「神に近づいて行く」ビル・ジョンソン
Drawing Near to God – Bill Johnson
同時通訳:相馬伸子
マルコ 7:25-30、箴言 25:2
エリックが最近礼拝の中で癒しの証しを読むことから興味深いことが起こっています。
証しをすることは「イエスの証しは預言の霊です」と御言葉にあるように、主がもう一度その証しを通して働かれてることを約束しているからですが、証しを聞いたことで、奇跡的な癒しが起こっています。それは本人ではなく友人や家族がその病を患っている人が、まるで代理人のようにして祈りをこの場所で受け取り、祈りが終わって対象である人に携帯で知らせてもらい、24時間で癒しがあったら報告してくれませんがという形をとっていますが、先週はライム病の癒しの証しと祈りをしましたが、私の友人のレベッカさんは友人セーラさんと2人の娘達の為に代理人として立っていましたが、祈りを聞いた娘さんが手を動かしたら、痛みがさり、次の朝には完全に癒されて3人とも飛び上がって動くことができたそうです。
神は私達が臨在と声を聞くことができるように最初からデザインしています。
「私は神の声が聞こえないけど、臨在で平安を感じます」という方がいますが、それは神の声を聞いているということです。
また、臨在は体で感じる事もありますし、神は色々な方法を使います。ある時、数年にわたって主の炎の臨在が私の右側の肩に感じられました、数人だけに知らせてその臨在を感じている時にそこに手を置いてもらうと彼らもその熱気を感じたくらいでした、預言者のボブ・ジョーンズ師に聞いたらすぐに「それは聖霊が鳩のように現れている」と教えられました。
主は私達が驚く、呆れるような事を意図的にされる時があります、それは私達と主が会話をしたい時です。時に主は私達の心にある頃を見せる目的で私達の思いが不快になるような事をもされます。
例えば、イエスがフェニキア人の女性に「こどもに与えるパンを子犬はあたえません」と言いましたが、この事で教会が分裂した事があるのです。私達が奇跡を受け、保ち続ける力が必要なのですが、不快感に勝利して、必要な力がつくのです。
なぜ、主は不思議なこと、謎をとおして私達に語るのでしょうか?
それは分からないので、私達が主に聞くことから、相互関係の会話ができるからです。
主は私達と会話をしたいのです、箴言25:2は事を隠すのは神の誉れ、事を探るのは王の誉れとあります。私達は王である祭司です、王とされているのです。
私達から主が隠しているのではなく、会話をして一緒に旅路を歩み、私達が見つける事、探りだすことは私達に与えられた役割です。
英語動画(要登録):https://www.bethel.tv/watch/7611