「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」 ヨハネ17章22節
一昨年の10月から、神様が私たち夫婦を導いてくださり、「ギャザリング」の働きに深く関わる機会を与えられることになりました。
ギャザリングとは、1991年、カナダ人牧師ボブ・バーチによって設立され、その後1998年よりエジプト人デイビッド・デミアンに引き継がれ、彼の先導によりWatchmen for the Nationsの働きとして、世界中に広まっている聖霊のムーブメントです。
その働きに深く関わっていく中で、最近特に主が語られていることが、先の御言葉にある「私たちが一つとなること」であることが明確になってきました。
ここで言っている「一つ」という言葉の定義を主に聞いていく中で明らかにされたのは、この一つという言葉が、「一致」とは違うものであるという点です。
「父なる神が御子イエスにおられ、御子イエスが父にいるように、私たちが皆一つとなるように…」
イエスが十字架につかれる直前に私たちのために祈られた言葉です。この御言葉を読めば読むほど、また、この御言葉の前後ヨハネの福音書の15節あたりから、イエスの地上での最後の一夜に弟子たちに語られ、彼らと行われたことを見ていくほどに、この「私たちが一つとなること」について、ますます深い啓示が与えられてきました。
「一致する」というと、考えが合う、同意している、賛成しているという印象を受けます。ある考えに賛同した人たちは、一致することができます。そこには人間の思考、思い、感情や経験など、自分で計れることをベースに、他人と一致する決意、意志を持つという概念が当てはまります。
一致を持って付き合っている友人や仲間を見渡してみてください。大概、考え方や価値観が自分と似ていたり、家庭環境や通ってきた人生経験も似通っている、もしくは理解し合える人が多いはずです。
もっというと、社会的地位も似ている場合が多いでしょう。そういう人たちとは一致することができます。
逆にいうと、考え方が違う人、自分の思うようなものの見方をしない人と、私たちはなかなか一致することができません。反対意見を持つ人、別の見解を持つ人とは、理解しあうことができないため、一致することはできないのです。
話し合っても合意点に達しない場合は、互いに別々の道を行くほか方法がないのです。
ここで話を戻しますが、神が私たちに言っておられる「一つとなること」ですが、自分自身に目を留める時に、この「一つになること」がいかに不可能で、無理なことかが分かってきました。
人間には自分と一致できない人を、自然と排他し、距離を置き、分離する習性があるのです。これは自己防衛機能の一つだと言えるかもしれません。誰にも「人に受け入れられたい」「理解されたい」という欲があるからです。
逆に私たちは、賛同されなかったり、誤解されたりすると傷つきます。
しかし、イエスは、御父と自分が一つであるように、私たちにも一つになるようにと祈っておられるのです。
性格や考え方、役割や背景の違うもの同士が、一つになること。そんなことが実際に可能でしょうか?ここで、イエスの言われたもう一つの言葉について考えさせられます。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」 ヨハネ15章12節
これは、イエスが私たちに与えられた新しい戒めです。この言葉も、イエスは弟子たちに、十字架につかれる前の最後の晩に語られています。
この言葉を、古い契約のもとで与えられた戒めと比べてみましょう。古い戒めはこうでした。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」レビ記19:18
自分を愛するように、他人を愛すること。
元来自分勝手であり、自己中心である人間にとって、この戒めを守ることも容易なことではありません。
この戒めでさえ、100%守ることができないというのに、イエスが最後の晩に弟子たちに、そして今、私たちイエスを信じるものに与えておられる戒めは、さらにハードルの高いものであることが分かります。
「イエスが愛されたように、私たちが互いに愛し合うこと」です。
これは私にとっては、完全に不可能の領域です。自分の中に、そのような愛がないことを、私はよく自覚しています。また、自分の中にある愛がどれほど条件付きなものかも理解しています。
自分を愛してくれる人、理解してくれる人、先ほど言った「一致できる」人なら、まだ彼らを愛することはそう困難ではないかもしれません。しかしそのような人たちであっても、一旦彼らが私のことを誤解したり、傷つけるようなことを言ってきたら、途端に私の中にあった彼らへの愛は底をつきます。
自分の腹を痛めて産んだ我が子でさえ、口ごたえをしたり、親を傷つけるような言動をしたりすると、彼らを愛する愛が自分の中にいかに存在しないか、思い知ることが何度もあります。
ではどうやって、このイエスの与えられた戒めを守ることができるのでしょうか?
イエスを知り、御父の声に耳を傾け、聖霊と深い交わりをしていく中で、私たちの思いが、イエスの思いと同じようになるまで一新される必要があります。私たちに対して酷いことをした人々を赦す恵みを主からいただき、心の傷が癒されていく必要があります。御父の目に、子としての自分がどれほど麗しい存在として写っているか、自分の神にあるアイデンティティーが作り変えられる必要があります。そして何よりも、イエスご自身から、「御自分の命を犠牲にしてでも捧げてくださった尊い愛」についての掲示をいただく必要があります。
その過程で、私たちの心が少しずつ引き伸ばされ、イエスの無条件の愛を少しずつ受け取ることができるようになるのです。肉の思いだけでは、自分とはなかなか一致できない人であっても、その人の存在を尊び、感謝する思いが生まれるようになります。
そのことを私は、実の体験を通して学ぶことができました。
私たちの教会では、20年ほど前、数家族が同じ地域に家を構えることになり、ご近所さんとして徒歩数分の距離内に、共に生活を営み、コミュニティーとして歩みを始めました。そこに新しい家族が加えられていき、子供達が生まれ、自然な流れの中で育児や家族関係、夫婦関係、また、個人的な主との信仰生活の多くを、互いにシェアしあう環境が与えられたのです。
性格や考え方、価値観、育ってきた背景、信仰歴、国籍も違う人たちとの顔と顔を突き合わせた生活は、時に大きな衝突や混乱を招きました。過去の古傷が疼くような辛い体験や、予測もしなかったような事で互いを傷つけ、また傷つけられることもありました。
そのような「一致できない状況」が起こるたびに、私たちには二つの選択肢が与えられました。
・こんなことはご免だと、逃げ出す。
・自分をさらけ出して、相手と向き合ってみる。
一つ目の選択肢の方が、実は簡単です。痛みや傷に蓋をして、何もなかったように繕い、一致できない彼らを置いて逃げ出すのです。別々の道を行くのです。
実際、そのようにして私たちのうちを去って行った人たちもいました。というのも、今現在ぶつかっている葛藤の根本的な問題の原因が、ずっと遡った過去の傷にあることが多く、私たちの多くはその古傷を今更掘り起こすことに多大なる拒否反応を持っているからです。(このような状況を、主が、素晴らしい癒しと回復の機会として贖ってくださったのですが、その実践のためにSOZOミニストリーのツールを与えてくださったことが大きく影響しています。その辺りについては、また別の機会で…)
二つ目の選択肢を見事に言い表した御言葉があります。
「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」箴言27:17
「敵は心にもなく口付けして、もてなすが、友達は、たとい傷つけたとしても、それは真実から出ているのである。」箴言27:6
私と容易に一致できない時に、それでもへり下り、心からその思いを伝え、自分の傷をさらけ出して向き合ってくれる友の存在は本当にありがたいものでした。
時に彼らの口から真実を聞くことは、私を深く傷つけます。鉄が研がれる時、その表面の粗さが削がれ、滑らかにされて行くのです。簡単ではありません。痛みを伴います。何時間もかけて、涙を流しながら悔い改め、赦し合いが必要な時もありました。SOZOのツールを用いて、過去の幼かった頃に受けた傷の癒しを受け取るために、互いに助け合いました。誰にも言えなかった罪の告白を涙を流して一緒に聞いてくれました。
そうやって、一つ一つ向き合って乗り越えてきた友たちとの関係は、今では本当にかけがえの無いものです。彼ら一人一人の存在が、私には本当に必要です。
今でも彼らとは、簡単に「一致」できない時があります。というのも、彼らは、私が見ることのできない側面を別の方角から見、私が得ることのできない見解や意見を発してくれる存在だからです。私では思いつくことのできない観点を指摘してくれる存在だからです。
私が先走りしそうになったら、彼らのうちの誰かがストップをかけてくれます。私が倒れそうになったら、また別の誰かが、肩を貸してくれます。「私ができないことを補うために、彼らが私の人生に与えられているのですから。」
そうやって、私の周りに主が置いてくださった素晴らしい逸材である一人一人を見る度に、私の人生がどれほど豊かにされているかを感謝することができます。彼ら一人一人の存在が本当に愛おしい。彼らと「一つになる」ことを、もっともっと教えられていきたいと願います。
「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」ヨハネ17章21節
主よ、私たちの中に流れている、この世には無い愛を感謝します。この愛が私には常に必要です。あなたから頂かないと、自分の中にはありません。頂き続けないと、すぐに失くなってしまいます。注ぎ続けてください。そして、私たちから溢れ流してください。私たちの間にあるその愛を見て、人々が主よ、あなたを知ることができますように!!!