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このチャレンジを通して、つい今さっき元気になれたので分かち合いさせていただきます♪
最近、「悲しみ」と「怒り」による憂鬱さと闘っていました。(遺伝的に鬱になる可能性があるので本当に鬱かも?母も祖母も躁鬱、きっと私も。。)
このチャレンジのおかげで、他人と自分を比較して羨むことももうしなくなったし、私の必要を完全に満たすことができるのはハンサムな男性でもなく唯一世界でイエス様だけだと真実を掴んでいるはずなのに、なのに、世の中や自分の弱さ、儚さ、罪深さ、泥沼のような希望のない世界ばかりを見ていると(SNSや動画を何時間も見てしまって)病みすぎて体が重くなってしまいました。肩凝って頭痛いし、生きる活力もない。
でも今日31日目〜34日目をまとめて読んで御言葉を黙想してみると、希望が再び与えられて、生きる活力と目的が改めて与えられました!
“Companionship”(一緒にいてくれる存在)を渇望してるけど、まだ与えられていないこと(+与えられたとしても完全にわたしを満たすことはできないというドラマや映画の描写とは違う現実)に怒りと悲しみを抱いていたという事に気付けました。
神様が良いお方だということ、そして神様のタイミングを信頼する選択をします!
感謝します!
ハレルヤ!!
チャレンジを始めることを楽しみにしていて、めっちゃ恵まれると期待はしていたけど、私自身は一線は超えてないしそんなに罪はないだろうから取り扱われることも少ないかなぁと思っていた。だから、自分のためというよりレアナのお手伝いというために始めた感じでした。
恥ずかしながら、ちゃんと把握してなくてノートも用意しておらず、日々のディボーションノートで始めていた。最初の数日はサラッと流しただけでノートにも何も書かなかった。そんな中でも主は恵んでくれていたから感謝。
Day 6くらいから、じっくり主との時間を取らなきゃ勿体ないと思うようになり、ゆっくりと主と向き合うようになった。
ある日のチャレンジで、性的なことではないが、友達に謝るように聖霊に導かれた。正直23年くらい前のことだし、今更友達がその事実を知ってもイヤな思いをするだけかもしれないし、もしかしたら絶交されるかもしれないと思ったから悩んだ。チャレンジしている友達に電話して悔い改めの祈りを聞いてもらった。それだけでもいいかと思ったが、やっぱり聖霊の促しは無視できないと思い、チャレンジのことを説明して謝った。案の定、その日には返事が来ず…怒ったかなぁと思い、もう後は主に委ねるしかないと思い手放した。その晩遅くOKとの返事が来た。あ〜主よ、感謝します!罪との認識はなかったけど、黙っていたことで心苦しかったのは確かだったので、自分でも忘れているような小さな心の悩みにも、主は気に留めてくれて解放に導いてくれたことに感謝しかない。主が染みもしわもないように清めてくださっていることが嬉しい!
チャレンジを進めすごく恵まれている時に、友達からクリスチャンの結婚相談所が主催する出会いの交わりがあるから参加してみないかとの誘いがあった。今は出会いや結婚より、主に愛されているからそれで十分満足!結婚より主との愛の関係を深めていきたい!というのが即座に出て来た答えだったことに、自分自身で満足した。
年齢のことを考えると焦りはあるし、以前は結婚は待ってるだけではダメ。一歩踏み出した時に道は開けるということを言われてきたけど、『揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。』とあるように、神の時を待つことが大事だと改めて思った。それに、彼氏や結婚が私の心を満たしてくれる訳じゃないから、主との関係をしっかり持つことの方を優先したいと思う。
Day27まで歩んで来たけど、最初サラッと流したし、これからは独身についてのチャレンジになるから、もっと心から向き合いたいと思い、またDay 1 に戻ってやり直しすることにしました。笑
2回目も同じように感じていたり、また違ったことを語られたり、色々な発見があり2倍恵まれてます!
今は、もっと主を愛することを学びたい、主の清い花嫁として整えられたいと願い、まだまだ先は長いですが、チャレンジを続けていきたいと思っている今日この頃です。
純潔については、自分自身の事は断ち切りも済ませているので、何か新しい発見と言うよりは、25歳の娘と一緒に出来たらいいなと思い参加しました。
このチャレンジでは、「あなたにとって十字架は何を意味しますか?」と何度も聞かれます。
「罪が赦された」と簡単に答えてきた私ですが、今回とても深く十字架について考える機会を与えられました。
罪人と言う言葉を初めて聞いた時、「私は刑法にふれるような罪を犯した事は一度もないですけど?」と思った事を思い出されました。
そこから始まっている私の罪人の感覚は、「赦された」という感覚がとても軽いものであることに繋がってると気づきました。
なので、
*イエスはなぜ私の為に死ななければならなかったのか。
※イエスの犠牲は私に何を与えたか。
などは今まで考えたことがありませんでした。
赦された感覚が軽い事は、すぐに妥協してしまう事にも繋がっている事も示されました。
「仕えるのもこれぐらいでいいか、、」「清さも、愛するのもこのくらいで、、」と
従って行くことが、有益に感じず、楽な方へと選んでしまうことも。この妥協することを「チョコレートコーティングされたうんち」と表現されていたのには、衝撃的でした。
私が妥協し、諦め、反対を選び、新しく清められる事を拒み、何度も失敗し、主を裏切って来た時、その度にイエスは傷つき、十字架のあの日と同じように痛んでることも感じました。それでもこんな私を何度でも受け入れてくれるその愛に、もうイエスを傷つけてはいけないという気持ちが強くなりました。
私が、誘惑や罪に打ち勝つ度、清められ、主に近づき、何よりイエスが喜んでくださることが嬉しく、それが自分の自信にも繋がっていきます。
私の人生は、主が共に責任を負ってくださる。
これが、イエスの十字架の犠牲により、わたしに与えられたことです。
この真理を受け取れたこと感謝です。
チャレンジが結婚中心ではなく、神聖さに関して人々の思いを新たにすることに焦点を合わせていることに本当に感謝しています。 代わりに、神の子供たちに対する神聖さや神が意図する良さの重要性を掘り下げ、告白と悔い改めのための時間を引き伸ばしてくれると同時に、彼の死とよみがえりを通して私たちがキリストにあるという希望を常に与え、私たちが罪によって非難されなくなったことをとても喜んでいます。私は、1人ひとりの心の中で働く余地をあなたが聖霊に与えたことに感動します。それは、引き延ばされた聖書のみことばにに丸一週間を捧げ、人々にそれらについて黙想させそれらを通して祈らせることです。 私はまた、あなた自身の変化についてのオープンさ、そして神がこの分野であなたの人生でしてくれたことに感謝します。あなたの話は、神の贖いの約束を実際的なものにしてくれます。