「礼拝とは賛美の立ち位置につくこと」ブライアン&ジェン・ジョンソン
ヨハネ4:23、24 礼拝とは、「賛美」をする立ち位置につくこと、賛美の心であること。なぜ礼拝をするのか、それは神様がふさわしい方であるから。神に礼拝されることが必要なのではなく、私達が主に捧げる賛美によって変えられるのです。私達が賛美の心から、礼拝をしないのなら、それは音とアクションにすぎない、賛美の心によってそれは礼拝になります。 ダビデは、羊飼いの時、敵から逃げている洞窟の中で主にあいました。礼拝していました、そして王になった時にも、心と思いと力を尽くして礼拝しました、だから、神は「私の心を追い求めるもの」と呼んだのでしょう。 手を上げて、礼拝することは、神様が私達の心地よい、慣れているゾーンから出て、もっと神様のいる場所に出てきて、会うことを招待しているとも思います。楽器で「預言する」とビル師は言いますが、それはどういう意味ですか?それはダビデが竪琴を引いた時に、サウルから悪霊が去ったように、楽器をとおしての賛美で霊の領域、周りの霊的な環境を変えるのです。ですから、歌の歌詞を歌っていなくて、楽器を演奏している時に、それは、すぐことがないから演奏を継続しているのではなく神はあなたの使命を音楽をとおして語っているのです。それを受けてください。 礼拝は教会で集まり、歌を歌うことではありません。あなたの人生を主に捧げる、その中で生きることです。いつも、礼拝者であることです。 新しい歌を歌うこと、主が賛美の中に住まわれる賛美ですが、心にあるものを外に表すのです。すでに書かれた歌ではなく、その時に自発的に主に歌うことです。
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