Faith Has Many Faces – Eric Johnson JAPANESE
同時通訳:相馬伸子
ヘブル 11:1、ルカ 17:5
信仰の話をしましょう。
信仰とは、「目に見えないものを確信させる」とありますが、それはどのような事でしょうか?例えば、私の上着でマイクスタンドを隠し、同時に私が人生で一度もマイクスタンドを見た事がなく、知識もなかったとしましょう。しかし、上着をとったら、覆われているものがなくなり、その下にあるマイクスタンドが見え、人生の土台に必要な事として自分の人生に加える事ができます。信仰は「活性化」する事なしに、知ることはできません。信仰は「働かせる」事がひつようなのです。
ルカ書から見える様に、弟子達は多くのしるしや不思議、奇跡を体験し、それを見、行ってきました。
イエス様は弟子達に力と権威を与え、それを良いとされたのか、70人の弟子達をも送りだしました。
弟子達は力と権威を与えられ、癒し、悪霊を追い出し、力を持って働き、驚いた事でしょう。しかし、同時に彼らの人格の未熟な部分も同時に現れ、ついにはイエス様は彼らを叱ります。
人は、一つの事を達成すると、安定や安心を求める性質があります。大変な山を登ったなら、もうそれから先には進まず、自分は前人未到の所にきたからもう安定したい、という「クルーズボタン」を押すのですが、弟子達はそうではなく「私達の信仰を増してください」と願いました。
「自分が知らない事」「もっていないこと」を知らなければ、私達がそれを求めたり。追いかけたりすることはできません。私は以前ランディークラーク師の集会に奉仕をして当時の人生で最も顕著な癒しを見て、自分を通して癒やしも行われました。それは80%の人が癒やしを受けて、「まあまあの出来」と彼は言っていましたが、私にとっては、新しい世界であり、その旅から戻って、ベテル教会で分かちあり、祈りました。でも、1人も癒されなかったのです。私が「他の方の油注ぎの下」にいたので、癒やしが沢山起こったと啓示され、自分はまだその賜物を「活性化」させてないことがわかりました。
そして、「敗北」「恐れ」がやってきて、その時は祈ることに恥ずかしさをかんじました。敗北や、恐れがあっても、止まる許可を与えないで、そこに根を下ろさないでください。神の声が聞こえるまで「主よ、わたしに信仰を増してください」といい続けましょう。そして、自分より大きな信仰の領域を歩んでいる人々、状況にいって、「主よ。わたしに信仰を増してください」と願う事ができる心に覚醒することを励まします。
English Podcast 英語音声: http://podcasts.ibethel.org/en/podcasts/faith-has-many-faces–2