2サムエル6章、イザヤ54:1 詩篇84篇 
主の臨在を語る時に、実際的にそれは「御顔」と書かれており、空中に現れた物体では無く、主と顔と顔を合わせる、繋がる事です。2サムエルでは、ダビデが神の箱をエルサレムに運ぶ時、大胆に踊り、それを見た妻ミカルが蔑み、彼女は子が無かったと記されています。宗教の霊、権力争いの霊は大胆に捧げる溢れんばかりの礼拝を嫌がり、自分たちの便宜上でコントロールします。
イザヤ54:1では不妊の女が喜びの歌声を叫ぶと、通常の境界線、出産を追い越して、バイパスして豊かに子を持つとあります。賛美は、捧げもの、生け贄を主に捧げる事です、それはあなたが普通にする事や、便利であり、なれているからすることではないのです。聖書は外交的で元気な人は「喜びの叫びを上げ」内向的でシャイな人は心の中でハッピーな思いをもては主は喜ばれるとは教えていないのです。私達は多く「大きな声で叫ぶことは、私の性格ではないから、そういう性格の人にまかせる」としていますが、賛美、生け贄をささげる事は犠牲を払う事です。それはライフスタイルです。主はダビデのような大胆に溢れんばかりに礼拝を捧げる者を見ています。
喜びの叫び、賛美の歌特に私達がまだその「不妊」の状態にある時に、捧げる事は 虫眼鏡で太陽光線を集めて発火できる様に、すでにある主の大きさを自分の不妊の状況の中にももたらし、現れていただく事です。
詩篇84篇では主の偉大さを語る中に「雀が巣をつくり、つばめがひなをいれる巣を祭壇に見つけました」とありますが、これは臨在、祭壇は「生み出す場所」である事を教えています。礼拝や祈りの時に、色々しなければならない雑用を思い出して昔は、イライラしていましたが、今はそれは主が私に語っている事だと分かりました。それは、主の答えであり、臨在は相互的に交わりのある場所なのです。教会は今まで神と共に夢を見る民として歴史的に現れた事は無かったと感じていますが、主は私達を今自由にして神と共に夢を見て、それが私達教会を通して現れる事を望んでいるのです。

礼拝と臨在 Worship and The Presence – Bill Johnson