エペソ1:1を読みましょう。
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの汚れた罪人たちへ。
え?違いますよね。罪人ではなく、聖徒と書いてあります。
そうです。
あなたは、恵みによって救われた罪人ではなく、罪人でしたが、あなたは、キリストを信じて、罪人の性質の自分が死にました。
あなたは、神様によって新しく生まれ変わり、キリストの中に置かれ、神の義となりました!
聖徒という言葉は、新約聖書の中、訳によって、45回~64回ぐらい使われています。その全部は、あなたについて使われています。
イエス様、パウロ、ヨハネの教えの流れを全部見て見ると、クリスチャンはもはや罪人ではなく、罪の奴隷ではなく、聖徒です。義人です。
言葉の定義
イエス様の十字架の働きの素晴らしさ、また、自分はその十字架によってどれ程新しくされたかをもっと理解し、信じて、感謝することができるように、少し私達の「肉」である罪の本質、と私達の肉体、つまりこの体、そして、私達の新しいキリストの本質を定義しましょう。
罪の本質
全ての人間には、生まれながらの罪の本質があります。これは、新改訳聖書には、「肉」として翻訳されています。
注意してください。新改訳と多くの日本語の聖書は本来のギリシア語(sarx サークス)、に忠実で、「罪の性質」と「肉体・体」にも同じ「肉」と言う原語が使われています。しかし、著者の考えは全然違います。他の訳、現代訳・リビングバイブルなどは、この「肉」の言葉を「古い人・古い性質」と訳していますし、英語の訳も、もっと明確に「罪の性質」と訳しています。
リビングバイブルには、こう書いてあります:
ローマ 7:5
「あなたがたの古い性質がまだ生きていた時には、罪深い欲望があなたの内部で跳びはね、神様のご命令には何でも逆らい、罪深い行ないという、死に至る腐った実を結びました。」
新改訳と他の日本語訳は殆ど「肉」と訳しますが、この「肉」、またこの「死」も、肉体のことではなく、霊的な状態を表しています。
簡単に言いますと、この状態では「罪を犯すことは、自然、当然」の本質です。
肉体
この罪の本質の肉は、私達の肉体とは違います。
ギリシア語は同じ言語を使いますが、その意味の違いはかなり明確です。
たとえば、何回も、パウロは、あなたは「死んだ」と言います。もちろん、あなたの体が死んだのではなく、「罪の本質」、「古い人」が死にました。
そして、別の場所(ガラテヤ2:20)に、パウロが「今、私が肉にあって生きている」と言いますが、それは、罪の本質で生きているのではなく、この体が生きているということですね。
この肉体は、主の御霊の宮となる体です。体を大事にしてください!
(体自体が罪深いものではありません。この考え方は、グノーシス主義と言います。中世の教会に大きな影響を与えてしまいました。神様は全ての創造物をみて、「良し!」と宣言されました。)
キリストにある新しい性質
一番素晴らしいことは、私達はキリストの中にある新しい性質です。
ローマ 7:6
「しかし、今は私たちの古い人(古い性質、罪の本質など)が死んで、それから解放されたので、律法を守るという古い方法ではなく、御霊によって生れ変った新しい人を強めていただくという方法で、主に仕えているのです。」
別の箇所で、
コロサイ 3:3
「あなたがたはすでに生れながらの利己的な性質に死んで、新しい命が与えられており、それはキリストと共に神のうちに内蔵されているからです。」
あなたの本質が変わりました!
この肉という古い罪の本質が死んで、あなたは、「キリストと共に神のうちに内蔵された」、と書いてあります。
「罪を犯すことは、自然、当然」の本質から、キリストの本質に変えられ、私達は、今神を愛すること、感謝すること、従うことの自然・当然の性格になりました。
天のお父さんはあなたを見ると、あなたの欠点、失敗、罪ではなく、あなたの新しい「キリストにある本質」に目を留めます。
そして、もちろん、私達は、毎日この「新しいキリストの本質」の知識の中に、また信仰の中に成長しています。
もう罪を犯すことはできません?
罪を犯すことは、できなくなった訳ではないが、罪を犯すことが不自然になりました。
また、罪を犯さない選択が毎回与えられています。
以前、罪を犯すのが当たり前、せずにいられない、仕方ない、罪を犯しても平気でしたが、今は、罪を犯したら、これは私の本当の性質ではないことの確信が与えられます。
本当のキリストの性質に、向き直るように心が向けられます。
もちろん、自由意志によって、その「確信」を無視して、神様の恵みに背向いて、続けて罪を犯すのは、私次第です。
その罪の結果は、私の体にも、こころ、思いにも、人間関係にも来るでしょう。
哀れみ深い神様は、私が目覚めて、自分のキリストにある性質を認め、イエス様の恵みに向き直すまで、待っておられます。
罪の性質のアイデンティティの悪い結果
自分はだれであるかと理解するのは大きなことです。
この表現もあります:
「信仰によって救われた罪人だと信じれば、あなたは、信仰によって罪を犯します。」
多くのクリスチャンは、
「救われた単なる罪人だ、ちっぽけな虫、床のチリ、ほこりに過ぎない者だ。」と偽りの謙遜を言っています。
こういう考え方には、大きな悪い結果があります。
1. 罪人は罪を犯す
まず、自分を罪人と呼ぶ人は、罪人のアイデンティティによって生きるのです。
罪人は何をする?罪を犯す!仕方ない、罪人だからね。いつも罪に注目していますからね。これは、大きな嘘で、言い訳です。
2. 罪人は、十字架を信じていない
次の悪い結果:
自分を罪人だと呼ぶクリスチャンは、神様の十字架の働きは不十分であると考え、それを信じています。
「はい、クリスチャンです。イエス様の十字架を信じます。しかし、まだ罪人ですから、まだまだ罪を犯しているので、何かしないといけない。」
えっ?この「何か」は何でしょうか?
キリストの十字架に足りないことは、何がある?十字架は不十分ですか?神様の恵みは足りないのですか?
このところで、自分の力を頼るようになります。宗教のルールや掟、つまり律法に戻ります。
自分中心の信仰生活に戻ってしまいます。
3. 証しには力がありません
もう一つ、罪人のアイデンティティを持つクリスチャンは、未信者の前で証しをする時、力がありません。
もちろん、私達クリスチャンは既に完全、完璧な人間になっているのではありません。
しかし、罪からの解放があります。
そのメッセージは、大事です!この世の人々は、罪の結果によって、苦しんでいます。生きている地獄を毎日経験している中で、救いを求めています。
その中で、多くの人は、宗教に走ります。自分の行動によって、自分を磨こうとすることは、宗教のもとです。
やがて、キリスト教も、自分を良くして、自分を変えようとする単なる宗教に過ぎないものとなってしまいます。
他の宗教と同じように、何となく良い人になろうとして、実際に罪に対しては、無力だ、というメッセージを伝えてしまいます。
しかし、私達は無力ではありません!
キリストのメッセージは、愛と受け入れだけではなく、自由と解放です。
罪の赦し、心の解放です。
4. 罪人は、神様の作品を侮辱します
友人は絵を描いています。
私が部屋に入ってきて、「おかしい!変な絵や!」と、その絵に向かって言ったら、その画家を誉めていますか?
全然、誉めていないよね。
じゃあ、どうして、私達が自分を見て、また他のクリスチャンをみて「罪人」だと簡単に言えるでしょうか?
これは、自分のこと、相手のことだけではなく、造り主の働きを侮辱しています。
本当の謙遜は、自分を低くすることではなく、自分を「正しい目」で見ることです。
罪の戦い?
では、いつまでも続けて罪と戦っているクリスチャン、なかなかその罪からの解放ができない信者は、どうしたらいいですか?
まず、理解することですね。
実は罪との戦いではありません。神様でも、あなたの罪を見ていません。
罪は既に十字架のゆえに、処分されました。
何と戦っているかと言いますと、敵の嘘、自分の肉体の中の悪いくせと習慣、そして心の傷と戦っているのです。
ここでは、3つの対策を短く紹介します:
1. ローマ5:5にあるように、聖霊によって、神の愛に留まっていますか?天のお父さんに完全に受け入れられ、愛されているというアイデンティティは、人生のもっとも大切なことです。
毎日、主の安息に休んでいますか?
2. 次に、敵の嘘を閉め出し、イエス様自身の真理を受け入れます。嘘をさらけ出して、真理と入れ替えてください。
今日の話しは、その一つ。「罪人アイデンティティ」の嘘を捨てて、自分は、キリストの中、神の義だという真理と入れ替えてください。一日中この真理を宣言して、感謝してください。時間を取って、この簡単な祈りをしてください。「主よ、私が信じている嘘を示してください。また、その嘘を閉め出す真理を教えてください。」主が教えてくださることを、書いて、聖書の言葉を読み、祈りながら、真理の宣言を作ってください。
偽りの謙遜が含まれている讃美歌もありますので、嘘の宣言、告白などに気を付けって下さい!
そして…
3. 兄弟姉妹との関係の中で、助け合いましょう。これこそ、教会の一番大事な役割です。集まって、建て前ではなく、本音を話し合って、本当の自分の現状を話し、祈り合ってください。
ガラテヤ 6:1
「愛する皆さん。 一人のクリスチャンが何かあやまち/罪を犯した場合、神様を敬っているあなたがたは、優しく謙遜な気持ちでその人を助け、正しい道に立ち返らせてやりなさい… 相手の悩み・重荷を共に背負い、そのようにして、キリスト様の命令に従いなさい。」
これは、クリスチャン生活の中で、よく忘れられている大きな鍵です。
ぜひ、皆さん、こういう助け合う、支え合う関係を大事にしてください。
最後に、
自分のアイデンティティを宣言する言葉を入れておきます。どうぞ、少し時間を取って、キリストの中のあなたの本当のアイデンティティを感謝してください。
また、SOZOの解放のミニストリーのリンクを下記に紹介します。興味があれば、ご覧下さい。
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宣言する言葉
キリストの中にある、あなたの新しいアイデンティティを感謝して宣言する御言葉、いろいろ紹介します:
ガラテヤ 2:20
「私の古い罪の性質のある自分は、キリストが十字架上で死なれた時、キリストと共に死にました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉体を持ってここに生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のすべてを捧げてくださった神の御子を信じることによって、生かされているのです。」
コロサイ 3:3
一度死んだわけですから、この世に何の未練もないはずです。 あなたがたの真のいのちは、キリスト様と共に天の神様のもとにあるのです。
使徒 17:28
私たちは神様の中に生き、動き、存在しているのです。
エペソ 2:6
そして、キリスト様と共に、墓の中から栄光へと、引き上げてくださいました。 その天の領域で、私たちはキリスト様と共に、席に着いているのです。 これはすべて、キリスト・イエスが成し遂げてくださったわざに基づいているのです。
You’re Not a Sinner Saved By Grace!
Some my think the difference trivial, but living with an identity as a “sinner, saved by grace” rather than a ex-sinner who is now the Righteousness of God in Christ Jesus can have huge influence on our lives. This false humility based in humanism rather than scripture keeps many Japanese Christians bound to an old covenant identity, and constantly struggling against something that Christ has already dealt with at the cross.
This brief teaching addresses this issue head-on.
Please pray for the church in Japan to be set free into the fullness of their identity in Christ!