繰り返して言いますが、外国人から言われたら、ちょっと違和感があるかもしれませんが、これは、まず私の個人的な意見ではなく、日本人のカウンセラーの方々や、祈り手の人たちが教えてくださったことで、カウンセリングや心の解放の祈りのセッションの中で、最もよく見られる嘘だと言われました。
このシリーズの目的は、嘘に焦点を当てるのではなく、嘘を知って、暴くことによって、本当の真理を知ることです。真理を知ることによって、その真理によって私たちは自由になり、自由に留まることこそが、目的ですね。
第一は、「自分には価値がない」
第二は、「自分は決まった箱の中に入らないといけない」
第三は、「人を恐れる。人にどう思われているか恐る。」
第四は、「人と比べないといけない」
最後5つ目の嘘です。
これです:「忙しくしていることに価値がある」
「自分の頑張りや勤勉さ。バタバタと忙しく働きまわること。クリスチャンになると聖書を頑張って読んだり、奉仕を頑張ったり、長い間祈ったり、それら宗教的な活動に勤勉な人は、自分の行いによって、神様の好意を得ることができる。」と信じてしまいます。
これは、日本の文化の中にある間違った美徳、また間違った謙遜から来ています。
忙しい人生は、充実している、多忙な生き方は=勤勉さ=美徳という嘘ですね。
多くの人は、このことによって不必要な責任感に縛られています。
神様が必要としているのは、働き人よりも、愛しい者、愛する対象となる人々です。
日本人は、真面目です。それはとてもいいことですよ。
しかし、時々真面目すぎて、人生を楽しむことができません。イエスキリストの豊かな命を経験できずに、働きすぎて、疲れている人もいるのではないでしょうか?
私たちに連絡して来る人の多くは、クリスチャンになっても、人生の楽しみが全然ない、と言う人が多いです。
心の解放の時に、神様がよくこの嘘を見せてくださっています。
この嘘も、人間の行いが中心の宗教に基づいています。
クリスチャンの中には、宗教的に、一生懸命祈ること、勤勉に聖書を読むこと、真面目に集会に出席すること、献金することによって、神様を喜ばせ、神様の好意を得ることができると本気で信じていル人が結構たくさんいます。
しかし、聖書によると、こういう行動によって神様の好意を得るのではなく、私たちは既に、キリストイエスの十字架によって、神様の最高の好意をいただいて、神様の心の只中に、置かれています。
エペソ 2 の有名な箇所:
4 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
皆さん、この箇所の中の救いは、いつ起こりましたか?
5節:罪過の中に死んでいた時からです。
祈ることによらず、
聖書を勉強することによらず、
集会の出席、献金することによらず、
まだ、罪の中に死んでいた時にさえ、
キリストイエスの十字架によって、神様の好意を既に与えられたのです。
父なる神様が、御子キリストをみると同じように、私たち一人ひとりをみておられます:
あなたの上にも、私の上にも、天からこう告げられる声が聞こえます:
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」マタイ 3:17
皆さん、聞こえますか?
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
しつこくて、すみませんね!
しかし、日本は、特に、社会には、こういう嘘がよく見えます。
日本社会の中に、こういう理念が強く根付いています。多くのクリスチャンも、この嘘に縛られています:
目的を別にして、とりあえず、忙しくしたら、それがいい、という国民の意識。
しかし、イエス様の真理は違います!
この有名な物語の中、このような忙しさに応答しました:
ルカ 10:38-42「イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろと持て成しのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
『主よ。妹が私だけにお持て成しをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
忙しさの中、主の声を聞くことを忘れていませんか?
バタバタしている毎日の中、イエス様の足もとに座ることを忘れていませんか?
一生懸命祈っている、聖書を読んで、勉強している中で、
ただただ、主の愛に浸ること忘れていませんか?
では、私たちの相応しい応答はなんですか?
1サムエル 15:22「【主】は御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
主は、私たちの生け贄、行動ではなく、私たちが耳を傾けること、私たちが聞き従うことを求めておられます。
つまり、関係です。
親子の関係です。
その足元に座り、その声に聞くことです。
会話です。
何でもいいので、主に相談することです。
話し合いです。
その会話の中、
聖書を勉強するときもあるかもしれない。
長く祈るように、導かれるときもあるかもしれない。
祈るのをやめて、その時間に奥さんとデートするように、子供と時間を過ごすように導かれるかもしれない。
聖書を置いて、人と時間を過ごすように、導かれるかもしれない。
ワンパターンはありません。関係ですから。
関係は常に、成長して変わっていきます。
会話をします。
永遠に変わらない、父なる神様と、
常に成長して、変わりつつある私たちと神との関係です。
聞き従うことですね。
ヨハネ 14:15 (意訳)「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしに聞き従うでしょう。」
みなさん、
神様が突然、「一年間をかけて、聖書の一章だけ読みなさい。」と言われたら、従えますか?
私の好きな講師、グラハムクックさんは、一年間詩篇91だけを読むように、導かれました。
他の箇所を読もうとしたら、目の焦点が合わず、読めなくなりました。
神様は、一年間、91篇だけで、彼を養いました。
私の友人は、神様に言われました:
「仕事を辞めて、生活費は、私から与えられることを信じて、一年間祈りなさい。」
彼が祈りの部屋を設けて、ほとんど毎日一人で、神様の臨済の中に留まり、祈りました。
その間、仕事をせずに、神様が奇跡的に、彼のニーズを満たされました。
また、別の友人、アメリカから日本に来た宣教師は、日本に来る前に神様に言われました:
「日本に行くとき、しばらく祈らないでいなさい。ただ信じて、人に手を置いて、聖霊の満たし、病人の癒しなどを宣言しなさい。」
そして、彼女はそうしました。
殆どのクリスチャンは、彼女の証を理解できませんでした。
「祈らないことですか?!まさか!」
もちろん、彼女は、神様と交わりを持っていましたが、
癒しも、解放も、救いも、聖霊様の満たしも、私たちが一所懸命祈ることによって与えられることから来るのではなく、イエス様がすでに与えられたことです。そして、信じて、従うことによって、受け取ることができるのです。
神様は、彼女の従順を通して、自分の行動や祈りからではなく、神様の恵みによってこういうものが与えられることを教えてくださったのです。
もっと神様の好意をいただくために、ガンバラないでください。
・あなたが、キリストイエスの好意の只中にいるからです。
神様にもっと愛されるために、ガンバラないでください。
・あなたは、すでに愛されているから、さらに愛されることはありません!
・祈る時に、神様の愛が増えることもなく、祈らない時は、神様の愛が減ることもありません。
自分を否定することによって、神様に近づくことができると思わないでください。
・自分を否定して祈り、断食することはまた自分中心の行動となります。
・「見てよ、神様!私があなたのために、祈っているよ!断食しているよ。いい子でしょう!自分を否定しています。
神様の注目を得るために働かないでください。
・神様がすでにあなたの人生の全てに注目しています!自分よりも、神様の方がはるかに分かっておられます!
では、どうして祈る、どうして断食する、どうしてクリスチャン生活の色々な行動をしますか?
① 愛の交わりを楽しむために
祈る理由の一つ目:交わることです。
祈りは、愛する天のお父さんとの会話。
一緒に時間を過ごすためです。
常に認識して、聖霊様の御声と導きに敏感になるためです。
我らの主、イエス様との何でも相談できる関係、
慰めてくださる、また導いてくださる慰め主の聖霊様の臨在に浸る時です。
友人、夫婦が一緒に時間を過ごし、会話をするように、神様との関係、絆を深める、強めるためです。
② 心の一心、思いの転換
神様と時間を過ごして、会話をする時に、考え方や視野、価値観が変わります。
生ける神、聖霊様すでに、あなたの中に住んでおられるので、さらに近づくことはできません!
しかし、古い考え方が残っています。
罪人、罪の奴隷ではなく、神様の子供ですね。
しかし、奴隷の思想が残っているならば、それによって縛られることもあります。
心の一心ですね。
ローマ 12:2-3「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
この簡単なテストがあります:
あなたの祈り、聖書の朗読、断食を通して、あなたはもっと平安の中に留まり、愛の溢れる、喜びの溢れる人となっていますか?
もっとへりくだっている、人に仕える人となりましたか?
もっと砕かれた人のために、神様の御心を感じていますか?
そうなっているなら、素晴らしいです。
どんどんやってください。
しかし、御霊の実が実ってなかったら、それらの行動の動機、裏付ける理由を吟味してください。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」1コリント 8:1
なぜ祈るのか、第3の理由:
③ 強力な協力者
力強く、神様と協力するためですね。
神様は私たちのことを頼っている、必要としているのではないですが、私たちを通してこの地上に働きたいと願っておられます。
それは、私たちのため、また私たちを通して信じる人のためです!
私たちの根本的な存在の理由です。本来の生きる目的。
イエス様の最初の呼びかけは、
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」マタイ 4:19
そして、
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ 2:15
世界の人々にある宗教の神学、哲学を教えるためではなく、人がイエス様について来るように、導くためです。
御国がきますように、神様の心を知り、御心通りになりますように、祈ること、また行動することはなんと素晴らしい特権ですね。
自分の心の中だけではなく、自分の周りの人間関係、夫婦関係、家族関係、友人関係、会社の関係の中にも、神様の御国、神様の影響と主権が現れるはずですね。
この素晴らしい冒険、天の使命のために、いくらでもやります。
弟子たちは、全てを捨ててイエス様について行きました。
私たちも、みんな、イエス様に呼ばれて、この大いなる使命をいただいています。
もうすでに選ばれた。
すでに、神様のチームのメンバーになっています。
このところで、多くのクリスチャンは、資格があると感じません。
イエス様の十字架と、自分の価値を理解していないので、この素晴らしい使命を確立するために、祈って、頑張って行動しています。
みなさん、祈らないことは、不信仰から来るときもありますが、同じように、祈りすぎることも、不信仰から来るときもあります。
祈りすぎることはありますか?
イエス様が言われました:
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」マタイ 6:7-8
みなさん、
数が多ければ多いほど、聞かれると思っていますか?
長く祈れば祈るほど、神様に選ばれると思いますか?
これは、どんな宗教でも、よくある考えですね。しかし、イエス様の恵は正反対ですね。
あなたは既に選ばれた。既に神様の一軍チームの一員です!
それをわかったら、祈ることは、神様との協力するためです。
神様の御言葉、御心、御国が天にあるように、地上にも来るように、宣言すること、また行動することです。
なぜ祈るのか、行動するのか、第4の理由:
④ 従順を学ぶためです。
もちろん、イエス様と共に歩む時は、聞き従うことを学ぶことが必要です。
自分の意思を置いて、信頼して、ただ従うことです。
しかし、イエス様が言われたように、しもべは主人のすることを知りません。(ヨハネ 15:15)
その中に成長して、友人のように、イエス様の心を知るようになります。
常に謙遜、常にイエス様の愛に留まると、自然に、イエス様の心が見えるようになります。
最後に繰り返して言います:
クリスチャン生活を忙しくするのは目的ではありません。
いっぱい多くの行動や祈りによって、自分のスケジュールを詰め詰めにするのは、目的ではありません。
主イエス様に選ばれたことを覚えて、その愛に留まり、聖霊様に満たされ、聞き従って、神様と協力すること、これがクリスチャン生活です。
私たちクリスチャンは、自分の行動によって知られるのではなく、互いの愛によって知られるとイエス様が言われました。
「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ 13:35
覚えてください:
イエス様の時代に、
一生懸命祈る人、
勤勉に聖書を調べる人、
真面目に集会に出た人、
定期的に断食した人が、沢山いましたが、
イエス様が一番批判した人です:パリサイ派の人でした。
ハイディ・ベーカーさんが言いますように、
「恋人は、一番いい働き人になります!」