キリストの体、キリストにある兄弟姉妹、教会、つまりエクレシアは、主に呼び出された者達、聖別された者達として、集まる理由が沢山あります。
この地上を歩き回わり生きている主の宮として、不思議に神様と結び付けられていることによって、お互いに不思議に繋ぎ合わされているものが一つのエクレシア、教会です。
(教会のギリシャの原語は、エクレシアです。教会と言う言葉に余りにも慣れすぎていますので、思いの一新のために、今後は、エクレシアという本来の言葉を使わせて頂きます。)

マタイ 18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

この御言葉は、エクレシアの基礎です。
集まり、交わり、励ましあい、助け合い、支え合い、愛し合い共同体が、エクレシアです。
また、パウロが、エクレシアについて、次の偉大な預言をしています。

エペソ 3:10-11「これは、今、天にある支配と権威とに対して、エクレシアを通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」

2-3人でも、何千人何万人でも、エクレシアとして集まる理由が沢山ありますが、「義務を果たすこと」はその理由の一つではありません!
しばらく前に、私たちの唯一の義務として聖霊様によって愛し合うことについて話しました。まだ聞いておられない方は、そのメッセージを先にお聞きください。
日本の社会には、義務が沢山あります。
多くのクリスチャンは、教会に行き始めると、神様や、教会からも果たすべき多くの義務があるのを感じます。
以前、「信仰生活のためには、祈る義務、聖書を読む義務、断食する義務はありません。」と言いました。
私たちは、キリストにあって自由となりました。
自由となった私たちは、イエス様にあるその自由をもっともっと理解し、経験し、楽しむために祈り、聖書を読みます。
それらは義務ではなく、私たちの自由意志によって、自分を強め、心の一新のために、選ぶ行動です。神様に近づくように感じるけど、実際は、そうではなく、既にキリストにあって神様と結ばれています。
そして、結婚関係の中でもっと二人の関係を楽むように、神様やキリストにある兄弟姉妹たちとの結びつきも更に理解し、経験し、楽しむ事が今から後も永遠にできるのです。
さらにキリストにある自由を経験するために、先輩達の歴史から少し理解する必要があります。
旧約聖書の祭司制度を見てみましょう。
モーセは、奴隷として捕われているイスラエル人を解放するために、神様に用いられました。
神様は、イスラエル人全員に直接語り、繋がり、関わることを求められました。
しかし、イスラエルは、国として、神様との直接的な関係を拒み、モーセ、つまり人間の祭司を通して神様と関係を持つことを求めました。

出エジプト記 20:19「彼らはモーセに言った。『どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。』」

これは、神様が望まれた関係ではなく、イスラエルが恐れによって選んだ道です。ここで、神様は怒り、その民を拒絶し、滅ぼすことなく、恵み深く、哀れみ深いお父さんですので、その民の願いを叶えてくださいました。
モーセを通して、イスラエルの民に、話しかけ、全ての必要を満たし、また導びいてくださいました。そのことに気づいてください。
数百年後同様に、1サムエル 8章では、
イスラエルの長老たちは、士師であり預言者サムエルのところにやって来て、こう言いました。

1サムエル 8:5「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」

また、イスラエルの民は、神様と直接的な関係を拒否し、祭司や代表者などの人間を通して神様と関わることを選んでしまいました。
しかし、神様は、恵み深く、哀れみ深いお父さんですので、その民の願いを叶えてくださいました。
神様が、イエス様を私たちに遣わし、十字架を通して、完全に神様と和解してくださいました。私達信じる者は、まず一人が神様と直接関わり、親子、夫婦関係のように、その中で成長し、神様の御声に聞き従い、愛し合う関係を育みます。

1ペテロ 2:9「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」

今現在、あなたは、祭司です。直接神様の前に生きている祭司です。顔と顔を合わせて、神様と関わっている祭司です。
いつか、そうなるのではなく、キリストにあって選ばれた者として、現実の今の姿です。
なのに、多くのクリスチャンは、まだまだ旧約の祭司制度のように、牧師、教師、先生、親戚、友人などを通して神様と関わること、神様の御声を聞くことを委ねてしまいます。
神様と直接関わることができると信じないかもしれないし、目で見えない神様よりも、目に見え、耳で聞こえる人間、また人間が作ったルールの方が確かであると思ってしまいます。
特に日本文化においては、「先生」、「師匠」、「弟子」など上下の関係が強調されています。もちろん、教師、牧師、預言者、また霊的な父親、母親、兄弟姉妹は、信仰生活には大きな役割があります。ただ、私たちが、神様と直接関わる代わりに、人間やそのルールに頼るべきではありません。

マタイ 4:4「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって」生きるのです。

神様があなたに直接与えたい言葉や導きなどを人間から求めることは、偶像礼拝、または占いのようなものですよ。
弟子訓練では、人がキリストに信仰を持った直後から(実は、その前からも)神様の御声を聞き分けることを勧めて励まし、また訓練しなければなりません。

ヨハネ 10:27「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

預言者などの特別の人だけが神様の声が聞こえるのは、嘘です。あなたは、イエス様の救いを信じるためには、既に神様の声を聞いていたのです。
あなたが知らないうちに、一日中、神様の声を既に聞いています。ただ、私達は、それに気付き、さらにその御声に応答し、その中に成長していくこと、これこそ信仰生活です。
どうして神様の声を聞くことを教会・エクレシアの話しの中で、これほど強調しているのでしょうか?それは、エクレシアが正しく機能するためには、一人一人の器官が頭なるイエス様と直接繋がっている意識が必要だからです。
私達は、皆全く同じレンガではなく、、、

生ける石です!

1ペテロ 2:5「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊の いけにえを ささげなさい。」

それぞれの器官が直接頭と繋がって、神様と顔を合わせて、御声を聞いている毎日の中で、一つの体として進むために、御言葉、教え、啓示、証し、預言、賛美などを分かち合います。兄弟姉妹として集まる時に、全ての器官から受けるべきものがあります。
それは、パウロがエペソ 1:18 に祈った「聖徒の受け継ぐもの」ではないでしょうか?

「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、、、知る事ができますように。」

クリスチャン生活の成長のために、とても大きな鍵は、与えることです。
クリスチャンになって成長してから与えるのではなく、信じる前からでも、神様から受けたことを互いに分かち合うべきです。
私達の集まりの中で、未信者や、子供でさえ神様に耳を傾けて、神様に聞き従う決断をすることを積極的に教えています。その集まりをリードする長年のクリスチャンは、何度も彼らから教えられて本当に驚きつつ、大きな祝福を受けています。栄光に富んだ遺産を受け継いでいます。
私達が師から受け身的になるだけではなく、エクレシアとして集まり、主から受け継いだ命を積極的に分かち合うべきです。

1コリント 14:26「兄弟姉妹たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」

それぞれの器官が頭なるキリストと繋がり、生ける石として、霊の家に築き上げられていきます。教会に行く義務ではなく、その霊の家が建てられるために、集まり、賛美し、互いに教え合い、祈り合い、励まし合い、助け合いましょう。
最後に、エクレシアについて神様の素晴らしい約束を見ましょう。

詩篇 133:1「見よ。兄弟姉妹たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。 3「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」