匿名の記事です。
ピュリティ(純潔さ)の領域において、自身がどのように(神の)弟子として訓練され、またどうやって他の人を訓練すれば良いのかを知っていますか?どうするのが良いのでしょう?
最近私は、軽い関係を望んでいるというクリスチャンではない男性から、デートに誘われました。過去に男性からの誘いに弱かった頃の私を知っている人たちは心配していました。特に最近私は、自分の結婚が叶えられるまで神を信じ続けることの困難さを、周りの人達に共有したところだったからです。でも、神が私を自由にしてくれて以来、私は神の光の中を歩み、そして神が導いてくださった人たちと共に歩んできました。その道から外れるということは、神の光を避け、いくつかの意図的な選択をすることを意味します。私は自分の人生の中で、この領域は訓練されるべき領域として受け止めています。
私が10代の頃に性的なことで苦闘していた過去について話したり、大人になってからも時折、誘惑に苦闘していることを共有した時、それを聞いた相手はどうすればいいのか、なんと答えたら良いのかがわからず、困惑しているのをよく目にしました。
そんな中、私に無理なく話をさせてくれた先生や、私が苦闘していた10代の頃、助言をくれた方たちに感謝しています。また、私のような宣教師の子供達のユースグループを訪ねてくれた、短期ミッションチームのメンバーにも感謝しています。当時苦闘の真っ只中にいた私は、彼女達に対して心をオープンにして相談をすることかできたのです。当時の私の日記にも記していますが、その方たちを通して私は、神の愛を強く感じることができたのです。その当時私の隣に座って話してくれた方も、15歳の時に、この世的な関係を異性と持つことになってしまったのだと教えてくれました。また、私が反抗期のピークにいた頃に、私にしばらく会っていないのでどうしているのかと気になり、ある日曜日にふと電話をくれた、私の両親の友人達に感謝しています。私をどう扱って良いのかわからず、困り果てていた私の両親にアドバイスをくれた方にも感謝しています。彼は私の両親に、ひざまずいて神に助けを求めるようにと助言をされ、その後私の人生は彼らの祈りによって変えられていったのです。
それでも高校生の頃などには、私は恋人と小さな教会の礼拝堂に座り、礼拝前に互いに触れ合ったり、いつその続きをしようかとメモを交換しあったりしていました。そんな時私たちの前を通りかかった多くの大人達が私たちのことを心配していましたが、もしそのうちの幾人かが、「あら、この2人には弟子訓練が必要だね」と気づき、女性が私と、男性が彼とともに歩んでくれていたなら、私達にどんな変化がもたらされていたでしょうか。
そして今、大人になった私は、神の性的価値に従い12年が経ちました。もちろんその間にも苦闘した時期がありました。そんな時に私の話を聞いてくれ、私が道を外れそうな時には教えてくれ、私を励まし、私と共に、また私のために祈ってくれた姉妹達に感謝しています。
皆さんはどうでしたか?デートや性的な領域において、過去にどんな訓練を経験しましたか?もしまだその領域で訓練を受けたことがなければ、過去の経験を思い出し、どんな訓練を受けておきたかったのかを教えていただけませんか?あなたの過去の訓練の不足について共有していただくことは、決してあなたのメンターや教会の家族、または両親に恥を与えるものではありません。こういった話をするのは、あくまで弟子としての訓練をする、または訓練をされるということを学ぶためなのです。
ピュリティ(純潔さ)においての弟子訓練について、私の考えをいくつか共有させてください。そして是非あなたの考えも聞かせてください!
弟子訓練とは、光の中を歩むということです。
罪を告白しましょう。罪を犯そうとしてしまう苦闘について告白しましょう。私はそれらを共有することが重要だと考えます。私はもともと自分の経験を表に出して伝えるタイプなので、自然にそうすることができます。ですが本来、人は他の人に言えないことや、恥ずかしいことは隠そうとする性質があります。若い成人として私は、何かを暗闇の中に隠してしまうことは、その問題を更に大きくしてしまうだけだということを学びました。それ以来、何事も光の中から隠したくないと思っています。私は過去に誘惑の中にあった時、誰かにそれを共有した後ですぐ、その苦闘が軽減された経験を幾度となくしてきました。弟子訓練とは、誰かと共に歩むことが必要とされます。弟子訓練とは、一方通行の会話では成り立ちません。
「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(ヨハネの手紙1:7)
あなたを信じて共有してくれる人たちにとって、その信頼に値する人になりましょう。
主の御名によって2人もしくはそれ以上の人たちが集まる時には、主もそこにおられ神聖な時となるのです。噂話をしてはいけません。誰かのことを話したり、名指しで話したり、特に話し相手が知っている相手について話したりしてはいけません。あなたの考えがいつも正しいとは限らず、誰かをを傷つけてしまうかもしれないからです。
独身の人が性的な苦闘について話す時、驚かないでください。
そうです、独身のクリスチャン達も性的なことについて考えるのです。神が性を創られたので、私たちは性的な存在なのです。そして神の創造物は素晴らしいのです。性的な存在でありながら、禁欲の独身生活を送ることは、少なからず奇妙なチャレンジであると言えるでしょう!でも私たちより以前にそういうお方がおられましたね、、褒め称えられるべきお方です。「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」(ヘブル人への手紙4:15)
結婚している皆さんは、独身の人たちの家族となってください。
独身の人たちが既婚者である皆さんに人生をオープンにするように、結婚している皆さんも人生をオープンにしてください。結婚している方たちが、結婚生活のあるべき姿について見せてくれなかったら、私たち独身者はどこでそれを学ぶことができるでしょうか。私は今いるコミュニティの皆さんを通して、結婚についてたくさんのことを学びました。私を家に招き入れてくれました。その時にお互いにとっての弟子訓練が自然と起こるのです。もし誰かの家で共に過ごしたなら、リアルな生活は隠せないですよね!ありのままで共に過ごす時間を通して、互いのことを深く知ることができるようになるのです。ある時私が困惑していて「えっ!?」というような考えを友人に伝えた時、その友人は真っ先に「それはあなたの本心じゃないでしょ!」と言ってくれたことがあり、助けられたのです。今言ったこととは正反対のことを、これまで何度も私に話してくれたじゃない、と言ってくれたのです。そういう友人との関係があったので、その時の自分の考えは敵の嘘で、受け入れてはいけないものだと気づくことができたのです。