前回のメッセージの続きです。
前回、私たちの目の前には、宴会、溢れるばかりのぶどう酒、また、私たちの中に常に湧いている聖霊様の泉があると話しました。
私たちは、足りないところからではなく、満ち溢れる所から始まり、主の宴会と豊かさをもっともっと楽しむことができますし、もっともっとその祝福を人々に分けることができます。
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」マタイ 10:8
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます… あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ 6:38
「キリストにあってすべての良いものを知ることができるように、あなたがたが信仰を積極的に分かち合うように祈っています。」ピレモン1:6(英語からの意訳)
今日は、関連しているテーマですが、神様の「訪れ」、つまりよく言われる「リバイバル」について御言葉と初代教会の見本を見たいと思います。
多くのクリスチャンは、リバイバルのためにいつも祈っています。
また、「主よ。天を開いて降りて来てください。」という祈りもよく聞きます。
どうしてこの話をするかと言いますと、多くのクリスチャンは、リバイバルと主の訪れについての勘違いを抱いているのではないかと思うからです。
既にある命を、どうして更にいただくように祈りますか?
キリストを通して、既に開かれた天、どうして旧約聖書の原則に戻り、続けて「主よ。天を裂いて降りて来てください。」(イザヤ64:1)と祈りますか?
キリストを通して、既にいただいた永遠の豊かな命、どうして旧約聖書の原則に戻り、続けて「主よ。私たちを生かしてください。リバイバルを与えてください。」(詩篇80:18)と祈りますか?
私たちクリスチャンは、まずキリストにあって、どれほどすでに持っているかを、しっかり知り、また信じる必要があります。
と言いながら、神様の訪れについて話すと、本当に唯一の原則は、詩篇105:
「われらの神は天におられる。神は御心にかなうすべての事を行われる。」詩篇115:3(意訳)
すべての主権を持っておられる全能の神様は私が考える、また望む通りにするのではなく、ご自分の御心通りに行われます。
ですので、神様の訪れについて、人間中心、私たちの行動を中心にしてはいけません。
私たちは、いくら祈っても、行動しても、神様を操作することはできません!
リバイバルを見てみましょう:
まず、私たちの言葉使いを考えましょう。リバイバルを定義しましょう。
リバイバル:日本の教会では、リバイバルと言いますと、おそらく収穫を考えます。多くの未信者が、神様を認めて、イエス様を信じて、教会にくるようになることです。
しかし、リバイバルの本当の意味は、復活、命を取り戻すこと、詩篇80:18の生かすこと。これは、歴史的には、教会・クリスチャンが冷めた時に、最初の愛を忘れた時に、人は、聖霊様の導きによって愛と信仰を奮い立たせることができる。時には、強く聖霊に触れられたり、時には、深い悲しみと悔いる気持ちで、人は、神様の道に戻りました。
リバイバルの必要の状況は、黙示録に出るエペソの教会の警告ですね:
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、(向き直して)初めの行いをしなさい。もしそうでなく、向き直すことをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」黙示録 2:4-5
始めの愛を忘れた人。
マリヤのように、イエス様の 足元に座って、その愛の中に、神様との交わりを楽しむよりも、私たちは、マルタのように、神様のために、働き、奉仕のために、走り回っていませんか?始めの愛を忘れてしまってはいないでしょうか?
じゃあ、向き直して、始めの行いをすればいいですね。
始めの行いは何でしたか?皆それぞれだと思いますが、おもに休むこと、安息に入ること、受けることです。素直に神様の愛をいただいて、聖霊様の平安と喜びに溢れること。
「燭台を取り外す」警告は、教会全体に書いてあります。エペソの教会のすべての人が神様の愛を忘れたわけではないと思います。
しかし、エペソ教会の文化、雰囲気、環境が、神様との愛の関係を強調するよりも、他のことを強調するようになったでしょう。
そのために、この警告は、ヨハネを通して与えられました。
ビルジョンソン師がよく言うことです:
「リバイバルのために祈るのではなく、リバイバルをそのまま持ったらいいです。」
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ 60:1
リバイバルのために祈って、特別どこかからか不思議な表れを求めるのではなく、この始めの愛を忘れた状態に気づき、聖霊様の命令を、思い出すのです!始めの行いをすることです。
簡単ですね。
では、最初の質問に戻ります:リバイバルのために祈ってもいいですか?
ぜひぜひ、自分でイエス様の満ち満ちた豊かさの中に留まりながら、聖霊様の導きによって、日本の教会、クリスチャン、また世界の教会とクリスチャンの知恵と啓示、復活、豊かな命、癒されること、生かされること、そして満たされることのために、どんどん祈ってください。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ 6:18
どのような祈りですか?
パウロのエペソ1章の祈りは素晴らしいですね。
気づいていただきたいことは、パウロの祈りは、全部、新しいことが与えられるために祈ってるのではなく、既にあることをもっと知ること、理解すること、そして経験ができるように祈っています。
この後、ぜひ下記のリンクで、一緒に教会とクリスチャンの仲間たちのために祈りましょう。
「教会のリバイバルのために祈りましょう。」
パウロがエペソ人への手紙1章の祈りによって、教会のために祈りましょう。
私たち教会がキリストにあって既に持っていることを気づき、知り、経験することができるように、目が開かれるように祈りましょう。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように祈ります。」(エペソ 1:17)
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、知ることができますように祈ります。」(エペソ 1:18)
「聖徒の受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、知ることができますように祈ります。」(エペソ 1:18)
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように祈ります。」(エペソ 1:19)
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ 1:22)
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ 1:23)
Should We Pray for Revival?