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「痛みを委ねる事 」ブライアン・ジョンソン

「痛みを委ねる事 」ブライアン・ジョンソン

メッセージ:ブライアン・ジョンソン 同時通訳:相馬伸子 ピリピ1:9.10 ヨハネ5:34、41 自分は今までの人生で痛みを感じない、痛みがあっても、その感情をどうやって取り扱うかを知らない男性でした、しかし、去年の7月に起こった出来事によって、転機がきました。その頃は賛美の学校のミニストリーが一つ終わり、しかし賛美のレコード会社の仕事は、繁栄し、同時に沢山のストレスを抱えていた時でした。 急に、心臓が痛み、自分では自分をコントロールするできなくなり、十代の頃に一度解放されたパニックアタックも再発し、ノイローゼになってしまいました。ミニストリーもできなくなり、家で子供の声が大きいと家にはいられなくなり、庭の芝生を見てもパニックアタックになるような非常に苦しい季節になりました。 特にアメリカの男性は「タフ」になり、強くなければならない文化があり、自分の中の痛みに対して「感じる」事をせず、痛みを避けようとします。 自分達は、よくスポーツの試合を見たり、沢山食べたり、それ自体は罪ではない事をすることで「天の父に渡すべき痛み、苦しみ」をこれらで簡単に忘れる、また心のそこに埋めるのです。でも、それは、いつか爆発して、自分のように壊れます。砕けます。 人間は痛みを感じるように作られています。イエス様も痛みを経験し、でもそれを天の父の足もとに委ねたのです。自分たちもそうです。妻によって、ソーゾーの祈りに導かれ、赦していない事に気つかされ、対処できましたが、その痛みが取られた事は感謝です。 イエスは人の賛美は受けない方でした。私達も、人からの賛辞によって高く挙げられるなら、人からの言葉によって低く落とされるでしょう。神様のところから、自信も、資格も、友情も受ける事が私達を長い間信者として歩ませるために必要です。偉大な人たちは、急に偉大になったのではなく、誠実に、真の友情を育て、神の声を聞き、啓示をうけるのです。 イエスは「あなたはなにがほしいのか」と弟子たちに聞きました、それは「あなたは私から何がほしいのか」私を使うためか?それとも友情のため、ただあなたがほしいというのかと 私達に聞いていると思います。私達はテストされます、イエスがただほしいのか、願うのか、それとも、ミニストリーに使うためにイエスを求めるのか? Original message: Surrendering Pain – Brian Johnson 2016-5-8 Sunday Morning Bethel Church Message © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 Interpretation by Nobuko Soma https://onfire.jp https://www.youtube.com/watch?v=noOdRc14Uos (Brief introduction video. 5分の紹介動画) http://www.bethel.tv/watch/4006/sunday-night/2016/05/08 (Full message, requires registered account. 登録必要) So many of us spend our lives trying to avoid pain without realizing that facing the pain head on might be the thing that propels us into our very destiny. The reality of pain in our lives is inevitable, but we have a choice of what to do with it: will we retreat from it, or will we bring it to the Fathers feet, choosing to praise Him even when we dont understand? Brian Johnson shares his journey through pain, and how the Lord brought him strength and courage for his destiny through his darkest season.

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「神様が無言の時 」エリック・ジョンソン

「神様が無言の時 」エリック・ジョンソン

1テモテ2:3、4、エペソ5:17、18、1テサロニケ4:6、7、ピリピ1:29、ヨハネ15:15、2コリント3:6  私達信者の中で、「自分の人生の為の神様の御心」の話をすると、よく相手の心が閉じているのを感じます。多くの教会では、「神様の御心」が制限するもの、私達の力を奪ってしまうものとして扱われている事ようです。神の御心と、それにそった判断を人生でしていく事は、私達神様との関係を持つものにとっては、かならず必要な事で、それを避ける事はできないのです。 神様の御心は、あなたが思っている以上に 広くて、あなたに力を与えるものです。あなたが、救われて、聖霊で満たされて、良い行いをすることです。 私達が「神の御心」にそって、何かを判断する時、決断する時「正しいことをしたい」と「間違えたくない」という正しさ、間違いのように、考えてしまい、特に「間違った決断をしたら、自分の人生はおしまいだ」と恐れるのです。「神様の御心」を正しく判断できなかったら、祝福されないと思うのです。 でも、このように思うことは、「奴隷やしもべ」としての関係に立っているからです。奴隷は、仕事をするだけが人生の目的であり、主人の家や心に入ることは決してありません。しもべは、心にふれ、家に入ることはできるかもしれませんが、会話に参加することはないでしょう。しかし私達は、「友」であるとイエスさまに招待されているのです。教会は今現在この「友人」としての親しさ、親密さに歩むことができる季節ですから私は、喜んでいます。 自分の人生でも、決断をする時、大きな決断の時に限って、神様は無言であるように感じます、それは「あなたが何をするのか、見ていよう」と父の心で見ているからだと思います。友達は、一緒に作り出していくのです。自分は親として、子供の夢が実現することを一緒に生きることを喜びます。

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「甦りがもたらした憐れみ」 ビル・ジョンソン

「甦りがもたらした憐れみ」 ビル・ジョンソン

使徒13:32〜33、詩篇2章、ヨハネ20章 今日は甦りのイエスを祝う日です。 イエスは処女マリヤから生まれてきて、カルバリの十字架で死なれ、死から甦らされました。詩篇2篇で「あなたは、わたしの子、きょうわたしがあなたを生んだ」とあるように甦りはイエスが2度目に生まれたと言えないでしょうか。最初の「誕生」でイエスを抱きしめたのは処女マリヤ、そして甦ったイエスを最初に抱きしめたのはマグダラのマリヤ、イエスに7つの悪霊を追い出してもらった女性です。私達皆が彼女に問題があったように、私達も問題がありますね。イエスが「甦りに生まれた」時には、季節が変わりました。憐れみが解き放たれました。甦りは「死から長子が生み出された」という事です。しかし、イエス様は罪人ではないので、人類が新しく生まれなければならないようでは全くないのです。イエスは私達の罪の代価を支払った。身代わりとして死なれました。聖書はイエスが罪となられた、だから私達がキリストの義とされる事ができる。イエス様は甦らせられる事を信じて、死なれました。父なる神がイエスを死から命に移しました。私達は、キリストの甦りの命を現す、解き放つ者達です、言葉と行いと態度によってです。 主の墓をマリアが見た時にイエスのからだの頭と足のあったところに天使が2人いるのを見ました。契約の箱は、証しの箱とも言われています。中に入っているのは十戒、アロンのアーモンドの枝、マナのツボでした。イスラエルの民と神様との歴史を現すものです。その箱の上には2対の天使が向かい合って、その間には憐れみの御座があります。 マリヤが主にあった時、彼女はそれがイエスだとわからなかったけど、マリヤと呼ばれた声でわかった。そのようにイエスは私達の前に異なった姿で現れるのです。わたしの羊はわたしの声を知っている、人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる言葉で生きる、とあるように、私達は「声」で判断する、わかるのです。臨在は声です。 主の御名を呼び求める者は皆救われる、それは主が私達全人類に与えてくださった事です。死んでいる者は神を見つける事はできません、私達が誰一人として自分でイエス様を見つけた者はなく、神が私達を追いかけ、求めて、くださったのです。 クリスチャンとして生きる事は甦りの命を生きる事、解き放つ、現すことです。キリストの命は、解放、奇跡の中に見えます。そして、もっとも大きな奇跡は救いです。

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「癒しの障害になっている事(敬う事について) 」ビル・ジョンソン

「癒しの障害になっている事(敬う事について) 」ビル・ジョンソン

ルカ4:21−27 ヨハネ7:1〜5 「地元での勝利」とは、私達の地元での満たしや、癒しが増加される事を語っており、私の心はこれを願っています。その為に、今日からシリーズで癒しの障害になっている事柄を話していきます。 「牧会的神学」とは、牧師やリーダーの立場にある人達が、自分達の愛し、ケアをしている信者が家族が亡くなったり、悲劇的な出来事に襲われた時に「なぜ こんなことが私達におこるのか?」という質問に対して、何かを言わなくてはならないプレッシャーによって、神様の言っていない事、まったく非聖書的な事を神学的に結論付けたり、行ってしまう事ですが、これは、まったくおかしい事です。私は、そのような状況の中で「なぜか?」と聞く事を止めました。それは私達が答えをもらえる質問ではないと思います。反対に、私達は「ミステリー、結論付けられない事、わからない事」を持って歩む必要があります。私達が啓示に大きな価値を持つのよ同様にミステリーに対しても大きな価値を持つべきであり、それ抜きには、成熟する事はありません。 過去の歴史を敬う事のゆえに、自分達が変わる事、神学を変えて、イエスが言われたように「わたしより偉大な技をする」を 次世代の為に受け取っていく事ができない。 ヨハネ7章 イエスの兄弟達は イエスと一緒に育ちあまちにも慣れ親しんだので、イエスが救い主だという事がわからなかった。「慣れ親しむ」事は、神の民に高い犠牲を払わせている。彼らも偉大な啓示のすぐ隣にいながら、わからなかった。 ルカ4章ではナザレでイエスがシナゴークでイザヤ書を読んだ時に、「皆が、イエスを誉め、その口からでる恵みの言葉のゆえに驚いた」とあります。400年前から、イスラエルの国では預言者も、夢や幻によっても神からの言葉は啓示されず、歴史上一番の神の言葉の飢饉あった時あと、イエスが郷里の小さな村のシナゴーグで「神の言葉を霊によって解き放った」ので皆がイエスを誉め、とある。しかしイエスの事を知っている人々は、慣れ親しむ事によって「あれは、ヨセフの子でないか」と言ってしまい、ナザレは「不信仰の村」となった。 神の人に聖霊が与えている油注ぎは、認識され、ふさわしい誉を与える事で解放され、私達はそこから益を受ける事ができます。ルカの4章からエリヤとエリシャに神が与えた超自然な満たしと癒しは、イスラエルの国が預言者がいる事に慣れ親しんだ事によって、油注ぎを認識せず、敬う事をしなかったので、神の願いは契約の民であるイスラエルに与える事であったが、結果的に契約の民でない者に与えられた。

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「勇敢である事は私達の本質 」ビル・ジョンソン

「勇敢である事は私達の本質 」ビル・ジョンソン

マタイ8:15 、1サムエル15章、マタイ14:5、使徒12:20〜23 ヘロデのパン種は「政治的システム」であり、人道主義で、人が中心になる。神がいても良いが、神を信頼する事を政治や人生に含める事を嘲笑する。パリサイ人のパンは「宗教のシステム」です。 人を恐れる事は、神を恐れる事の反対である。サウル王は「民を恐れて」してはならない「生贄を捧げる」事をして、彼に与えられていない領域に手を出した。それは「背く事は占いの罪」「従わない事は偶像礼拝の罪」を犯した時の事です。 人からの励ましや、祝ってもらう事は素晴らしいで、また私達人間の必要ではありますが、人からの賞賛が、私達のアイデンティティーの土台になる事はできません。天の父、父を知る事が私達のアイデンティティーの土台にならなければいけないのです。熱心に働く人は、多くの時に「人からの賞賛」を求めてそうなってしまいますが、その訳はアイデンティティー」をそこから得ようとしてしまうのです。教会の中で、励まし、人々は家族として祝われる事は当然ですが、「人からの賞賛」を多く求める事は「人を恐れる事」として働きます。励ましや祝う事は、ステーキの上にまぶされたスパイスのようで、ステーキそのものではないのです。 父達(母もですが)が「アイデンティティー」を与え、使命と目的に確証を与え、また私達の人生で神が成し遂げたい事の為には無制限の資源が与えられている事を教えます。宗教の霊は、問題をパリサイ人が姦淫の女に石を投げ、裁く為にやってきたように、裁き、自分達の正しさを証明しようとします。政治的システムの霊は教会でも働き、問題と距離を置き、離れようとして、自分と関わりのある人が問題と接する事を避け、問題を起こした人が悔い改め、20年位あとにミニストリーに戻り良い実がなっていれば、私はその人とあってもいいというような態度をとります。 人を恐れる事は、この2つの事の実です。 私は44年前に主がちから強く迫ってくださった経験がありますが、それは「あなたをもっと受けるなら、代価は問いません」と8ヶ月祈った後でした。その時には臨在が強すぎ、普通の生活が送れませんでしたが、主は「代価は問わないと言ったのは本当か」と聞いたので、私は「はい」と言いました。その時から私は決断しました。決めたので、代価は数えません。「教会から人が去る事は考えないのか?」と質問されるなら、大人数を求めているのではないと言います。私は大きなミニストリーを持ちたいのではなく、大きな人達を育てる事を切望しています。 皆を喜ばせたいと思う時に、神を喜ばせることはできず、実際皆を喜ばせる事はないので、結局誰をも喜ばせないのです、私達は無関心な、憐れみの心がない者ではなく、勇気のある者達です。

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「へりくだって神と共に歩む 」ダニー・シルク

「へりくだって神と共に歩む 」ダニー・シルク

ミカ書6:8、1ペテロ5:6、7、8  ある結婚式の動画を見ましょう。新婦の父が新郎に話す言葉なのですが、「私が人生を注いだ、自分が人にあげることのできる最善のものを(娘)をあなたに渡します」。 この愛と権威のある父は、謙遜に神様と歩いているのです。ミカ書6:8節はとてもシンプルですが、私は自分の人生を永遠を使ってこの事を歩んでいくのだと信じています。へりくだって神と歩む事は、私達が長らく一生懸命教えようとしている事です。へりくだるとは「人の事に関心を持ち、自分より他人を大切に考える、自分中心に考えない」事です。1ペテロ5章では「謙遜を身につけなさい」とあります。これは、謙遜さを洋服を着ているように、人が自分を見たときに真っ先に見るものとする事です。ジョンとベニジョンソンは私にとってこの事の素晴らしい模範です。彼らがどのように状況、問題、好意や祝福やチャンスを取り扱うかは、この「へりくだって」いる事がいつもありました。 へりくだるものに「恵みをあたえる」ともあります。コンクリートは乾燥し、硬くなると泡の残っていた所が乾燥してに穴として残ります。それによって古くなると劣化してしまいます。しかし、ある物質は、湿気を与え、穴に入り、劣化したコンクリートを硬める事ができます。それは、恵みのようです。私の人生の中の沢山ある「穴」は神様の恵みを引き寄るようです。そのままでは壊れてしまう状況に恵みが注がれて、すでにある「私の人生」という形が保たれ、そこから命が流れるのです。 イエス様の山上の説教でも「へりくだった」人は「幸い」と言っていますね。へりくだっている事は、あなたのアイデンティティーになり、あなたの「一時的な態度」ではなく、いつもあなたは「謙遜な人」として 存在します。あなたがへりくだっているならば、神の御国はあなたのものです。 へりくだって歩むことは、あなたの人格、人生がが現れる方法を変えます。私たちがよく話す「神の良さ、喜び、神の臨在、豊かに与えること、」それらは謙遜さの中にあります。 私達は「豊かに与える」ものですが、謙遜さは、「受けること」によって上位のものが下位になることをします。シバの女王がソロモン王に贈り物をもって、来た時に、全てを溢れるほどに所有しているので自分たちは受け取る必要がないとしてしまったら、女王は辱められ、関係は壊れていたでしょう。しかし、ソロモンは謙遜になり、受け取り関係を保ちました。 上位のものが謙遜であり下位のものが祝福することは、私達が神を礼拝賛美する時にも同じです。全宇宙の王を私達が「祝福」するのですか?謙遜な神でなければあり得ないことです。 へりくだることは助けが必要であることを見せることです。神に信頼しているのかという事です。神様への私の祈りのアプローチは「見せてください」「教えて下さい」「あなたが何をしているのかを聞かせてください」です。 へりくだる事は、自分の「今」だけでなく、長期にわたる神様の計画を見る事が出来る視野を持つ事です。

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「恐れにあなたの約束を盗ませないで」ベニ・ジョンソン

「恐れにあなたの約束を盗ませないで」ベニ・ジョンソン

ベニ・ジョンソン師 3ヨハネ1:2、民数13:17、14:24、詩篇27:13  2016年の為の3つの事:感謝する事、ワクワクする事、期待する事を主が2016年の為に与えていると思います。ある人は「でも自分のこの状況に感謝なんて」と思うかもしれませんが、聖書は「いつでも感謝しなさい」と教えているので、それを実践するのは私達の責任ですね。 今、私達のいる世界では色々な事が起こっています。ですから、恐れが入ってきて、心を支配し、影響する事を許してしまわないようにしましょう。今年は多くの人にとって、恐れと対決するような状況があると思いますが、「感謝する事」は私達が知っている以上のものを解き放つ事ができます。 カレブの話をしましょう。 カレブはユダ族のリーダーであり、モーセが12人をカナンの地に送ったスパイの内の一人です。 彼は、他の10人が恐れに満ちて報告した時でも、ヨシュアとともに「私達にはそれができるから」と言ったのです。主は「彼は優れた霊、異なった霊をもっていた」と記していました。巨人は、「アナク人」とありますが、その意味は「長い首」でした。ユダ族をヨハネが祝福した時に「敵の首に手をかける」とヨハネは祝福したことは興味深く、私はカレブがユダ族の者としてこのような証し、祝福をきいて準備されていたとおもいます。 民は恐れによって不従順であり、結果その世代が滅ぼされるまで、40年待ちました。モーセ、ジョシュア、カレブは生きていましたが、他の者は死にました。40年たって、カレブは民が恐れた「アナク人」「巨人」の住んでいる「山地」を私にくださいとモーセに願いそのようになりました。85歳ではありましたが、彼は自分の事をしっかりと管理し、戦いにも行けると宣言しました。驚きます。 詩篇27:13では「主の良さを、私達が生きている地において、見る事ができなければ、希望を持つ事ができない」とありますが、今年神様は、ご自身の良さを私達に今まで以上に現されると信じています。 パトリシャキングという預言者から、この言葉をもらいました。「祈りに満ちた祈り」リバイバルと書いてあり、栄光に溢れるドアの前に、人々が色々な鍵をもって集まりました。天使がそこに立って守って、導いていました。「必死」「期待」「希望」それらの鍵は良い鍵であるが、リバイバルのドアを開ける事ができず、「信仰に満ちた祈り」がそのドアを開けて、中に入るための鍵でした。他の方には「あなた達の上に、凍っている、固まっているものがあります」と最近 ビルが預言されました。ですから、その凍っているもの、あるけど、滞っているものを解き放つ、流し出しすために 一致して、皆で祈りましょう。 癒しの証です。友人が、ぎっくり腰になったので、油を作って持ってきてほしいと連絡してきたので、油を作り、「主よこの油を油注いでください」と祈りました。そうです、油を使って癒すのは、聖書的ですよね。長老を呼んで、油そそいて癒されるとありますね。友人にその油を塗った時、平和、シャロームが部屋に入ってきました。また、他の友人が腰の痛みの為に祈ってと言った時に、私は同じ油を持っていたので、その油を塗りました。2人とも癒されました。油は道具です。私達は、色々なことを試して見る事をしています。

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「神との友情を持つ事に移っていく 」クリス・バロトン

「神との友情を持つ事に移っていく 」クリス・バロトン

2コリント5:17、1ヨハネ3:4、ヨハネ15:1〜8 私達は皆が元は罪人でしたが、イエスを信じた時から、聖徒にされました。聖徒です、そして2コリント5:17でありますが、「新しく造られた者」です。その意味は「試作品」であり、今までは存在しなかった人類だという意味です。 御子があなたを自由にしたのなら、あなたは「罪の奴隷」ではなく「義の奴隷であるので」昔は「罪を犯す事を止められない」「いつも罪を犯す者」であったけど、今は「罪を犯す事ができない」「良い事を行う者」にされました。罪を犯す者は「悪魔の子」とあり、「神から生まれた者は罪を犯しません」とあります。新生した時に、神の言葉、神の種から生まれるので、信者は神の子であり、神の言葉がDNAになります。 刈り込みは約束が成就される為の大切な過程です。父は真の農夫であり、イエスはブドウの木、私はブドウの枝とあります。刈り込みは痛みを伴いますから、好きな人はいないでしょう。でも刈り込みの意味がある事を知る事です。「わたしのことばがあなたにとどまるなら、あなたの願う事なんでも、もとめなさい、そうすれば、あなたの為にそうしましょう」とイエスは言いますが、「ことば」とは剣のように、刈り込みをする言葉です。 奴隷は、決して主人の心を知りません。イエス様はもうあなたを奴隷とは呼ばないといったならば、その前は奴隷であったという事です。奴隷とは、主人に言われた事だけをする事が人生の目的ですが、友であるならば、父の心を知る事ができる。 啓示とは、子供達、神様との友情を持つ者が、受け取るものだと思います。啓示は聖書勉強を長い間することによって得るものでは無いのです。アブラハムや、モーセ、ダビデは友情を神と持つ事によって、神の言った事だけではなく、自分たちの願いをも行いましたね。アブラハムは、ソドムの町の為に主と交渉をしました。ダビデは律法から考えたら、違法であるが 幕屋を建て、すべての祭司たちが主を24時間、いつでも礼拝できるようにした。ダビデは神殿を作る事はなく、ソロモンが神殿を建てたのは神の命令ではなく、ダビデの考えだったが、ソロモンが神殿を建て、神に捧げた時に、主の臨在と栄光で祭司達は働なかったくらいである。 神は「奴隷」から「友人」に私たちを成長させたいのです。「友人」には選択をしてほしい、選択できる意思と、状況を神様は作りました。関係の為、無理強ではなく選んでほしいのです。

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「ペテロの物語とあなたのデスタニー 」クリス・バロトン

「ペテロの物語とあなたのデスタニー 」クリス・バロトン

マタイ6:33 マルコ16:7 私は歴史を作るもの、ヒストリーメイカーになりたいですが、その前に自分の人生の神様との歴史を作ることが必要です。ペテロは漁師出会った時に、彼の所にイエスがやってきた。そのようにして、神様はあなたが今いる所で、あなたが責任を与えられている所で、あなたを見ています。そして、私達は神様を知らない時から、神様によって訓練されているのです。自分の人生の為に神様を待ち望んでいるのですと言わずに、今いる所で、あなたにとっては普通の所で、あなたは超自然の神と普通ではない事をするのです。 マタイ6:33ですが、私達は神の御国とその義を求めなさいそうすれば、すべて与えられます、とありますが、ビルジョンソンはこう言いました。「神の御国をまず求めて、その後にあなた自身の生活、ミニストリー、仕事ではなくすべてが神の御国の中ですることです」と。私は自分の仕事、車の修理工場のオーナーでしたが、教会で人に手を置いて癒すなら、車に手を置いて癒したらどうしようと思ったのです。私は救われた時に、王なる祭司とされたました、ですから、どこにいても、私は主に生贄をささげるのです、それは「仕事」でもあるのです。 ペテロ、ヨハネとヤコブは最初はバプテスマのヨハネの弟子でした。でもイエスがヨハネに「みよ、神の小羊」と言った時からイエスの弟子になりました。そのようにリーダーを変えることできますか?新しいことを主は持ってくるのですが、それは「次」ではなく「まったく新しいもの」なのです。慣れている事を手放して、新しい事を受けましょう。 ペテロはイエス様を3回知らないと言いました。ユダは1回イエスを裏切りました。弟子達は、ペテロの事をもユダのように思っていたでしょう。だから、マルコ16:7では天使が意図的に「弟子達とペテロに」と言っているのです。それは、ペテロがもう一度弟子達と共にあるためでした。 私達は「成功的に失敗する」必要があります。それは「過去から通り過ぎる」事です。後悔は「殺し屋」のように働きます。ペテロは、無学でしたが、神はあえて彼をユダヤ人に送りました、それは人間の知恵ではなく神の栄光のためです。

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「丘から降って 」エリック・ジョンソン

「丘から降って 」エリック・ジョンソン

ルカ15章、 ベテル教会は、生れてから50年以上になりますが、この場所を私の曾祖父母達、長老達が幻をもって、買った時には「市街地から遠く離れた丘」として見られていたので、私達は「丘の上のクレイジーな教会」と呼ばれていました。でも、クレイジーと呼ばれることは、普通ですし、私達とある期間過ごすならば、これもあなたの普通になるのです。ベテル教会は「都市に侵入する」としばらく言いながら、それを実践してきましたが、実践していない人たちからは、この「言葉」に対して大きな否定的な反応を受けました。私達は言葉についているイメージに影響されるのです。今は私達は「都市を良く愛する」という言葉を同じ事を表現する事に使っています。 去年、私はレディング市の都市建設業界団体から、頼まれ昼食会でベテル教会の事を話しました、そこで気がついた事は、今は「街が丘を登って教会に来ている事です」 しかし、2016年は「教会が丘を下る」のです。イエスの情熱は、「失われた人、物を回復する」ことですね、ルカ15章でみえるのは私達の父は、回復する神、人でも、物でも、羊でもそうです。ある人は自分の人生の戦いや悲しみで、人の人生の悲しみや痛み、失われている事柄に触れるのは嫌だと、それらから完全に自分を切り離していますが、それでは、イエスの言われた事はできないでしょう。 人の痛みを見て、同調する時に、あなたの内にいるキリストの栄光の光、いのちの光があなたから輝くのです。あなたが解決である主イエスを持っているなら、解決が必要なところに行ってください。

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