが知られる為に祝福を求め、それを良く取り扱う事、それによって神の道が国々に知られ、リバイバルが起こる事を任せられているのです。

目的のある繁栄:任された祝福 Prosperity With a Purpose: The Blessing Mandate – Bill Johnson