日本の文化には、イエス様と直接繋がり、成長するために、大きなチャレンジがあります。
日本の文化は、先輩/後輩、先生/生徒、上下関係、封建制度を強調します。
しかし、神のみ国、イエス様ご自身またその教えは全部、逆さまです。下から上です。
小さいものが一番偉い、偉大です。子供のようにならなければ、神の御国には入れない。
マタイ 20:16「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
マタイ 23:11「一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」
ピリピ 2:3「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
御国は、家族のようです。親が子供を育て、その子が自分より優れたものとなるのは、親の栄光です。
イスラエルの文化は、親がずっと上にいるのではなく、子供が大人になると、お父さんとお母さんの横に来て、平等に関わり合います。
しかし、皆さんがよくご存知のように、アジアの文化、特に日本では、親は子が何歳になっても、子の上にいる文化です。
国民の思想も、振る舞い、言葉使いも全部これを反映しています。
例えば、90歳のおばあちゃん、65歳の息子にでも、子供の時と同じような言葉遣いがあります。
アダルトチルドレン、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」現象の原因の一つではないでしょうか。また、日本の引きこもりの問題もこのところに関係があると思います。
少しだけ交流分析という心理学の思想を見ましょう:
(交流分析の説明)
人は皆、三つの自我があると言われています。「親」、「成人」、そして、「子供」
良くても、悪くても、私たちは、色々な関係の中に、この三つの自我の一つから人と接します。
どんな環境の中でも見れる現象です。夫婦関係、家族関係、友人関係、会社、学校、スポーツクラブ、幼稚園の子ども同士でも!
そして教会の中でも見れることです。
「親・先生」の立場を強調する自我から人と関わるなら、周りの人が「子供」になります。特に日本の文化の中ですね。
私たちクリスチャンは皆、国籍は天国、神の御国の人として、まず人を成人として関わるべきではないでしょうか?
上に立つ親ではなく、成人として、相手を成人のように扱い、成長を共に助け合う。
先ほどの言葉の続き:
ピリピ 2:3-4「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
この交流分析、自我の研究は、興味深く複雑ですが、今日は、簡単に考えていただきたいと思います。
あなたは、クリスチャンとの関わり、関係の中、常に人を成人として扱っていますか?
覚えてください。本当の親の役割は、子供が成人となるまで育てることですね。
時間のことではなく、精神的な発達ですね。子供が親のように、成人となり、もはや下ではなく、横に立つようになります。
また、子供が親より優れたものとなるのは、親の喜びですね。
私の息子3人います。色々な面で、色々なことで僕より上手になること、僕より愛の溢れる人、神様を愛する人になってくれたら、これこそ私の喜びですね。
なので、年齢によって変化がありますがある程度、親は「親」の自我ではなく、成人の自我から接して、子供も「成人」となるように、成人の自我から生きるように引き上げてあげます。
そのため、霊的なお父さん、お母さん、牧師、教師、長老も皆、リーダー、メンターも、「親」の自我でななく、「成人」の自我から人を扱えばいいのではないでしょうか。
多くの牧師、リーダー、教師が全然その「親」になるつもりがなくても、多くの人は自動的に「子供」の自我から接して、先生に依存してしまいます。
小さい時から、自分の意見や主張をしっかり持つことを強調されていない日本の教育の中、人は、専門家、先生に頼るパターンが多いです。
では、日本の文化、西洋の文化を少し分析して、吟味しながら、それを一旦横に置いて、御国の文化、シンプルチャーチと弟子作りのための環境を考えましょう。
これはイエス様が見せてくださった心、そして、多くの聖書の言葉で、私たちに命じられたことです。
今日も、聖霊様と一緒に、少し難しい質問を考えながら、祈りましょう。
- 人間の祭司が神様と人の間に立つのではなく、一人一人が直接イエス様と繋がるように勤めていますか?
- 人間に依存するのではなく、互いの関係を保ちながら、イエス様の言葉と聖霊様の臨在に刷り込むように、どのように指導していますか?
- 私たちの態度、言葉遣い、顔つき、振る舞いの全てにおいて、人が自分より優れたもの、もっと成長するように、勤めていますか?
- 私たちの様々な人間関係の三つの自我を考えましょう。その関係は、親子関係ですか?それとも、成人同士ですか?
- また、具体的に、どうやって成人同士として扱うことができますか?