私が非常に親しくしている人の中には、その人を見なくても、その人の声を聞いただけで、直ちにその人であることが分かります。同じように、私たちは常に主の御声を聞いて、主と非常に親しい関係になっていれば、主の御声を聞いただけで、直ちにそれが主であることが分かるようにならなければなりません。
私の友人であるフランシス·フランジパンが好んで「私たちはマニュアル(手引書)ではなく、『エマニュエル』(神が私たちと共にいる、という意味)に従うように召されている。」言うように、私たちが、イエスについての単なる原則ではなく、イエスに従う人生の道を歩むためには、この真理を理解しなければなりません。私たちの「真理」は、私たちをご自身との個人的な関係に招いてくださったお方です。
(だからといって) これは、私たちが神の書かれた言葉である聖書への献身と敬意を損なう(軽視する)ものではありません。御言葉であるイエス様が、悪魔の挑戦を受けたときに「聖書にこう書かれている」という言葉に立脚されたのであれば、私たちが聖書を知り、それに立脚する必要があるのは当然のことです。しかし、聖書は、私たちと主ご自身との関係や、主が私たちを導くために遣わされた主の霊との関係に取って代わるものではありません。
聖書が重要であるのと同様に、イエスは、私たちをすべての真理に導くために本(聖書)を送るとは言わず、そのために御霊を送ると言われました。教義は主の書かれた言葉の中で確立されているので、主の書物は重要であり、私たちはできる限りそれを知りたいと思いますが、聖書は聖霊の代わりになるものではありません。聖書であっても、聖霊と一緒に読まなければ、いわゆる “死語 “になってしまいます。同じ言葉でも、聖霊によって読まれると、いのちを与える天のマナとなります。私たちが道を歩むときに必要なものを与えてくれますが、道そのものは私たちが従わなければならない人です。
私たちが人を認識する方法には、主なるものに「顔」と「声」の2つがあります。しかし、手を見てわかる人はどれくらいいるでしょうか。しかし、どれだけのクリスチャンが、神の手、つまり神が自分に与えてくれるもの、あるいは自分にしてくれることだけで神を知っているでしょうか。ヨハネ10章で主は、主の羊は主の声を知っており、主の声を知っているから主に従うのだと説明されました。旧約の下でも、イスラエルは主の戒めに従い、主の声に耳を傾けるように繰り返し言われました。自分たちの生活に様々な指示が与えられていても、主の声を知り、耳を傾けなければなりませんでした。
今日、多くの敬虔なクリスチャンは、聖書があるので、もはや神が私たちに語りかけたり、預言をしたりする必要はないと信じています。もし結婚式の日に、夫が「彼女に期待することをすべて書いた本を書いたから、二度と話をしなくていいよ」と言ってくれたら、花嫁はどんな気持ちになるでしょうか。それはどんな関係なのでしょうか?
このような聖書に反する教えによって、彼らは主ご自身の代わりになったのです。このような人たちは、Ⅱテモテ3:5に書かれているように「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」ということです。
すべての人間関係の質は、その人とのコミュニケーションの質(方法、深さ)によって決まります。
そこで主は、私たちが主の前で正しく生きるための第一の方法として、先ず書いた聖書を「教義」として与えて下さいました。従って、その聖書を尊重すべきなのは当然です。しかし、それだけでは十分ではありません。真に親しい深い関係に入るために主は、マタイ4:4で「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。』と書いてある。」と言われました。その意味は、私たちは、単に過去形の昔「出て来た」言葉だけではなく、現在形の主の口から「出て来る」言葉によって生きなさいと云うことです。
主の御名は現在形の「私はある I am」であり、過去形の「私はあった」や「私はなる」ではありません。生きておられる主を知るためには、現在形で(常に会話しながら)主を知らなければなりません。主は「生ける神」であり、私たちは聖書に書かれているように、主の行動や人間への対処の歴史を知りたいと思いますが、主との関係は継続した現在形でなければなりません。
つまり、私たちは「ナザレのイエス」にも感謝していますが、イエスはもはやナザレのイエスではなく、天地のすべての支配者と支配権の上にある「王の王」です。私たちは今、この方をそのように知らなければならないのです。
[ジョイナー師の後書き] 今年の終わりまで、この「今週のことば」は、私たちがどのようにして主を知り、主とともに歩み、主の声を知り、主の顔を求めるように命じられているかに焦点を当てていきます。(終わり)