今日は、十字架についてのいくつかの勘違いを見てみましょう。
十字架は、私達クリスチャンには、信仰の一番中心、一番美しいことであるべき、本当によく理解しなければならない事です。
今日からは、3回に分けて、神様の十字架の御業を見ましょう。
この話を通して、イエス様の十字架がどれほど素晴らしく、神様の愛はどれほど大きいのか、私たちがもっと理解できるように祈っています。
十字架の福音は、本当にそのまま、福、音:祝福の音、良い知らせ、グッドニュースだと確信が与えられますように。
まず、このような福音の伝え方を聞いたことがあるでしょうか?
私たち人間は、罪を犯しました。
神様は罪を見ることができず、神様は私たちを敵とみなし、私たちから離れてしまいました。
神様は、正義をもたらさなければならないので、裁判官のように、罪の罰を下さなければならない。
と同時に、神様は、私たちを愛してくださって、私たちのために、ご自分の御子キリストを送ってくださいました。
イエス様が、十字架につけられた時、私たちの罪を全部背負ってくださいました。
そのことによって、天のお父さんはご自分の息子、イエス様から背を向けられました。
神様ご自身が、私たちの上に下るべき天のお父さんの怒りが、変わりにイエス様の上に落ちました。
そのために、イエス様が死なれ、天のお父さんの怒りがなだめられました。
この話は、一部真理、一部勘違いです。
実は、この説は11世紀に広まって、刑罰代償説と言われ、現在のほとんどの福音派の教会が認める説ですが、その前の初代教会からほぼ1000年間の教会歴史の間では、信じてなかったことです。
この話を聞いて、そのまま受け入れた多くのクリスチャンは、神様について大きな疑問を抱いています。
今日は短く話しますが、皆さん、どうぞ今日の話の一つ一つのポイントを自分の聖書の学びの時、また小グループの時に、祈りながら、話し合って、調べてください。
1:「神様は、罪を見ることはできません。」
この考えは、ハバクク1:13 からきます。
預言者ハバククは、主に尋ねます:
「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。」
預言者は、混乱しています。
「神様!あなたは、聖いお方です。罪を見ることはできないでしょう!じゃあ、どうして罪人を見ておられますか?」
この御言葉の半分は、「神様は、悪を見ず、罪に目を留めることができない。」そのまま、よく間違えて引用されています。
しかし、その真理は何ですか?
神様は、罪人の友達、仲間、味方です。
ルカ7:34
「また人の子がきて… 取税人や罪人の仲間だ…」
私たちが罪人の時から主が私たちを愛してくださいました。
ローマ 5:8
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
神様の完全な代表となるイエス様は、罪人と沢山の時間を過ごしました。
私たちが、まだ罪人の時に、神様が私たちを愛の目で見て、私たちを祝福しようとされました。
今でも、神様は未信者の友人、家族、知り合いの一人一人を愛の目で見て、祝福しようとしておられます。
また、私たちが今でも失敗して、罪を犯してしまったとしても、神様は目をそらすこともなく、離れることもなく、私たちがただ向き直して、その
素晴らしい恵みを受けるように、さらに続けて愛してくださっています。
みなさん、私たちも、未信者や罪人を神様の愛の目で見ていますか?
2:「イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられました。」
この勘違いは、イエス様の言葉に基づいています:
マルコ 15:34
「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
その後すぐ、イエス様は、「完了した」と言われ、死なれました。(ヨハネ 19:30)
しかし、実はイエス様はここでは、詩篇22編の最初の節と最後の節を引用して、その詩篇全部を宣言しているという当時のユダヤ人の習慣にならって言われたのです。
詩篇 22:1
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
そして、22編の最後の節:
31節
「主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。」(口語訳55年)
ヨハネの「完了した!」は、詩篇22編の「主がなされた。」と一緒です。
しかし、この詩篇を全部見る必要があります。22編は全部、苦しんでいる救い主の話です。これこそ、キリストの受難です。
まず、気づいていただきたいことは、
1節から21節まで、救い主は、完全に人間として敵に攻撃され、さげすまれ、拒絶されます。また神様にも「見捨てられた」気持ちを経験します。
十字架につけられる前のイエス様は、仲間に裏切られ、ゲツセマネの園で十字架のことを考え嘆かれました。そのすぐ後、悪い人の手に渡されて逮捕されました。イエス様は、その弟子たち、一番親しい友人たちに、捨てられました。
十字架に向かう道でも、十字架の上でも、イエス様は、完全に私たちが経験する苦しみと拒絶感を経験されました。
私たちと同じだけではなく、私たちとして、その全部を経験されました。
私たちに完全に同情できるだけではなく、私たちの代わりに、その全部を経験された救い主です。
イエス様は、人間に捨てらましたが、神様には、捨てられませんでした。
どうすればこれが分かりますか?
まず、その同じ詩篇 22編
24 「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」
また、
ヨハネ16章32節
「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます… しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
また、イエス様は十字架の上で、祈られました。
ルカ 23:34
十字架の上で、イエスはこう言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様が、天のお父さんに見捨てられたならば、どうして今イエス様は祈っておられるのでしょうか?
いや、イエス様は、十字架の前でも、その上でも、見捨てられた気持ちを経験されましたが、決して天のお父さんに見捨てられてはいなかったのです。
あなたも、わたしも、どんなことがあっても、人間に拒絶されても、神様に見捨てられたと感じても、実は、ぜったいに見捨てられていないのです。
例えば、私たちがひどい罪を犯しても、神様は、私たちから目をそらすこともなく、離れることはありません。
私たちがその素晴らしい赦しと恵みに向き直すように、招き、待っておられるだけです。
もう一度言います。
天のお父さんは、あなたの未信者の友人、親戚、知り合い、そして、神様のことをまだ認めていない全ての人を愛の目で見ておられます。
罪のどん底いる人、罪深い生活をしている人でも、神様が見ておられ、捨てはいないのです。
今回は、この二つの勘違いを見ました。
1:「神様は、罪を見ることはできない。」ではなく、愛の目で、罪深い人間を見ておられます。
2:「イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられた。」のではなく、天のお父さんは、イエス様から離れませんでした。
更に、十字架の素晴らしさに感動して、神様の愛と恵みはどれほど大きなものかを知ることができるように、祈っています。
また、毎日その豊かな恵みにとどまり、常に感謝して、本当に良い知らせ、福音を未信者に知らせることができるように、祈っています。
次回も、続けて、大きいな十字架の勘違いを見てみましょう:
・天のお父さんは、十字架の上におられるキリストから離れましたか?
・神様は、その怒りをイエス様に注がれ、それによってイエス様が死なれましたか?
・罪人は、神様の敵ですか?
を見てみましょう。
Mis-understandings of the Cross – Part 1
As followers of Christ, the cross is central to our faith and lives.
However, the doctrine of penal substitution that is believed and promoted by most evangelicals embraces some big misunderstandings. Believers who take this doctrine without examining it thoroughly may end up with some rather large doubts about the nature of God.
In these next three sessions we will take time to look at the cross and some of the common misunderstandings surrounding it.
Please follow up with your own reading and prayer of the relevant scriptures and once again worship God for the fullness of the cross!