今は十字架上で死んだイエスが、蘇り、昇天することをお祝いする季節です。一方図らずもパンデミックの真っ最中にあって、今程人間が、死を気遣う時は無いと思いますので、以下の証は大変タイムリーであると思います。そこで以前(2016年12月18日)にWWGMに載せたものですが、再載させて頂きますので、ぜひご高覧いただきたいと思います。 坂 達也
第一コリント15:1−4、20、49
「・・・しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。・・私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」
この復活の章といわれる箇所は、私たちクリスチャンの信仰生活の錨となるものであり、常に心に留めるべきものです。私たちが自分はどのような者であって最終的にはどこに行くのかを知らないならば、その時々の人生のドラマに翻弄されるだけで、神がご自分の民を召されているキリストにある栄光ある偉大な目的という大切なシナリオを見失ってしまいます。
ルカ20:36でイエスは私たちに「復活の子」というアイデンティティーを与えておられます。私たちはリアルな肉体の復活をするのです。私たちはその事実をふまえて人生を歩んでいくのです。
2週間ほど前に、私は死を真近にしている一人の女性と話す機会があったのですが、それはすばらしい希望を与える話でした。それはマーサ・スティーブンという方ですが、彼女はこの話を是非人々に伝えてほしいと言われました。彼女は私が32年前に牧会をしていた時からの友人で、非常に忠実な信徒でしたが、今は85歳を過ぎて死の床についておられます。私は彼女に電話をして「マーサ、いかがですか?」と訊きました。勿論、彼女は自分が死を迎えていることを知っていましたし、私もそれを知っていました。彼女の答えは「マイク、私はびっくりしているんですよ。本当にショックです。・・死を迎えるプロセスは本当にすばらしいわ!」と言ったのです。そして「私は死んだら天国に行くのは信じていました。それはうれしいことです。でも私はずっと死ぬのがとても怖かったのです。でも私はびっくりしました。死ぬって、とてもすばらしいのです!」私は少しとまどって「そうですか、それはすばらしいことですね。ちょっとくわしく話してくれませんか?」とお願いしました。
私は30年ほど前に、私の大好きなトピックについて彼女と話したことがありました。私は死に関する本を沢山読んでいました。・・私たちが死ぬ日は人生で最も重要な日です。その日は必ず来るのですが、人々はあまりその事を考えません。私がその研究を通してわかったことは、多くの人が死ぬ少し前、30分とか1時間、又ある場合は数日前に、生と死の境のベールがわずかに開かれて天国を垣間見る経験をしていることであり、まわりに居合わせた家族がそれを証ししています。また、中には死んでから又生きかえって、その経験を話している人もいます。彼らの話には多くの共通点があり、殆どのものは聖書の言葉が正しいことを証明するものです。
マーサはそのことを憶えていました。そして「マイク、あなたの言ったことは本当だったわよ。生と死の間のベールが本当にちょっとだけ上げられる時があって、死の向こうがチラッと見えるの。2日前にはイエス様を見ました。1、2分だけだったけれど、私はそれが夢ではないことがわかったわ。主は何も言われなかったけれど部屋の隅に立って私に微笑まれました。イエス様が去ったあと、主の臨在の感覚の波が私に押し寄せてきました。2、3時間もの間、私は主に愛されているのを感じ、主への愛を感じたの。こんなに強烈な感覚を持ったのは今までなかったわ。恐れなど少しもなく、ただ喜びだけがあって、最高に平安で穏やかな気持だった。」「それから私は眠ったのですが、夢を見ました。夢の中に天使が現れ、何も言わなかったけれど、又あのすばらしい愛と喜びの感覚の波が押し寄せてきて1、2時間も続いたのよ。私は死のプロセスがこんなにすばらしいものとは知らなかった。それから又数日してから、私は天使のクワイヤーが歌っているのも聞いたの。・・・2、3日毎に私はチラッとベールの向こう側が見えるのだけど、そのあと何時間も平安と喜びの至福の時をすごすのよ。マイク、本当に驚きです。死のプロセスはまったくすばらしいわ。確かに天国はもっとすばらしいと思うけれど、死がこのようなものとは知りませんでした。若い人たちにこのことを教えてくださいね。主は私をこのように生かしておられるのは、みんなにこのことを知らせるためだと思いますから。」
マーサは人生を信仰深く歩んで来て、沢山の友人がおりましたので、みんなに自分の体験を話しました。早く天国に行きたいと主に申し上げるのですが、主は目的をもってこの期間を伸ばしておられるのでした。
彼女の結婚生活はすばらしいものでした。ご主人はもう亡くなったのですが、40年以上の結婚生活でした。マーサは「私たちの結婚は最高だったわ。」といつも言っていました。ところが私が昨夜又電話したとき、彼女は次のように言いました。「マイク、あなたに話したいことがあります。死ぬことは結婚よりいいわよ。」私は「えっ、何ですって?」と言いましたが、彼女は、「世界中で一番すばらしい結婚をしていた私が言うのだから間違いありません。死の経験は本当に結婚よりすばらしいのです。みんなにそのことを知らせたいの。どうか今日私が天国に行けるように祈ってちょうだい。」私は「マーサ、いやいや、もう少しこちら側に留まって私に情報を沢山ください。この情報が私には必要です。」と言いました。(笑)私たちはこのリアリティーをいつも思い出す必要があります。第一コリント15章にある私たちが持つ復活の希望は人生の錨であり、毎日思い起こすべきものです。
先ずパウロは「キリストは私たちの罪のために死んだ」と言っています。罪のないお方が私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。神の法廷で私たちに罪が無いことを宣言されました。私たちの罪が処理され、負債が支払われました。
次に「キリストは三日目によみがえられました。」です。肉体を持った人が死に、よみがえりの肉体をもってよみがえられたのです。歴史上の出来事です。旧約で預言者エリアが人をよみがえらせたことがありますが、その人は何年か後にはまた死ぬのです。ですから「息を吹き返した」と言ったほうが適切でしょう。しかしイエスは完全な超自然的な肉体をもってよみがえられました。そのようなことはイエスが初めてでした。20節でパウロは「キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と言っています。キリストの復活はあなたにも関係が大有りです。「初穂」という言葉は、これからも多くの者がキリストと同じようによみがえることを示唆しています。信者が死んだときには瞬時にして彼の霊は主と共にあります。一瞬でもどこか途中でさまようということはありません。肉体は地面や海など、それぞれの場所で朽ちていきます。神はイエスが再臨される終りの時に、それらの朽ちた肉体が墓から再生されて出てくるように命じられるのです。
すべての信者は自分のDNAのよみがえりの身体を与えられます。それぞれが自分のDNAを持っていることは大切なポイントです。あなたは自分というアイデンティティーをもってよみがえるからです。同じ人種、性格、特徴、能力、姿などは全くあなたであり、それが完全になっているのです。ですから私たちが互いを見た時に、誰かがわかりますし、以前のことも憶えていますから、問題なく関係を続けられます。イエスが初穂となり、私たちイエスを信じる者は救いを受け,主と同じようによみがえるというすばらしい約束が与えられたのです。
私が読んだ数えきれないほどの死の体験談や直接本人に聞いたことで共通していることがあります。(私はすべてを信じるのではなく、聖書と一致していることだけを取り上げています。)ある人は交通事故で死んだのですが、自分が死んだことが全くわかりませんでした。「ああ、危ないところだった。」と言って起き上がり、あたりを眺めると自分の身体が地面に横たわっています。「へえー、これはどう言うことだ?私はちゃんと生きている。あそこに横たわっているのは誰だろう?僕に似てるなあ..」と彼は思ったというのです。それほど死んだ後も「自分は生きている」という感覚はリアルなのです。彼は救急隊員に助けられて息を吹き返したのですが、私たちは死んだ瞬間にキリストと同じよみがえりの身体を頂けるのです。
ピリピ3:21「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じすがたに変えてくださるのです。」
第一ヨハネ3:2、3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対する望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
これが私たちの持つ望みであり、私たちが人生の様々な風に揺り動かされないようにする錨です。様々な偽りの教義の風が吹き起こってくる時、あるクリスチャンたちはその風に吹かれてしまいます。又波も起こってきます。それは困難な状況、あなたをあきらめさせ断念させようとする問題の波です。しかしそのような風や波に襲われたとき、それに負ける必要はありません。あなたには錨があるからです。少しぐらついたり揺れたりはするでしょう。しかし決して動かされないための錨があるのです。それこそが私たちが持つよみがえりの望みです。教えの風や困難の波が襲ってくるときに、「私は吹き飛ばされない、あきらめない。私はよみがえりの息子、娘であって、行くべき目的地を知っているのだから。誰に仕えているか、誰を愛しているか、誰を信頼しているか、私は知っている。私は主を知っている!」と言えるのです。ヨハネはこの望みを持つ者は自分を清めると言っています。キリストが清くあられるように、主に従う私たちも復活の望みを持ちつつ自分を清めて生きていくのです。(終り)