英語の動画:
https://mikebickle.org/resource/when-is-the-rapture/
多くの人は、携挙はいつ起こるかと疑問に思っている。
過去150年間のアメリカのキリスト教には、3つの主要な視点がある。
この3つの視点は、アメリカの宣教師が送られた世界各地でも見られる。
この150年間にアメリカの宣教師が行かなかったところでは、これらはそれほど顕著ではない。
重要なのは、アメリカ人はアメリカのレンズを通してキリスト教全体を見るが、
アメリカはキリスト教史の内のただ一国に過ぎない。
患難前携挙、つまり患難時代の前に携挙されるという教義は、この150年の間に広まった。
患難時代は7年か、3年半かの説がある。
そのことには今は触れない。
しかし、患難前携挙節は、歴史的にかなり新しい教理である。
2000年のキリスト教史の中で、主にアメリカ人に一般的な教義となったのは、ここ150年ほどのことだ。
1900年近くは、その教義はほとんど語られなかった。
その痕跡はどこにも見当たらない。
紀元300年にこの説の存在を主張する人たちもいるが、真実はわからない。
しかし、確かに99.99%、1800〜1900年の間は、教義でなかった。
アメリカで一般的な見解だからと言って、聖書的な見解であるとは限らない。
私はその教義を教えている多くの人に大きな敬意を表したい。
彼らはイエスを愛し、私と同じように聖書を愛している。
私は間違った結論だと思うが、彼ら、彼らの神との歩みを尊敬している。
彼らの教えの油注ぎと恵みに敬意を表したい。
第二の主要な見解は、携挙は患難時代の終わりにあるというもので、これが聖書の見解であると私は信じている。
この見解は2000年前から教えられている。
その見解は、アメリカ以外の国々やアメリカの宣教師が遣わされた場所で教えられてきた。
アメリカからの影響を受けず、この見解を教えている団体が地球上に多々ある。
第三の主要な見解は、携挙の話し自体を無視することだ。
そのような話をして何の意味がある?
「知らない!誰が知っている?」と言う。
彼らは携挙のことをあまり考えない。
しかし、私の立場は、携挙は患難時代の終わりに起こるというものだ。
「患難」という言葉の聖書的解釈により3年半か7年とあるが、これは本当の患難時代なのだ。
患難前携挙を信じる人々は、患難の間に地上で神の裁きを受けることをしばしば恐れる。
しかし患難は、ほとんどが反キリストに対する神の裁きのことだ。
黙示録の大部分は、反キリストに対する患難である。
それは彼らに対する神の裁きであって、教会に対する神の裁きではない。
黙示録には400節(実際には403節)ある。
400節の中、教会への迫害に関する節はわずか12節である。
黙示録の3パーセントは、反キリストや闇により迫害される教会のことだ。
黙示録の97%のテーマは他にある。
黙示録の大きなテーマは、教会が苦しむということではない。
たった12節を省き、黙示録の大きなテーマは、反キリストの苦しみである。
イスラエルの子がエジプトにいたとき、モーセがパロにさばきを放ったように、終末の教会も終末のパロ、反キリストに大モーセであるイエスのさばきを放つのだ。
黙示録の災いは、エジプトでの災いと平行している。
エジプトへの10の災い。モーセがパロに放った災いだ。
それは何と3500年前の話だ。
モーセがパロに放った災いは、大モーセ、イエスが教会を通して、反キリストである終末のパロに放つ災いの写しである。
その期間は、教会にとってというよりも、闇の王国に対する患難の時なのだ。
教会にとっての最良の時となる。
終わりの時の教会は力、きよさ、一致の最高点に達するのだ。
最も素晴らしい時となるだろう。
患難が教会への裁きだと信じるなら、患難前携挙派の視点を理解することができるが、患難後の解釈を勧めたい。
それは私たち教会の最大の時なのだ。
勝利の時なのだ。
神の裁きを受けることを恐れる必要はない。
そして患難の終わりに携挙があるという聖書の証しを見つけることに、もっと心を開くだろう。