前回のブログでは、私たちが
自分の弱さを受け入れた時こそが、
神の力を受け取るための絶好の
チャンスだということをお話し
しました。

ここからが、実は本題です。

皆さんはイエスの復活の力を
信じますか?

もちろん信じますよね?

では、その復活の力を100%
受け取れていますか?

100%受け取るって…

100%ってからには、
100あったら、
その内の100全部。

1でも他があれば、
99%になってしまいます。

何が言いたいかって?

イエスの復活の力を
100%手にしたいなら、
私たちが0%にならなければ
ならないということです。

つまり、私たちが「死ぬ」
必要があるのです。

復活の力を手に入れたいなら、
私たちはまず死ななければ
なりません。

死なないと復活も何もありません。

私たちは、キリストの死にあずかる
バプテスマによって、キリストと
ともに葬られたのです。それは、
キリストが御父の栄光によって
死者の中からよみがえられたように、
私たちも、いのちにあって新しい
歩みをするためです。
ローマ 6:4

まず死んで、葬られてから初めて、
私たちは新しい歩みをするために
よみがえることができるのです。

この死ぬことが、厄介なのです。

マリヤは天使ガブリエルが現れて、
神の御子を身ごもることになると
告げられた時、
素直にすぐ、「はい」とは
言いませんでした。

当時のユダヤの文化において、
未婚の女性が子を宿すことの
意味をよくわかっていたからです。

その後、受けることになるであろう
ひどい差別や偏見に対する不安。

家族を裏切ることへの申し訳なさ。

「男性と関係を持ったことのない
自分が、どうやって子を宿すことが
できるのか?」という、

前代未聞の、物理的にあり得ない
状況を思い、
彼女の思いは
困惑していたことでしょう。

何よりも、いいなづけヨセフを
どれほど悲しませ傷つけるか、
説明のつかない歯がゆさも
あったでしょう。

そのような思いの交錯する中で、
彼女はその全てに死んだのです。

それはその後彼女が口にした言葉を
見ればわかります。

「どうぞ、あなたのおことばどおり
この身になりますように。」
ルカ 1:38

神への完全降伏です。
完全に明け渡した状態です。

その直前まで自分の中にあった
あらゆる感情、エゴ、思いを
全て捨て去り、

ガブリエルの言った、

「神にとって不可能なことは
一つもありません。」

との言葉を信じることを決意し、
100%神に信頼したのです。

想像してみてください。

もしマリヤが自身に死ななければ、
私たちの救い主イエスキリストの
誕生もなかったのです!

(神様のことだから、他の誰かを
選ばれたかもって?
それは大いにあり得ますね…)

どちらにしても、
彼女の死=明け渡しが、
キリストの誕生=不可能を
可能にしたのです!

聖書の中には、そのような
人間と神とのやりとりが
多く描かれています。

75歳で「どこに行くかも
告げられず」、故郷を出て
約束の地を目指したアブラハム。

100歳の夫、
そして自身は90歳。
子孫を与えられるとの神の約束を
信仰で受け取ったサラ。

ここで付け加えたいことは、
閉経してからかなり時間が経過して
いたサラにとって、この約束が
どれだけ肉的には
不可能であったかが
明確な点です。

だからこそ、男の子を身ごもるとの
約束を聞いた当初、彼女は、
「そんなことはあり得ない」と
つぶやき、それを嘲笑ったのです。

神が、神のみに可能とされる
超自然の領域へ私たちを
招待される際、
それを受け入れるのが
容易いわけではありません。

「未だ見ぬ現実」を信じる信仰が
試されるのです。

そしてそれを邪魔するあらゆる
肉的な思い、過去の経験、
頭でっかちなだけの神学、
自分のプライドやエゴに、
私たちは死ななければ
ならないのです。

それら全てを手放した時、
完全に神に明け渡した時、
自身に死んだ時にのみ、
私たちはその「不可能な領域」に
侵入し、神がそれらを可能に
変えられることを目の当たりに
することができるのです。

みなさんが今日、死ぬべきものは
何ですか?

未だ明け渡していない領域が、
あなたの人生にありませんか?

不可能な領域への招待状、
受け取りませんか?