マタイ2:1〜12
私はこの季節だけクリスマスを祝うのが、残念だと思うのです。この事柄は一年にある一時だけ認識され、祝われるのではなく、私はいつも覚えたい事です
ある祈りの人は「神様は祈りの答えとしてだけ、私達の人生に介入される」と言われました。もちろん神は何でもしたい事をされることはできます。このポイントは、祈り、人間が主に叫び求める事は主にドアを開くことです。キリストが現れた事でさえも、イスラエルの民が叫び、求めた事を忘れる事はできません。私があなたの家の大家だとしても、私は勝手にあなたに貸している家に入って好き勝手にする事はできません、ドアをノックして許可をもらわなければなりませんね。それと同じです。
「東方の賢者」は黄金、乳香、もつ薬をもって、ユダヤ人の王に会いに行きました。彼らは星をみて「この上もなく喜んだ」とありますが、この言葉の意味は「やり過ぎ、激しく、おかしく見える様に」という意味があります。この時点では賢者達はイエスを見ていませんが、それだけ喜んだのです。でも、その様な喜びを「賢者」は現しました。香油を注いで、イエスの足を洗った女性のようです。教会にその様な「やり過ぎに見える様な」礼拝の喜びの表現が戻る時です。
そして彼らは赤ちゃんのイエスである王様です。ソロモン王の所に多くの人が偉大な知恵、解決を受けるために会いにきましたが、彼らはイエス赤ちゃんの王様が彼らに与えられる「もの」ではなく、「イエス王」に会いにきて、礼拝しました。
イエスは私達の為に全てを完成させました、ですから私達は「まったく何もしない」という教えの流れがありますが、私は思うのは、それが故に礼拝の時に、何も持たずに、与えずに出てしまうと、関係を作る事が体験できない事です。神は契約、誓約の神です。
私は何度も、自分の人生を神の前の祭壇にのせ、捧げて、打ち破りや人生の危機、そしてもっと主に近くなる事を願ってきました。捧げる事をしなければ、契約の神、誓約の神との歴史、私だけが作る事ができる主との関係を育てる事はできません。

誓約の歴史を作る History of Covenant – Bill Johnson