『イエスの生き方に学ぶ』シリーズPart.4 ー 御国を与えることを学ぶ
御国を与えることを学ぶ というテーマで今日もシェアしたいと思います。
マタイの10章で、イエスは12人の弟子たちを集め、彼らに汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。そして、彼らを伝道に使わす前に、まず、このように語られました。
マタイ 10:8 「病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
また、イエスは、十字架の死に打ち勝ち、三日目に蘇られて弟子の前に再び姿を現されました。そして、天に昇られる直前、地上で人としての人生を終えられる最後の瞬間に、自分が模範となって3年間人生を共にして教えてきた弟子たちに、このようにお伝えになりました、
マルコ 16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
イエスがその生涯で弟子たちに、教えられたことは、「人びとに御国を与えること」のように要約できるかと思います。病人には、御国にある癒しを与え、悪霊に取り憑かれた人には、御国にある自由と解放を与えられました。目が見えない人には、見える目を与え、歩けない人には、立って歩ける足を与えられました。
乏しい人には、食物を与えて、服を着せてあげ、孤独な人、社会からさげすまされている人と一緒に、食事をしてあげました。そうやって人びとの必要に仕え、彼らを愛されたのです。そして、それらを、弟子たちにも同じようにするように教え、見本を見せ、彼らを遣わされました。
アダムとエバが堕落して以来、この世は、罪の束縛と、悪魔の悪あがきのせいで、暗闇によって支配されて来ました。病と死がはびこり、家庭は崩壊し、離婚率は増え続け、暴力、虐待、貧困、飢餓、戦争、、、ニュース番組や新聞を見ると、いたたまれない事件や事故が後を絶ちません。
でも、その暗闇の中に、光を照らすように、私たちは一人一人、神様によって選ばれ、名を持って召し出されているのです。そして、それぞれの場所に遣わされています。
病人の癒し?病のために、祈ること。まあ、それくらいは、やってみよう。
え、でも、死人を生き返らせるって?
そんなこと、今の世の中、マジックじゃあるまいし、本当にできるの?
悪霊を追い出すって、それは、ちょっと私の出る幕ではないな、、、
祈祷師か何か、特別職の人にお任せしましょうか、、、
蛇をも掴み、たとえ毒を飲んでも、、、
このあたりから、「きゃー!!!絶対無理!!!」と思いながら、この箇所を読んでいるのは、私だけでしょうか?
皆さん、安心してください。大丈夫ですよ!
イエス様ご自身も、これらのこと、何一つ、ご自分ではお出来にならなかったのです!!!
ご自身でそのように言われています。
ヨハネ5:19 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」
もし、イエスが「神として」この世に来られ、この地上で奇跡のみわざをなされたのだとしたら、私たち人間が、それを真似することは決してできませんよね。
そりゃあ、神様だもん。人を癒すのも、悪霊を追い出すのも、奇跡を起こすのも、朝飯前です。
そんな、同じこと、私たちにはお手上げです。
あれ?イエス様は、神としてこの世に来られたんでしたっけ?
ピリピ2:6-7 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」
神であるキリストが、神のあり方を捨てて、ご自分を無にし、仕えるものの姿を撮り、人間と同じようになられたのです。人間の性質を持って、この世にお生れになったのです。つまり、この世に生きておられたイエス様は、100%人間だったんです。
その人間であったイエス様は、その肉には、超自然的な能力は、全く持ち得ていませんでした。
あえて、私たち人間が向き合うのと同じ制限、限界の中で生きることを選ばれたのです。
そして、人として、私たちの模範となられたのです。
イエスの御名によって「不可能に侵入する」と言う働きにおいての模範です。
「暗闇の中に、光をもたらし、この世に、御国を与えていく」と言う働きにおいての模範です。
私たちと同じ人間でありながら、一つの罪をも犯されず、み父と100%正しい関係にあったイエス様は、通り良き管となられ、神の超自然的な力が、この世に現される器となられたのです。
さらに、イエスは、私たちが聖霊という助け主を待ち、受けるなら、イエス様がされたことより、もっと偉大なことをすることができるとまでおっしゃいました。
ヨハネ14:12 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
ここまで申し上げると、皆さん、ご自分を「私は聖霊に満たされた、イエスの弟子」であると自負されるのであれば、そんな皆さんに、選択の余地はありませんね?
そうです、皆さん、お一人、お一人を、神様ご自身が、その御国の大使として、御国の現実をこの世に分け与えていくものとして、任命されているのです!
つまり、もし、祈っていて神が「この死人をよみがえらせる祈りをせよ!」と言われたのでしたら、私たちにも、それができるはずです!
あ、でも、死人をよみがえらせるよりも先に、もう少しハードルの低い課題にしてください!とまだ言ってしまいそうになるのは、私だけでしょうか?
そうです。私たちがイエスがそうであったように、神と正しい健全な関係のうちに生きるなら、私たちを通して現れる神の超自然的な力に不可能はありません!
そこで、イエスがこの世で人間として生きたと申し上げましたが、その特徴はこの二つに要約されます。
1。イエスは、彼を御父から引き離す、罪を一度も犯されませんでした。私たち人間が直面するあらゆる誘惑には合われましたが、正しい選択をされたのです。
2。イエスは、御父に完全に信頼し、ご自分を通して働かれる聖霊の力の完全により頼んでおられました。
では、私たち、イエスの弟子として今の現在を生きる人間の特徴はどうでしょうか?
1。私たちはイエスの血潮によって清められた、元罪人です。あえて、元、という言葉を強調させてください。今でも自分を罪人だと信じる人が、罪を犯し続けるのは当然です。
でも、イエスの十字架の御業により、私たちは、罪赦されて、義なる人として、父の御前に何も隔てるものなく立つことを許されたものです。自分を義人だと信じる者は、罪を犯してしまったとしても、すぐにそれに気づき、そこから素早く立ち返ることができるはずです。当然ではないのですから。
一つ目の特徴はクリアしました。十字架に感謝です!
では、二つ目の特徴はどうでしょうか?ここが、皆、毎日の生活の中での課題ではないでしょうか?
2。私たちは、どれほど喜んで、心から、み父を信頼し、聖霊の力に完全に依り頼む生き方をしているでしょうか?
私自身も、このところで、大きな葛藤といつも戦っています。
一歩、踏み出すことができず、後で後悔することも、多々あります。
先日も、息子のアメフトの練習中、目の前で怪我をして休んでいる選手に、コーチやトレーナー、保護者の手前、手を置いて祈ることができませんでした。御父を信頼することより、人にどう思われるかの恐れに引いてしまいました。
でも、また、別の時には、同じくアメフトの選手の保護者の一人と、会話している最中、ある知識の言葉を主に示されました。御父を信頼して、信仰を持ってその言葉を伝えてみました。すると、それがきっかけで、そのお母さんが、心を開いてご自分の葛藤をシェアしてくださり、私は、自分の救いの証と、その方のために祈ることもできました。
イエス様が御父を信頼し、完全にご自分を明け渡されたように、私たちも、御父を信頼し、人を恐れることなく、その時に、聖霊が促されることに、耳を傾け、従う従順さをもっと増し加えてくださるよう、祈ります。
また、たくさん聞こえる雑音の中から、御父の声を聞き分けることができるよう、聖霊様、私たちの霊の耳をますます、研ぎ澄ましてください。
お父さん、あなたと時間を過ごし、御言葉を食べ、あなたをもっともっと知る時に、あなたの心の中にあることも、もっともっと自然と分かるようになると信じます。あなたをもっと、もっと、知りたいです。私たちを引き寄せてください。
イエス様、私たちの、素晴らしい模範として、2000年前、この地を歩き、見本を見せてくださり、弟子たちに、お父さんの心、御国の現実を教えてくださったこと、ありがとうございます。
2000年以上経った今も、こうやって、私たちが、その御国を広げる働きに、共に携われる特権を、感謝します。