神のあなたへのヴィジョン
ビル・ジョンソン(ベテル教会説教)
王として整えられる必要
イスラエルの王の歴史はよくご存知だと思います。最初の王はサウロでしたが、それはイスラエルの民が、他の国々のように自分たちにも王を与えてくれるように主に強く願って与えられました。悲劇的なことに、その時イスラエルには王となるべく主に訓練され整えられた人物はまだ存在していませんでしたが、神はその中でもまた最も王にふさわしかったサウロを選ばれ恵みを注がれたのだと私は思います。最初の数年はサウロは優秀で熱意のある良い王であり、へりくだって王として民のためによい働きをしました。しかし、次第に彼は罪を犯し、恵みを失い、サムエルに反抗し、ついに主は彼を見放されました。そして主は彼が在位中にダビデを次の王に選ばれました。しかしダビデが最初に選ばれ油そそがれ日から実際に王となるまでには、かなりの年月が経っておりました。
サウロはダビデを激しく嫉妬しました。それはダビデが神のフェイバー(特別の恩顧)を受けており、神の臨在、神の恵み、油注ぎを知っていたからです。聖書には, 神がダビデに「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。」と言われたことが2回出てきます。(2サムエル7:8、1歴代誌17:7)これは興味があることです。というのは羊飼いは普通羊の後ろからついて行くからです。羊の後ろから歩いていたダビデが王になったのです。即ち、王となるためには自分一人で先を歩くのではなく、まわりの人々の様子、まわりで起こっていることに注意を払い、面倒を見ながら歩かねばならないのです。主はダビデが羊飼いだった時代から彼を取り扱い、主が望まれるような王になるための訓練を始められました。
イスラエルの女たちは「サウロは千を打ち、ダビデは万を打った。」と笑いながら繰り返し歌いました。それによってサウロは嫉妬と不信感をダビデに抱き、10年以上もの間、ダビデを殺そうと計りました。サウロは整えられないままに王になり、ダビデは十分に訓練されてから王にされました。つまり、10年以上も殺害される危機を通され続けるならば、あなたは立派なリーダーになるための十分な訓練を受けるのです。ですから主に昇進を願うときは、忘れないでください、そのためのプロセスを通されるということを。
イスラエルの民が王を強く望んだとき、それは主の御こころではありませんでした。そのことからある人達は「神ご自身が王であられるから、人間の王を立てることは神の御こころではない。」と結論づけています。しかしそれは真実ではありません。主は信仰の父アブラハムに創世記17:6で次のように言っておられます。
「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出てこよう。」
主はイスラエルが建国される前から、アブラハムの子孫から国々の王を立てるのがご自分の願いであることを宣言されたのです。
真の王とは
問題は、この世界が持つ「王のイメージ」は、ほとんどが「自分中心で、自分を満足させることを第一とする王」というものだということです。「自分の長寿、繁栄のためならば人民が苦しみ喘いでも厭わない王」というイメージです。しかしイエスは神の視点での「真の王」はどのような者であるかを示されました。人間が持つ王の認識があまりにも歪んでいたからです。そして神がイエスをこの世に送られ「真の王」の見本を示された目的は、神がクリスチャン全員を王になるべき者として造られたからです。私たちは地上で王になるべき者なのです。
私たちは「すべてのクリスチャンは王だ。」と言うのを躊躇する気持があります。それは取りも直さず私たちの持つ「王」のイメージがこの世的なものだからです。しかしイエスこそが「真の王」の完全なお手本であり、主はタオルを手にとって弟子たちの足を洗われた方です。それは仕える者の姿であり、それこそ神がお考えになる「王」の姿なのです。
イエスがなされた事はすべて、「真の王」の姿を表すためでした。私たちは「しもべの心で治め、王の心で仕える者」になるべきです。私たち王家の者は天の無限の資源を用いてまわりの人達のために仕えるのです。真の王は自分の国の問題を聞いて「一体誰がこの問題を解決するのだろうか、、、」と思い悩むのではありません。真の王は自分の前に持ち出されたすべての問題に対処し解決する権威と資源を持っています。ですから、誰かが「背中を痛めました。」と言って来たとき、あなたが王であるならば「他の人に解決してもらいなさい」とは言わないのです。イエスはすべての問題に対して「王たる者のすべきこと」を実際にして見せてくださいました。私たちも無限の資源を天から引き出すべきなのです。
私はよく「どうか神様の祝福を祈ってください。」と人々から頼まれます。多くはその人のアイデンティティーや目的、デスティニー等に関する祈りですが、この数年それらの祈りに加えて、私はもう一つ「無限の資源があることを知るように」と祈ることにしています。親として子どもたちに出来ることは「あなたが受けた神からの召しを遂行するのに必要な資源は、何でもすべて無限に備えられている」という真理を教えることだと思います。例えば奇蹟をする油注ぎや問題に対処するための知恵の言葉、資金等、すべて必要なものは備えられているのです。要するに「王」は普通の人のように「これは出来ない、それは無理だ」というように限界を設けないのです。
王として統治するとは
「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33
私は「神の考えられる優先順位は一体何なのか」といつも考えてきました。主は「まず第一に」神の国とその義を求めるように言われました。ですから私たちはすべての事柄に関して自分の持つ価値観を、神の価値観に合わせなければなりません。そうすることによって私たちは自分の人生をうまく治めることができるのです。
「神の義」は「神の国」と同等に並べられていて、ニの次ということではありません。ローマ14:17には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあります。ですから私たちは「神の国、それは義、平和、喜びです。その中でも義をまず第一に求めなさい。」と言われているのだと思います。その理由は、あなたの毎日の言動の中に神の義がどれだけ現されているかが、 あなたが人生を治める権威をどれだけ持つ事ができるかの尺度になるのです。
知恵の書である「箴言 Proverbs」という言葉はもともと「治める reign
rule」という語から来ています。ですから「知恵」は私たちに治める能力を与えるものです。神からの悟りは、王(真の王)が人々を助け人々に仕える能力を与えるのです。
「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」ローマ5:17−18
イエスによって私たちは「いのちにあって支配し治めること」が可能になりました。人生を治めるとは、即ち私たちが自分自身の内なる世界をどのように治めるかにかかっています。社会的にビジネスでどのように成功するかとか、政治的にどのような影響力を持つかとかではありません。それも大切なことですが、最も大切なのは、自分の内なる世界をどのように治めるかなのです。神が私をどのような者と見ておられるかを知る事、イエスの思いを自分の思いとすること、即ち、どのようにお金を用いるか、家族をどのように取り扱うか、人間関係をどのようにするか、ということすべてが重要であり、すべてをイエスの思いでしていくのです。「自分の考えでやりたい」と思う人はどうぞそうして下さい。私は自分の考えで物事を対処するほど愚かではありません。勿論私は自分の考えを持っています。でもそれではうまく行かないことを十分悟りました。
自分の心を治める力を失わせる4つのもの
1.罪責感(guilt)
2.恥(shame)
3.後悔(regret)
4. 苦い思い(bitterness)
私たちの肉体も内面で起こっていることに影響を受けることは現在周知の事実となっています。例えば苦々しさを長い間持っていると、それが健康に影響してきます。憎しみや恐れもそうです。3ヨハネ2節に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるのはそのためです。私は多くの人のために祈ってきましたが、時として後悔が憎しみとおなじ位大きな障害になっていることを発見しました。それは両者ともにその人が過去につながれ縛られているからです。私たちのアイデンティティーは、「神が自分をどう見ておられるか」によらねばなりません。神が見られる姿が私たちの正確な姿です。
ローマ8:35では「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。」と問うて、すべてのことを列挙していますが、38節に「今あるものも、後に来るものも」とあります。又、1コリント3:22には「・・いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたのものです。」とあります。2つの聖書箇所で共に抜かされているのは、「過去」です。過去は私たちのものではないのです。私たちは過去を法的に手にいれる権利はないのです。なぜならばそれはすでに購入されてしまったからです。私たちが過去のことを思い出すとき、その過去はすでにイエスの血潮によって贖われているのですから、もうあなたのものではなく、あなたが思い出す過去の出来事は最早本当の姿ではないのです。過去を後悔する度にあなたは偽りや惑わしに心を開いてしまっているのです。
あなたの真のアイデンティティー
アイデンティティーのシフトはここから始まります。あなたは現在と未来は持っていても、最早、過去は買い取られていてあなたのものではありません。それはイエスの血潮で覆われ、あなたを悩まし損なう権威もなく声も持ちません。すでに買い取られているからです!もうあなたのものではありません!キリストにある私たちのアイデンティティーはここから始まります!自分の人生を治めることを会得するのは、このレンズを通して自分を見ることから始まります。今より以前のことは、すべてイエスの血潮で覆われ主の所有物となり、もはやあなたの不利に働くことはなく、かえって益となるように主が用いてくださるのです。一旦あなたが罪赦されたならば、罪に向けられるすべての攻撃は、最早あなたではなく暗闇の権力(あなたに悪影響を与えたもの)に向けられるのです。
過去の後悔、苦い思いという問題があります。主の祈りの中に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」があります。私たちの「赦され続ける必要」と、私たちが「赦し続ける責任」とが関連づけられ、「一息の文」をなしているのです。両者は切り離すことはできません。皆さんの中には想像もできないほど酷い仕打ちを人からうけた方がおられると思います。でも考えてみてください。「完全なる神」に対して犯す私の罪は「不完全な人間」に対して犯された誰の罪よりもずっと重く大きいのです。神は私を赦されました。それによって「赦しの基準」が定められました!ですから「確かに私は自分の人生を治めている」と言うためには、私はその赦しの水準を保ち続けねばならないのです。
金銭に支配されない
あなたが人生を治めるならば、お金に支配されるのではなくお金を支配するのです。もしお金にコントロールされるならば、それは自分が仕える主人になってしまいます。
聖書には、アナニアとサッピラが人々を欺こうとした事件が書かれています。ここから学ぶべきことは、あなたがお金をコントロールしている間は、あなたの好きなように用いる特権と責任を持っていると言う事です。彼らはお金を人々から歓心を買うために用い、それが全額だと偽りました。今私の手にあるお金は兵士であり、それを持っている私は将軍です。私はこれを宣教師に上げてもいいし、ホームレスに食べさせてもいいし、妻にハンドバッグを買ってもいいのです。私がお金を治め支配しコントロールするのです。決して逆ではありません。
たましいを素早く貧しくするのは、お金の奴隷になることは私たちのたましいをあっと言う間に貧しくします。
経済の王国を治めるための4つのことを申し上げます。
1.豊かに与えること
2.満足すること( 足りないものがあっても喜びを奪われない決意)
3.物を購入する時の知恵(安物買いをしない等)
4.賢明な投資
神の国に生きる人生
自分の人生を治めるとは、家族や友人の意見に左右されたりコントロールされないことです。人生の成功とは、人々を愛し助けることに成功することです。
たとえば、近所の人が来て「あなたのお子さんたちのあなた(親)に対する態度はうちの子どもと違ってすばらしいわ。どのように育てたんですか?」と言ったとします。彼らはイエスのことを知りたいと言って聞いたきたのではなく、あなたが住んでいる御国のことを知りたいのです。彼らははっきりそうは問いませんでしたが、実際はそれが彼らの質問なのです。そうであれば、あなたは彼らが主の麗しさを味わい見る機会を与えることができるのです。
皆さんは全員、自分の人生を治めるように神によってデザインされたのです。
神はすべての者に賜物を与え、人々の先頭に立ち、お金を、借りるのではなく、貸す者とされるのです。もし今そのようでない人も、本当はそれがあなたの受け取るべき分であることを知ってください。私たちの思いを神が実際に備えてくださっているものに合わせていかねばなりません。
あなたは人生に君臨するようにデザインされているからです!王なるお方が人となってくださったが故に、人が王になれるようになったのです!(終り)
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