「人と比べないといけない」
以前、長く話したことがあります:
日本独特の競争社会、受験戦争、「勝組と負組」
日本社会には、この矛盾があります:
皆等しい!皆一緒、和を大切にする。協調性を大事にする。
全体としての一致や調和をとても大切にする代わりに、個々のレベルでは、小さい時から、常に他人と自分を比較し、いつも周りに比べられる環境の中に育てられます。
成績も絶対評価はあまり問われず、常に、相対評価によって、自分の位置を確認します。
平均以上の人、平均以下の人、自分よりも偏差値が高い人、低い人。
幼い頃から、勝組、負組の枠組みの中で、子供達は大きくなります。
(このことについて、日本の独特的な束縛というメッセージの中に、紹介しましたので、ぜひ参考にしてください。https://www.youtube.com/watch?v=cFjJGV5wL9g )
今日は、聖書の言葉と教会、クリスチャンの信仰生活について話します。
競争するように育てられた人は、やっぱり、クリスチャンになっても、その競争心を教会の中に、持ち運んで来ます。
内と外の関係、
自分の教会、向こうの教会、
また、自分の教会の中でも、あの姉妹より信仰があるか、その兄弟より聖書のことに通じているか、、、
教会、または人の成功や幸せを素直に喜べないこと。
向こうの教会の成功、人の賜物を認められないこと。
自分の価値観や経験では理解できないことがあれば、批判します。
「やっぱり異端です。何かおかしいと思ったわ~。」
このようなことは、聖書的な見極めとは違って、その相手のベストを素直に求めずに、ただ自分の立場を強固にしたい、自分の存在を認めて欲しいところからくるのではないでしょうか。
そんな人間関係の中には、ほとんどの場合、愛はないですね。
相手の回復、相手の利益、相手の祝福と成長のためではなく、みんな、自分の利益の為に励んでいます。
みなさん、私自身も同じようにこの葛藤がありますよ。
私たち皆、こういう誘惑もあり、失敗することもあります。
でも、この罪の起源はどこにあるのでしょうか?
神様に愛されている子供であるという真理からではなく、他の人に比べることによって、自分の価値を求めることですね。
神様の無条件的な愛の啓示、認識の欠如ではないでしょうか?
昇天の前に、イエス様がその将来の召について、ペテロと話しました。
話している最中、ペテロがふとヨハネの将来について聞きました:
ヨハネ 21:21-23「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。
しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのを
わたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。
面白いですね。ペテロがヨハネと自分を比べ、案じたことは、結果的には、必要のないことを聞いて、いろいろ思い案じ、大きな勘違いになって、ヨハネが死なないという噂が広がるまでになったのです。
他の人と比べることの結果はいつも混乱です。
時には、落ち込んで、絶望する。
時には、プライド、高ぶりが生じ、高慢になります。
その解決は何ですか!?
「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」ローマ 12:3
本当のへりくだり、慎み、謙遜などは、自分を相手より高く評価することではなく、自分を相手より低く評価するのでもなく、神様の目によって、自分を見ることです。神様はあなたの行いや奉仕の度合いであなたを評価しません。
イエス様の愛、恵、そして信仰の量りに応じて、自分のことを評価すること。
「自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」2コリント 10:12
とパウロが言います。
比較することは、非常に危ないことです。
イエス様の愛に夢中になればなるほど、自分を他人と比較すること、また、自分自身で定めた測りで測ることも必要がなくなるでしょう。
自分が足りない、自分は値しないと思う人の多い日本の社会の中で、私たちがこの領域で自由になれば、どれほど大きな証となるでしょう!
どうぞ、皆さん、イエス様の愛に留まり、イエス様の真理によって自由に放たれて、豊かな一週間を迎えてください。