あなたは、神の栄光です。

人間はみんな、神の栄光の表れです。
栄光というのは、神様によって作られた目的の只中に生きる中に表されます。
鳥が飛ぶ時に、神に栄光を与える。
魚が泳ぐ時に、神に栄光を与える。
花が咲く時に、木が実を結ぶ時に、神に栄光を与える。
人間も、神様に与えられた目的を果たすこと、神様の子供として生きること、そして他の人との兄弟姉妹としての愛の絆を育んで、その中に成長すること、これこそ神の栄光です。
それだけではなく、人間は神様に形どって作られたので、創造するために作られました。
わたしたちが、創造する時に、神に栄光を与えます。
画家が、絵を描く時、
ミュージシャンが、音楽を奏でる時、
シェフが、料理をするとき、
スポーツマンが、競技する時、
介護師が、人を世話する時、
技術師が、ものを作る時、
清掃の人が、掃除する時、
会計士が、経理をする時、
学生が、勉強する時、
お母さんが、子供を慰める時、
お父さんが、家族を養う時、
夫が、妻を愛する時、妻が夫を敬う時、
友達が、話を聞いてあげる時、励ましあう時。
どうぞ、自分の置かれている場所、共同体、家族、職場、学校などを考えてください。
あなたがその中で、一番神様から与えられた賜物を生かすことが出来るのはどこですか?また、いつですか?
炎 のランナー、エリック・リデル選手は、走る時に、「神様の微笑みが見える」と言いました。
皆さんは、一週間の間、神様の微笑みが見えていますか?
人からの栄光や賞賛ではなく、神様の微笑み。
ある人の賜物は、公に見えます。あるのは、隠されています。でも、神様の目では、違いはありません。
多くの人は、神様に与えられた賜物よりも、人を喜ばすために、人に押し付けられた役割を果たそうとしています。自分らくしくないことをしようとしています。
もちろん、誰でも日常の平凡なことに忠実に仕えなければ行けません。ここで言っているのは、そういう意味ではありません。
神様のためにではなく、人のために、人を恐れるから、将来を恐れるから。
この課題は多くの物語のテーマですね。
医者さんの子供は、医者さんになるよう期待されますが、本当はミュージシャンになりたかったとかね。
また、よく教会の中で、献身者と献身者でない人の差をつけてしまいます。
わたしは、単なる主婦。牧師のような偉い人ではありません。
家族のことで忙しすぎて、献身できません!
違います!イエス・キリストにあるものは、皆、献身者です!
この意味で、神学校に行ったことのある人、行ったことのない人、違いはありません。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ 12:1

フルタイムの働き人、一般の仕事をしている人、無職の人、病気や障害によって仕事のできない人。
皆、一緒です。
それぞれの役割と賜物が違うだけです。
これこそ、マタイ25章のタラントの話の意味ですね。
皆が同じ賜物、能力や才能を与えらえているのではありません。
でも、比べる必要はありません。
比べてはいけません!
比べることは、悪魔からです。比べることによって、サタンはアダムとエバを誘惑しました。
アダムとエバは、すでに神様に形どって造られたのに、サタンは、「神様のようになるために」これを食べなさい、と誘惑しました。
アダムとエバは、自分の与えられたことに満足せずに、不従順によって、神様の目的から離れて、栄光を失ったのです。
自分のアイデンティティを疑うことによって、アダムとエバは、神の栄光を失いました。
自分は、すでに神様の栄光だと覚えて下さい。
ほかの人と比べないで、自分に与えられている信仰や賜物、能力、才能に応じて、神様に栄光を返しましょう。
神の栄光について、この有名な箇所があります:

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなった。」ローマ 3:23

もっと深くその意味を見ますと:
すべての人は、神様から与えられた目的から離れて、神様の栄光から落ちてしまいました。
堕落した、ということですね。
しかし、この箇所は、もっと長い箇所の真ん中にあります!
全部見て見ましょう:

「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯して、的を外れたので、神からの栄誉から落ちましたが、神の恵みによって、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたのです。」ローマ 3:22-24(日本語の聖書と英語の聖書からの意訳)

すべての人は、神の栄光から落ちたが、すべての人は、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められた。
その和解を実際に経験するためには、どうすればいいですか?
信じればいいです。
信じるだけです。
信じる前でもこれは真実ですよ。ただ、信じることによってあなたには、実際にその実を食べれる事が許されています。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」ヨハネ 3:18

信じること、信じないことは、あなたの選択です。
そして、あなたはその選択の結果、その実を食べます。
放蕩息子は、旅に出る前も、お父さんの子供でした。
放蕩している時にも、豚小屋にいる時でも、お父さんの子供でした。
ずっと豚小屋に留まっていても、それは変わりません。お父さんの子供でした。
しかし、彼が家に戻ってきて、宴会に入ってきた時に、本当にお父さんの子供として生きる事の実を味わいました。
お兄さんも、人のために、義務的に宗教の掟を守って、人の前に褒められるために、奉仕をしていました。
自分の正しさ、自分の義を信じていた、お兄さん。彼も同じお父さんの子供でした。
宴会の外にいて、拗ねていた。お父さんの子供でした。
お兄さんが結局、宴会に入ったかどうか、書いてありません。
みなさん、どんな背景があっても、あなたはその宴会に入ることが一番神様の子供らしいことです。
あなたは、神様の子供です。
神の栄光、そのものです!
ほかの人のように振る舞うことを止めましょう。
人のために演技することを止めましょう。
自分らしく、神の子供として生きることによって、神に栄光を返しましょう。
あなたは、自分に与えられた賜物、才能、能力を生かすことによって、神に栄光を返しましょう。
あなたの家族、友人、知り合いは、その栄光を待っています。
よかったら、今週、祈りの中で、聖霊様を歓迎して、自分らしくない、考え方、振る舞いなどを示してもらいましょう。
そして、神様の目から、天の神様はどのようにあなたを見ておられるかと、教えていただきましょう。
神様が示されることを、イエス様にゆだねましょう。
もっと自由に、もっと神様の子供らしく、歩みましょう。